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吾輩は人間である筈

作者: 碧生かずき

 吾輩(わがはい)は人間である。名前はまだ無い。


「まだ」とは誤謬(ごびゅう)だろうか。名前ならあったのかもしれない。

 だが、自分の過去など覚えていないのだから、それを証明する(すべ)はない。

 

 かの有名な物語の一説を記憶しているところからすると、大層な世間知らずでもなかったのだろう。

 自分の名前は忘れているのに、漱石(そうせき)は覚えているというのは可笑(おか)しな話だが。


 とはいえ、名前などなくても食い物や寝床には困らないだろうし、別段必要はないと思うわけである。

 人間という生き物は古来より、何かにつけて名前を与えたがるが、そんなものは後付けなのだから、己が何者かを表す要素にはなり得ないのだ。

 (かた)るだけで正体を(いつわ)れてしまうような曖昧(あいまい)なもので、そのものの本質を捉えることなどできるはずもない。


「ならばお前は何者だ」


 老人のようにしゃがれ、しかし子供のように高い奇妙な声だった。

 辺りを見回すと、路地のさらに奥の暗がりに、小さな目玉が二つ(きらめ)いた。

 そいつは闇に溶け込むほど黒い猫だった。

 猫が口を開く。


「確かに、名とは、人間が似通ったものたちを区別するためにつける、都合の良い記号かもしれん。ならば、真にお前をお前たらしめるものとは一体何だろうな。この星に何十億といる人間の中で、お前のみが持ち得るものとは何だ」


 そんなこと微塵(みじん)も興味はないが、暇を潰すあてもないので少し考えてみる。

 人間が何十億もいるなど想像もつかない。その中で吾輩だけが持っているものが存在するのだろうか。


 ふと、古びた窓ガラスに人間の影が映っているのに気付いた。それが自分だと思い当たり、答えてみる。


「容姿はどうだろう。吾輩は若い男で、黒い毛髪と黒い瞳を持っているようだ。随分間抜けそうな顔をしているな」

 

 しかし猫は淡々と返す。


「そうだな。それはお前の特徴と呼べるかもしれん。しかし、それに当てはまる人物は、ここを出ればごまんと見ることができるだろう」


 猫の口調に少々腹が立った。


「お前はなんなのだ。ただの猫が偉そうに、何もかも知ったような口をきく。吾輩を諭す前に、お前は己が何者なのか説明できると言うのか」


 猫の両眼が一瞬丸くなったかと思うと、すぐに三日月型に欠けた。


「できるとも。私は居酒屋のノラであり、車屋の黒であり、田中家の小豆でも、西野家のヨルでもあった、流浪(るろう)の猫だ。そして、お前が何者かをよく知っている」


 猫は流れるように唱えた。


「それだけか。それこそ、そんな猫はごまんといそうだな。多くの名前を持っていても、そのどれもがお前を語るには不十分なのではないか」


「これだけで十分なのだよ。名とは象徴だ。ノラとして、黒として、小豆として、ヨルとしての人生がそこに蓄積される。初めは何の意味も持たぬ記号でも、その名で過ごすうちに生の軌跡が刻まれ、お前だけを示す証となるのだ」


 ノラが、黒が、小豆が、ヨルが、暗闇から歩み出た。その姿があらわになる。黒い体は痩せ細って薄汚れているが、背筋はしゃんと伸び、大きな碧眼(へきがん)は輝きを帯びていた。


 そいつが現れた闇の底を見据えて呟く。


「象徴か。だが、吾輩には記憶がない。名前を取り戻したところで、そこに刻まれた生の軌跡とやらを垣間見ることはできないだろう。それでも」


「心配ない。私が手伝おう。お前という人間は、この世にお前しか存在しないのだから」


 深く息を吸い込み、吐き出す。それから、(あお)い眼差しを正面から受け止めた。


「お前は吾輩を知っていると言ったな」


「いかにも」


「吾輩の名前も分かるのか」


「いかにも。お前が望むなら、語ろう」




 彼の視線に促されて振り返ると、路地の入り口から眩い光があふれていた。


 光の中を、懐かしい人影が横切った気がした。


 喧騒が聞こえてくる。


 誘われるように、僕は踏み出す。


誤字・脱字など指摘していただけると助かります。

評価や感想などもお待ちしています。

最後までお読みいただきありがとうございました。

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