軽やかな足取り
一昨日の緊張や不安感は何処へやら。鼻歌混じりに軽い足取りでバイト先へと向かっていた。
あまりの身軽さは、まるで背中に翼が生えたような感覚で今なら空さえも飛べそうな気がした。
頬に触れた潤った優奈の桜色の唇の感触。触ったことのあるもちもちとした優奈の頬。先ほどまでの全ての感触、行動、光景が強く刷り込まれていて脳裏をよぎる。
(お仕事頑張ってきてくださいのキスってなんだよ……可愛すぎだろうが)
なによりその言葉が、表情筋をだらしなくさせる。今の表情はきっと情けなくて締まりのない顔をしているに違いない。友人にはもちろん、長い付き合いである斗真や瀬尾さんにも見せられない表情だ。
一応クラスでは、成績上位、スポーツも人並みにできる生徒という設定(自分ではできているつもり)で通している。そんな奴がこんな顔をしているとは知られたくない。斗真や瀬尾さんには恥ずかしいので知られたくない。
(まぁ……優奈には見られてもいい……かな。てか多分何度も見せてるだろうしな……)
優奈には弱いところも泣いているところも全てを曝け出している。今更情けないところの一つや二つ見せたところでもう何も変わらないだろう。
情けない姿も甘える姿も優奈の前でしかやらないし、彼女の熱で溶けきった甘い表情も俺以外の男連中に見られたくない。
だが登校中は手を繋いで頬を緩ませながら歩いているので、毎日誰かしらの目に優奈の笑顔が映っている。かと言って手を繋がなければ、捨てられた仔犬のように物凄く寂しげな目でこちらを見つめてくるし、俺だってど手を繋ぎたいのでそうするわけにもいくまい。
(それでも、家にいるときの優奈を知っているのは俺だけだしいいか)
学校でのことは百歩。いや千歩譲ったとして、家で甘えてくる優奈の姿だけは死んでも見せたくない。もし見た奴がいたらそいつの記憶を飛ばしてやりたくなるほどに。
思えば思うほどに、俺は優奈が好きなのだと自覚させられるし、大切にしたいとそう思った。
いかんいかん。集中しなくては、と思い自身の頬を少し強めに、紅葉痕が付かない程度で二回叩いてスイッチを切り替え、己の中で緊張感を作り出す。
この世の全ての出来事において第一印象がものをいう。良ければ周りとのコミュニケーションも円滑にとれるだろうし、困っているときに頼めばサポートだって入ってくれるだろう。
逆に悪ければその時点で浮いた存在となってしまい、一気に孤立してしまうだろう。定めた目標のためにもそれだけは絶対に避けなければいけないことである。
バイト先は駅に近いところにあるため、多くの建築物や人で溢れている。中には学校帰りで友達とお洒落なカフェやカラオケに足を運ぶ学生の姿も見受けられる。それでも都会に比べたら可愛いものなのだろうが。
もう数分でファミレスに辿り着く……というところで、「カッキー?」と背後から聞き慣れた声が聞こえた。そこには制服姿の宮本が立っていて、軽く手を上げていた。
「鞄も持たずに制服姿なんて……どこか急ぎの用事でもあったの?」
俺の荷物の少なさと制服姿に違和感を抱いた宮本が首を傾げる。学校の帰り道なら鞄を持っていないとおかしいのに、その鞄を持っていないのだからその疑問を抱くのは当然だろう。
「今日からバイトがあってな。今からそのバイト先に向かうんだよ」
「奇遇だね。俺も今からバイトなんだ……もしかしてカッキーのバイト先って、ファミレスだったりする?」
「そうそう。よく分かったな」
「実は俺もそのファミレスで働いてるんだ。羽田さんから聞いたんだ。今度、俺と同じ高校の同級生の男子がくるからって」
羽田という人物はファミレスの店長の苗字である。問いかけに対して頷くと、宮本は表情を綻ばせた。俺たちは一緒にバイト先へと向かった。
「それにしても宮本がいてくれて安心したよ」
知り合いが一人いてくれるだけで心の持ちようが全然違う。今では宮本とは気兼ねなく話せる人物の一人なので、俺はホッと胸を撫で下ろす。
「働いてるファミレスの店員は女性の比率が高くてね。男性もいるっちゃいるけど他校の先輩や大学生だったりで同性の同い年は誰もいなかったから、来てくれたのがカッキーで本当に良かった」
「そんな環境でよく続けてこられたな……」
「買いたいゲームや小説があるからね。そのためなら頑張れるさ」
宮本は笑いながら言っているが、知っている人のいない完全アウェーな職場で働くのはかなり大変だろう。
「それじゃあ今日からよろしく。カッキー」
「色々と教えてくれよ。先輩」
軽口を叩きながら、店の関係者だけが入れる裏口の出入り口から中に入っていった。
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