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お姫様の反撃

「ただいまー」


 そう言って家のドアを開くと、優奈が玄関まで来て「おかえりなさい」と出迎えてくれた。彼女の屈託のない優しくて可愛らしい笑顔は、疲れを一瞬で吹き飛ばせるほどの威力を兼ね備えていた。


「お風呂はもう沸かしてあるので先に入ってきてください。その間にご飯の準備は済ませておきますから」


「ん。分かった」


 脱衣所へと向かい脱いだ洋服を洗濯機へと入れていく。冷え込んできた夜道を歩いていたので早く身体を温めたかったし、軽く汗をかいていたので早く流したかった。


 キッチンからはジューっと水分の飛ぶ音が聞こえる。香ばしい香りが閉めていた扉から漏れてきて、俺の食欲を刺激する。夕飯の詳細は詳しく聞いていないので、優奈が何を作っているのかを予想しながら浴室に入った。


☆ ★ ☆


「あー。気持ちよかった。腹減った……」


 入浴を済ませた俺は、閉めていた脱衣所の扉を開く。上下黒の機能性重視で選んだシンプルな寝巻だ。


「良くん。先に髪を乾かしてきてください」


「ご飯食べてから乾かすよ」


「ダメです。風邪を引いてしまいます。ちゃんと乾かしてからご飯食べましょう」


「えー。めんどくさい」


 俺は首にかけていたタオルで髪を拭く。

 一応水気はとっているので問題ないと思うのだが、優奈はお気に召さないようで、注意の言葉をかけるその姿はまるで子供を躾ける母親のようだった。


「分かりました。じゃあわたしが髪を乾かしてあげます」


 仕方ない、と呆れた表情で脱衣所へと向かい、しばらくして戻ってくると、手にはドライヤーが握られていた。

 優奈にそんな顔で見られたのは久々で出会って間もない頃、口を開けば毒を吐いてた彼女の姿を思い出していた。


「椅子に座ってください。このままじゃ届かないです」


「あっす」


 優奈の料理を早く口にしたい。そのためにはこれ以上変に文句を言わず言う通りにしておくのが一番だ。

 椅子に腰掛けると、手始めに優奈は首にかけていたタオルで俺の髪をもう一度拭き始めた。

 

「痛くないですか?」


「大丈夫。むしろ気持ちいい」


「良かったです」


 拭くときは少し雑になる俺に対して、優奈は髪を傷つけないよう優しく丁寧に拭いてくれている。少しくすぐったくて頭を動かすと「動かない」と言葉が飛んできた。


 拭き終われば、今度はドライヤーのコードをコンセントに差し込んで髪を乾かし始める。


「熱くはないですか」


「うん。ちょうどいい」


 髪を乾かしてもらうなんて小学校以来で若干の恥ずかしさはあるものの、それ以上に心地よさと安心感が勝っていた。何よりこうして彼女に髪を乾かしてもらうという、特別な人じゃないとやらないことをやってもらえて、幸福感を覚えていた。

 後ろと横、そして頭頂部の髪を乾かしてもらい残すは前髪。優奈は俺の前に立ち、ドライヤーを当てる。


「なんか……機嫌良さそうだな」


 ドライヤー音で聴こえているか分からないが、優奈の今の姿を見て、俺はそう言った。

 やってもらう分には気持ちいいのだが、やる側からしたら手間でしかないだろう。だが優奈は、楽しそうに俺の髪を乾かしているのだから気にもなる。


「やってみたかったんです。好きな人の髪を乾かすの。気持ちよさそうにしてくれて安心しました」


「誰かにやってもらえるのは普通に気持ちいいからな。優奈の手も安心するし」


 優奈はドライヤーを切る。水気が残っている感覚もなく完璧に乾いているだろう。


「そう言ってもらえると彼女冥利に尽きます。良くんさえ良ければ、これから毎日髪を乾かしてあげてもいいんですよ?」


「それはなんともまぁ魅力的な提案」


「おまけに耳かきもしてあげます。もちろんわたしの膝枕付きです。眠くなったらそのまま寝ても構いません」


「おまけにしてはすげーサービスだな。本格的に堕としにきてるじゃん。もちろん俺が堕落したら責任はとってくれるのかな?」


 髪を乾かしてもらって膝枕付きの耳かき。

 そんな天国にいるかと錯覚するようなことを、毎日されてしまっては、今以上に優奈のことを好きになってしまう。もちろん堕落するつもりはないのだが、試すように俺は優奈に尋ねた。


「そうですね……」


 そう言うと、優奈の雰囲気が変わった。いつもの穏やかで温厚な彼女が、何かを企んでいる性格の悪い小悪魔、いや魔女を思わせるほどの妖艶な笑みを携えては俺の耳元で、


「そのときは……一緒に堕ちましょう。ね?」


 まさに魔女の一声。動くことも考えることすらもさせてくれない、一度聴けば夢中にさせるほどの中毒性のあるその言葉は、誰もを誘惑し、魅了し、魅惑し、悩殺させるだろう。


「堕ちるところまで堕ちて、そこから一生抜け出せなくなるくらいに甘やかしてあげます。何もしたくないって思うくらいに」


 脳が溶ける。


「良くんは何も心配しなくてもいいんです。何も考えなくてもいいんです。安心して堕ちてください……」


 官能的な言葉と耳元に当たる吐息が思考を削いでいく。やがて考えることすらもできなくなってーー


「……なーんて、冗談です」


「……は?……え?」


 近づけていた顔を離した優奈の表情は先ほどまでの色気はなく、いつも通りの優奈に戻っていた。先ほどまでの彼女と落差がありすぎてついていけない俺は、情けなく戸惑いの声を漏らす。


「堕落なんてさせません。もし良くんがそうなったら、上から引っ張るか下から持ち上げます」


「だ、だったら最初からそう言えよ」


「いつもわたしばかりドキドキさせられてるので、たまには良くんにもドキドキしてほしいなって思って」


 言った恥ずかしさもあったのか、仄かに頬を朱色に染めてはにかみ笑いを見せていた。


「それで、ドキドキしてくれましたか?」


「……してない」


「また強がって。耳まで赤くしているのにそれは無理がありますよ」


 今の俺は身体全体が赤くなっているだろう。告白したときと同等の熱さが宿っていて、動悸が速くなっていた。お風呂上がりだからという理由も通用しないだろう。何せそれ以上に身体が熱く、赤く染まっているのだから。


「と、とりあえずさっき出した案は、毎日はやらなくていい……やってほしくなったときにお願いする……」


「分かりました」


 まだ少し動揺している俺を見て、優奈は微笑みながら頷く。

 

 冗談とは言っていたが、毎日されると優奈にその気がなくても本当に堕ちてしまいそうだから怖い。その日の俺の気分によってやってもらう方がいいだろう。


 そもそも今まで自覚がなかっただけであって、優奈の甘やかしを受けてしまった時点で、もう俺は堕とされてしまっているのだ。

 今となっては登下校は当たり前。平日の学校は彼女の弁当がないと生きていけない。もうそこまで俺の生活の一部に優奈はいて、いなくてはいけない存在になっていたのだ。


 まさかこんな形で分からせられるとは思わなかったと、キッチンで夕飯の準備をしている優奈を眺めながら、俺は思った。

お読みいただきありがとうございます。

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