触れ合う僅か数センチ
俺は口の中に残っていた砂を吐き捨てて、運動場に設置されている蛇口のハンドルを捻って、顔についた土を洗い落としていた。
スライディングした際に体勢を崩した俺は、地面に顔を埋めるような形になってしまい、汚れてしまったのだ。目に砂が入らなかったのが幸いだった。
「ふぅ」
水を止めて一息つくと、「ほらよ」と、上からタオルをかけられる。顔を上げれば斗真が立っていた。「サンキュ」と言葉を述べて顔を拭きつつ、俺たちは歩き出した。
「三年生強かったなー」
斗真が天を見上げて悔しそうに呟くが、その表情はとても清々しいもので、「そうだな」と俺も淡い笑みを浮かべる。
俺たちは準決勝で負けた。
最後のクロスプレーはアウトの判定だったのだ。相手の中継プレーは外野、内野は野球部。キャッチャーも野球経験者が行っていたため中々のものだったらしい。
同時刻で別のグラウンドでやっていたもう一つの準決勝は真司たちが勝ったらしく、もうじき決勝戦が始まろうとしているところだろう。
「良介のスライディングするときの猛々しい顔。カッコよかったぜ」
「バカにしてんだろ。おい」
タオルをかけてくれたことには感謝しているが、それとこれとは別で斗真の肩を軽く叩く。「ごめんごめん」と斗真は手を合わせて謝罪の言葉を口にする。
「それよりも大丈夫か?派手にスライディングしてたけど」
「まぁ軽い擦り傷くらいはできてるかもな」
寒さ対策用に履いていたスパッツのお陰で、それなりに軽減できたようだ。その代償に砂まみれの土まみれになってしまったので、家に帰ってからは体操服と一緒に手洗いしなければいけないが。
「あー。楽しかったけど、やっぱ負けんのは悔しいな。来年も同じクラスなったら今度こそは優勝しようぜ!」
「違うクラスになったら?」
「そんときはボッコボコにしてやる」
「返り討ちにしてやるさ」
軽口を叩きながら、俺たちは決勝が行われるグラウンドへと向かった。
☆ ★ ☆
戻った頃にはちょうど決勝が始まっていた。優奈と瀬尾さんは少し離れたところの芝生で腰を落として試合を観戦していた。「優奈」と声をかけると、彼女は口元を緩めた。
「お疲れ様でした」
「おう」
「良くん。顔がまだ少し砂で汚れてますね」
「え?どこ?」
「拭いてあげますから座ってタオル貸してください」
優奈にタオルを手渡すと首元を喉仏に近い辺りを優しく拭き始める。汚れは洗い落としたと思ったのだが、ちゃんと取りきれていなかったのか。鏡は持ってないので確認のしようもない。汚れの場所も場所だっただけに斗真も気が付かなかったのだろう。
「取れましたよ」
付いていた汚れを拭き終わった優奈は目を細めと、俺も微笑みを浮かべて「ありがと」と言った。
そのやりとりを間近で見ていた二人は何やら居心地が悪そうにそわそわした様子を見せていて、
「そうだ。俺たち、ちょっとあっちで試合を観てるわ。二人の邪魔するのも悪いし」
「そうだね。天ちゃん、また後で後でね」
そう言い残して何処かへと行ってしまった。
「急にどうしたんだろうな」
「わたしたちに気を遣ってくれたのかもしれないですね」
首を傾げている俺に、優奈はクスッと笑う。
考えても仕方がないので、視線をグラウンドの方へと移す。
打席には真司が入っていて、ヒットを放ち、「おー」と俺は思わず感嘆の声を漏らした。その前の秀隆も鋭い打球を飛ばしていた。運動部の生徒は運動センスが高いのだろう。
「やっぱすげーな。斗真も真司も秀隆も」
「良くんも凄かったですよ」
「俺の場合は最後の最後でアウトになっちまってカッコ悪かったけどな」
「そんなことありません。わたしには良くんは誰よりも輝いて見えましたよ。打った姿の良くんも懸命に走る良くんの姿も凄くカッコよかったです」
自虐の言葉を口にするも、優奈は首を振って強く言った。そう褒められると少し照れくさくなり「どーも」と呟き視線を落とす。
「……まぁ、最後打てたのは優奈の応援のおかげかな」
「え?」
しばらく間を空けて、俯いていた顔を上げてそう言うと、優奈は少し驚いたような顔を見せる。斗真たちを除いては、三年生チーム(主に川上先輩)の声援で溢れかえっていたので、俺を応援する優奈の声は、あの場では異質で大いに目立っていただろう。でもその応援が俺に力をくれたのだ。
「優奈の応援。ちゃんと聞こえてたよ。めっちゃ嬉しかった。ありがと」
素直な想いを伝えて満面の笑顔を浮かべると、体育座りしていた優奈は膝に顔を埋める。表情を見られないようにするためだろうが、それでも優奈の頬は見てすぐ分かるくらいに赤く染めていた。きっと自分が言ったことを今になって思い出して恥ずかしくなったのだろうか。
「そ、その笑顔は反則です……ますます好きになっちゃうじゃないですか……」
紅潮していた顔を上げることなく、向きだけ変えてこちらを見つめると、桜色の唇を開く。
自分の発言に対しての羞恥心ではなく、俺の表情を見て優奈はリンゴのように顔を真っ赤にしたのだ。
「可愛い」
思っていたことが口から漏れてしまい、俺は手で口を塞ぐ。横目で優奈に視線を送ると、今にも湯気が出そうなほどに頬を朱色に染めていた。
自宅でこんな姿を見せていたら今すぐにでも抱きしめていたのにな。と微笑みを浮かべながらそう思っていると、
「危ない!」
ボールを捉えた音と共に、悲鳴のような声で言葉が飛ぶ。鋭い打球が低い柵を越えて、俺たちの方へと向かってきたのだ。
「優奈!」
「キャッ!」
咄嗟に優奈の身体を抱き寄せると、目を瞑り庇うようにして芝生に倒れ込む。打球は僅か数十センチほど右に逸れて、そのままの勢いで転がっていった。あのままでは優奈に直撃するところで、まさに危機一髪だった。
「優奈!大丈夫……か……」
目を開いて優奈の安全を確認しようとしたところで、俺は息を呑んだ。優奈を守ろうとした結果、覆いかぶさるような形になってしまい、鼻先が今にも触れそうなほどの至近距離にお互いの顔はあった。
「はい……大……丈夫です……」
俺の問いかけに優奈は小さく頷く。
勢いよく倒れ込んだが、右手で彼女の頭に支えていたので頭部への衝撃もかなり抑えられただろう。右手が少し痛むが、優奈が無事ならば全然安いものである。
優奈の吐息が近くで感じる。いつもと変わらないはずなのに、それが妙に色っぽく見えた。
ドッドッと、鼓動の音が速くなる。それはどちらのものかは分からない。俺か優奈か、それとも両方のものか。
ほんの少し顔を動かせば唇が届きそうなほどの距離にいて、俺は思わずごくりと唾を飲み込むが、ここは学校。しかも生徒の目がこちらに集まっているのだ。息を吸って熱くなっている頭を冷やすと、優奈の身体を支えるようにそっと起こす。
「そうか……怪我がなくて良かった……」
「ありがとうございます……助かりました……」
「その……なんだ。もう少し離れたところで見ようか。今みたいな打球が飛んでくるかもしれないし」
「そうですね」
先ほどまでの優奈の色っぽく紅潮した顔と吐息が脳と耳に強く残っていて、それを追い払おうと頭を横に振ったあと、優奈に手を差し出す。
優奈もその手をとって、俺たちはそこからさらに離れた場所で試合を観戦することにした。
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