初日を終えて
「もうこんな時間か」
食器を洗いながら時計に目をやると、俺はボソッと呟く。針は二十時五十分を指していた。
バイト初日は予想していたより大忙しとはならなかった。強いていえば十九時から二十時半までが人の出入りが激しく、特に部活帰りや勉強場所として使用する学生の姿が多く見受けられた。
自己評価として、注文の品を素早く丁寧に提供することができたと思うので、初日にしては無難にこなせたのではないかと思う。
それでも文化祭での模擬店のときとは比べ物にならないほどの緊張が身体を支配していたので、合間合間で宮本や奏さんが声をかけてくれたのはかなり助かった。
十九時過ぎに大学生の森岡凱という男性がシフトに入ったことで、仕事を分担することができたことも余裕を持って行動できた要因の一つだろう。
ここでは高校生のバイト時刻は二十一時までと定めているので、俺たちはここでバイト終了だ。
「みんなお疲れー。柿谷くんもバイト初日お疲れさま。やっぱり大変だった?」
穏やかな表情を携えている羽田さんが皆にそう労いの言葉をかけ、俺にもそう尋ねる。
「はい。でも皆さんが常に声をかけてくださったおかげでなんとか」
「そうか。初日で疲れただろう。今日はすぐに帰ってゆっくりと休みな。次からも頼んだよ」
「はい」
「それじゃあ高校生組は先に上がって。二人はもう少しの間頼むよ」
凱さんの他にもう一人、同じく大学生の寺崎美羽という女性がキッチンにいる。
二人とも温厚な性格の持ち主だ。
「先に失礼します。凱さん。美羽さん」
挨拶をして厨房から出る俺たちに二人は「お疲れー」と声をかけて見送った。
着替えを済ませた俺たちは、肌寒い夜空の下にいた。
「カッキーお疲れ」
「純也もな」
勝手に決めたというルールで宮本を名前で呼ばようになってから、純也で定着してしまったのでこれからは学校でも純也と呼ぶことにした。
「良介くん、じゃあね。帰ったら早速<ディスログ>の最新巻読んで、そのあとはゲームだー」
「はい。ほどほどにしてくださいね」
仲良さそうに話しながら帰っていく二人の背中を見送った俺は、スマホを取り出して優奈に『今から帰る』とメッセージを送って歩き出した。
働いた初日の感想としては『疲れた』の一点に限る。職場の雰囲気は悪くない。むしろいい部類に入るだろう。奏さんやトモさん、他の人たちも俺がここに馴染めるように気を遣っているのではなく、本当に優しいのだ。
だが、人間慣れないことをやれば疲労は確実に蓄積される。緊張から解放されたことで溜まっていたものが一気に押し寄せてくる。首や肩周りは少し凝っていて、俺は眉間を少し強く摘んだ。帰ってからは軽くストレッチしないとな、と思い首を横に曲げる。
通知音が鳴って確認すると、『分かりました。気をつけて帰ってきてくださいね』と優奈から返信が来ていた。
その瞬間、重いと感じていた身体が少しだけ軽くなったような気がする。単純だな、と思いながらも俺は口元を緩ませる。
(お腹空かせて待たせるわけにもいかないし、早く帰らないとな)
いつもより早足で、俺はアパートへと帰宅した。
☆ ★ ☆
「ただいまー」
リビングに向かえば、味噌汁のいい匂いが俺を出迎えてくれる。
「おかえりなさい」
味噌汁をお椀に装っていた優奈が笑顔で出迎えてくれた。上下ミント色のもこもこでゆったりとしたボーダー柄の部屋着姿はふんわりとした印象をプラスして、優奈の雰囲気とよく合っていた。部屋着というよりは寝巻に近いと言えるだろう。
「よそっておきますから、良くんは手を洗って着替えてきてください。その間に準備は済ませておきますから」
「分かった」
洗面所へと移動し手洗いを済ませて部屋着に着替える。戻ると、彼女は主菜を盛り付けていていた。白米と味噌汁は既によそわれていたのでダイニングへと運んでいく。
準備を終えた俺たちは、手を合わせて少し遅めの夕食をいただく。疲れた身体に優奈のご飯が染み渡る。これ以上ない至福だった。
「お仕事の方はどうでした?」
「まぁ今日のところはなんとかな。徐々に慣れていかないととは思ってるよ。職場の人もいい人たちだし。それに純也……宮本もそこで働いててさ」
「宮本さんもあそこのファミレスで?」
「そうそう。向かってる最中にばったり会ってさ。驚いたよ」
俺は味噌汁を口にする。優奈の料理はどれもこれも優しい味でホッとする。まるで実家のような安心感がそこにはあった。
「今度、わたしも客として行ってもいいですか?」
「構わんが、斗真にも言ったけどキッチン担当だから行っても俺の姿なんて見れないと思うぞ」
「それでもいいです。良くんがここで頑張ってるんだなって感じられるだけでいいですから。制服姿が見れないのは残念ですけど、良くんの料理だって食べられますし」
「料理はマニュアル化されてるから誰が作っても一緒だし分からんと思うぞ」
家で作る分には人それぞれのやり方、味の好み等があるが、店には店の味がある。当然俺たちは、それに沿って作っていくわけなので見分けることなど不可能に近い。
「それでも行きます」
「あ、あぁ。分かった」
そこまで強くいうのであれば止めることはできない。姿は見られないのに、何故か情けないところは見せられないなと、強く思った。
☆ ★ ☆
夕食を食べ終わると、俺は食器を洗っていた。
ご飯を作ってもらって遅い時間まで待ってもらっていたのに、片付けまでやらせるわけにはいかなかった。
お風呂も俺が帰ってきたタイミングと同時に沸かし終わったらしいので、洗い物が終わればすぐに入れるだろう。
後ろに引っ付いているお姫様さえ退かすことができればの話だが。
食器を洗っている俺の背中に彼女の身体があって、お腹に手を回してきて抱きしめてきているのだ。
「優奈。もう十時回るし早く帰ったほうがいいぞ。明日も普通に学校あるんだし」
「嫌です」
振り向いてそう言うと、優奈は唇を尖らせては少し力を入れて抱きしめて、顔を背中に埋めた。
「バイト終わりでお風呂入ってないんだから汗臭いぞ」
「汗臭くなんかありません」
零距離でスンスンと鼻を鳴らすのだから、背筋がこそばゆい。後ろから抱きつかれているので、当然柔らかい二つの小さなものが背中に押しつけられている。優奈はそんなことには気にも留めないよう様子だ。
「寂しかったんだから……これぐらいいいじゃないですか……」
優奈が小声でポツリと呟く。
「……洗い物が終わるまでな。それと明日は買い物に付き合ってくれ。明日はハンバーグ作るから」
途端に優奈の表情が明るくなる。今すぐ撫でてやりたい衝動に駆られるのだが、手は泡まみれになっているので帰るときに撫でてやることにしようと決めたのだった。
お読みいただきありがとうございます。
ブクマ、評価等いただけたら嬉しいです。




