モノの名前探し
モノには名前がありませんでした。
もちろん、「モノ」というのは一応はこの元気な14歳の男の子の名前であります。
けれど、それは本当の名前ではありませんでした。
なぜなら、この「モノ」というのは、この国の人たちが使う言葉で、一つ、とか、一人、とかいう意味で、決して人の名前に使うものではなかったからです。
ほかの人たちは、ロイドとかマクシスとか、もっとちゃんと人間らしい名前を持っていました。
モノがモノと呼ばれているのには、わけがあります。
モノの母親は、モノが生まれた時に亡くなってしまいました。
モノの父親は、モノが生まれるよりも前に亡くなっていました。
ほかに身寄りもなく、生まれたばかりの赤ん坊は一人きりになってしまいました。
村の人たちは憐れんでこの子の面倒を見てくれましたが、誰もこの子に名を付けるものはおりませんでした。
なぜといって、名前とは、親か、親に代わる人に付けてもらうもので、この子にはそれが誰もいなかったからです。
それで、みんな、この子のことを、「一人ぼっちのあの子」とか「一人きりのあの子」などと呼んでいるうちに、いつの間にかその言葉、つまり「モノ」がまるで名前のようになってしまったのです。
モノは自分が物心ついた頃からその名前で育っておりますし、ほかの同じ年頃の子どもたちもずっとモノはモノという名前だと思っておりました。ですので、別にモノは自分の名前をおかしいと思うことはございませんでした。
ところがあるとき、村を通りかかった旅人の男が、モノがほかの子供からその名前で呼ばれるのを聞いて、顔をしかめてこう言ったのです。
「そなたのそれは、名ではない。一刻も早くしかるべき名を授かるべし」
モノにはその旅人の言うことがよく分かりませんでした。けれど、なんだかとても嫌な感じがしたのです。
それが、二年前のことでございました。
旅人の言ったことを考えてみれば、なるほど自分の名前はどこか人と違う。これはどうも人に付ける名前ではないようだ。
モノもそんなことを思うようになっていきました。
そして、自分も人と同じように、ちゃんとした名前をつけてもらいたい。徐々にそう思うようになっていったのでございます。
ですが、さっきも申しましたとおり、モノには親がいません。
名前を付けてもらうには、親代わりの人に頼まねばなりません。
モノはまず、自分のことを一番にかわいがってくれるタリオじいさんのところへ行きました。
「タリオじいさん、俺に名前を付けてくれ」
モノは言いました。
「俺、モノなんておかしな名前じゃなく、本当の名前が欲しい」
けれどもタリオじいさんは悲しそうな顔で首を振りました。
「わしだってお前に名前を付けてやれたらどんなによかろう。けれど、わしはお前の親でも親類でもない。お前の名前はわしにはつけられんのよ」
「それじゃ、誰に頼めばいいんだい」
「そうさな」
タリオじいさんは真っ白な髭をしごいて言いました。
「村長さんは、わしらみんなの親代わりみたいなもんだ。お前、ひとつ村長さんに頼んでみるといい」
それでモノは次に村長さんの家を訪ねました。
「村長さん、俺に名前を付けてください」
モノは言いました。
「俺、モノなんておかしな名前じゃなくて、本当の名前が欲しいんです」
けれども村長さんはいかめしい顔で首を振りました。
「残念だがわしにはお前に名を付けることはできん。わしは確かにこの村の村長だが、お前の親でも親類でもないからな」
「それじゃ、誰に頼めばいいんですか」
「そうだな」
村長さんはふさふさの眉をひそめて言いました。
「わしらの村を見守ってくださっているあの山の神様に頼んでみてはどうかな」
そう言って村長さんは村の裏の大きな山を指さしたのです。
それでモノは、山を登りました。
えっちらおっちらと登りました。
山はモノが思っていたよりも遥かに深く、村から見て山の頂上だと思っていたところは単なる途中の小さな突起に過ぎませんでした。
登っては下り、登っては下り、三日も山道を歩き続け、モノはようやく山の頂上に着きました。
丈の低い草しか生えていないその頂上に、冷たい風に長い髪をたなびかせた神様がいました。
「神様、神様。俺に名前を付けてください」
モノは言いました。
「俺、モノなんておかしな名前じゃなくて本当の名前が欲しいんです」
「名前が欲しいとな」
神様は穏やかに微笑みました。
「だが、私はお前が何者かを知らぬ」
「俺は、ふもとの村に住んでます。みんなは俺のことをモノって呼びます。でも、それは本当の名前じゃないみたいなんです」
モノは言いました。
「神様なら俺に名前を付けてくれるんじゃないかって、村長さんが」
「さあて」
神様は首をひねりました。
「私にもお前に何と名前を付けてよいのかは分からぬ」
がっかりした顔のモノに、神様は言いました。
「まずはお前の勇気を示すがいい」
そう言うと、モノが登ってきたのとは別の道を指さしたのです。
「この道を下ったところにある村では、巨大な猪に皆が苦しめられておる。お前に、その猪を倒す勇気が示せるか」
モノはびっくりしました。
そんな化け物と、モノは今までに一度だって戦ったことはありません。
けれどモノは、このまますごすごと自分の村まで帰って、モノという名前のままで大人になって、年寄りになっていく自分を考えました。
それはどうしても嫌でした。
「分かりました、神様」
モノは言いました。
「俺、その村へ行って猪を退治します」
「そうか」
神様は頷いて、モノにひと振りの剣を授けてくれました。
「お前に真の勇気があるならば、その剣は猪の命を断つだろう」
モノは、神様にお礼を言って、神様の指さした道から山を下りました。
深い山道を二日も歩いた頃に、ようやくふもとの村に着きました。
神様の言葉通り、村では三日とおかずに畑を荒らしに来る大猪に困り果てていました。
猪は何でも食べてしまい、なんとそれは村人たちですら例外ではなかったのです。
「その人食い猪は俺が退治します」
モノがそう言って、神様から授かった剣を見せると、村人たちはたいそうありがたがって、モノを猪の縄張りまで案内してくれました。
人間の匂いを嗅ぎつけた猪が飛び出してくると、案内の若者たちは皆慌てて走って逃げ出しました。
けれど、モノは逃げませんでした。
猪はモノが見上げるほどの大きさでした。
木の枝がぐわんぐわんと揺れるほどの鼻息を吹き上げて、猪はモノに突進してきました。
モノは勇気を振り絞りました。
どうせここで逃げたって、そうしたら俺は一生、モノのままで、本当の名前もなくて、それは結局死んでいるのと同じじゃないか。
そうして生きていくのは、目の前の猪なんかよりももっと怖いことだ。
そう思ったのです。
モノは胸の前で神様から授かった剣を構えて猪を待ちました。
猪は頭を低くして、モノに激突しました。
モノはまるで枯れ木のように遠くに吹き飛ばされて、気を失いました。
目が覚めると、もう辺りは夜でした。
神様から授かった剣は、根元からポッキリと折れていました。
モノがおそるおそる見回してみると、猪は額に剣を突き立てて死んでおりました。
翌朝、モノが村へ帰ると、もう死んだものとばかり思っていた村人たちはたいそう驚きました。
モノが折れた剣を見せて猪を退治したことを説明すると、皆最初は信じませんでしたが、それでも勇気のある若者が数人で確かめに行きました。
帰ってきた若者たちから、モノの話が本当だったことを聞かされると、村はお祭り騒ぎになりました。
けれど、モノは役目を果たしたので早く神様のところへ行きたくて仕方ありません。
引き止める村人たちに別れを告げると、村人たちはせめて名前を教えてほしいと懇願しました。
モノは困って、それで、
「名乗るほどの名前はないんです」
と答えました。
どうしても教えてほしい、と言う村人たちをどうにか振り切って、モノはまた山を登りました。
神様のところへ行けば、ちゃんとした名前がもらえる。もうこんな思いをしなくてすむ。
そう思うと、嬉しくてたまりませんでした。
三日かけて山を登ったモノは、神様のところへ帰ってきました。
折れた剣の柄を見て、神様は、ふむ、と頷きました。
「モノよ。お前は勇気を示した」
神様の言葉に、モノは笑顔で頷きました。
「じゃあ神様。俺に名前を付けてください」
「だが、まだ足りぬ」
神様はそう言って首を振りました。
「お前は、知恵を示さねばならぬ」
神様はまた別の道を指さしました。
「この道を下ったふもとの村は、悪い魔法使いに苦しめられておる。お前の知恵で村を救ってみせよ」
モノはがっかりしました。
けれど、名前がもらえるまでは、と心に決めて頷きました。
「分かりました、神様。俺、その村を助けます」
「そうか」
神様は頷きました。
「モノよ。お前自身が、お前を助けるだろう」
神様はそう言ってモノを送り出しました。
深い山道を二日下って、モノはその村にたどり着きました。
村では、神様の言葉通り、悪い魔法使いが村人たちを苦しめておりました。
魔法使いは怪しい儀式を行うたびに、若い娘を自分の城にさらっては生贄にしていました。
モノは村人から魔法使いの城の場所を聞くと、一人でそこに乗り込みました。
「おうい、魔法使い。山の神様の使いで来たぞう」
モノが大きな声で呼ぶと、扉が勝手に、ぎい、と開きました。
モノは暗い城の中をずんずんと歩いて、魔法使いの前にやって来ました。
「なんだ、小僧」
魔法使いは捻じくれた杖を構えて言いました。
「お前が山の神の使いだと。くだらぬ嘘をついた報いに、蛙にしてやろうか。それとも羽虫がいいか」
「魔法使い。ひとつ、俺と勝負しようじゃないか」
モノは言いました。
「俺がこれから出す質問に答えられたら、あんたの勝ちだ。蛙だろうと羽虫だろうと、あんたの好きなもんに俺を変えるがいいさ。その代わり、答えられなかったら俺の勝ちだ。あんたはこの村から出ていくんだ」
魔法使いは、汚い身なりの少年にすっかり油断して、面白半分に頷きました。
「ふん、よかろう。ただ虫にするのもつまらん。質問とやらを出してみるがいい」
「よし、決まりだ。それじゃあ出すよ」
モノはにこりと笑って言いました。
「俺の名前は、なーんだ」
「ふん。そんなくだらん質問でいいのか」
魔法使いは笑って、魔法でたちまちのうちにモノの名前を見抜きました。
「お前の名前は、モノだ」
自信満々に言った魔法使いに、モノは首を振りました。
「違うよ。俺の名前はモノじゃない」
「なんだと。お前の名前は確かに」
「モノなんて名前がこの世にあるかい」
モノは大声で魔法使いの声を遮りました。
「そんな名前があるものか。さあ答えろ、魔法使い。俺の本当の名前を」
確かにモノの言うとおりです。モノ、なんて人に付ける名前ではありません。
魔法使いは驚きました。
いろいろな魔法でモノの本当の名前を探ります。
けれど、どうしてもそれが分かりません。
「答えろ、魔法使い」
モノは大きな声で言って、魔法使いに近づきました。
「俺の名前を」
モノが近づくたび、魔法使いは後ろに下がっていきました。
やがて壁際に追い詰められた魔法使いに、モノが少し悲しそうに尋ねました。
「魔法使い。俺の本当の名前を教えてくれ」
魔法使いは大きな叫び声を上げました。
その身体がみるみるうちに小さくなっていきます。
やがてモノの半分くらいの大きさの小男になった魔法使いは、魔法の力も全部失って、逃げるように村から出ていき、どこへ行ったのか、もう二度と戻ってはきませんでした。
城に囚われていた村娘を連れてモノが帰ると、村ではお祭り騒ぎになりました。
けれどモノは、これで自分の名前がもらえると思うと、すぐに神様のところに戻りたくて仕方がありません。
引き止める村人たちに別れを告げると、モノに助けてもらった村娘が、どうか名前だけでも教えてほしいと言いました。
モノは困って、それで、
「名乗るほどの名前はないんだ」
と答えました。
どうしても教えて欲しい、という村娘をどうにか振り切って、モノはまた山を登りました。
三日かけて神様のところに帰ってきたモノを見て、神様は、ふむ、と頷きました。
「モノよ。お前は知恵を示した」
神様の言葉に、モノは笑顔で頷きました。
「じゃあ神様。俺に名前を付けてください」
「だが、まだ足りぬ」
神様はそう言って首を振りました。
「お前は、愛を示さねばならぬ」
そう言って神様が指さしたのは、一番最初にモノが登ってきた、自分の村へと続く山道でした。
「この道を下って、ふもとの村でお前を一番かわいがってくれた人に挨拶を済ませてくるがよい。そうしたら、お前に名前を付けてやろう」
前の二つと違って、これはずっと簡単なことでした。
これでいよいよ名前が付けてもらえる。
モノは勢いこんで頷きました。
「分かりました、神様。俺、村に戻って挨拶してきます」
神様は頷いて、付け加えました。
「ただし、期限は五日だ。いいか、忘れるな。五日後に必ず戻ってこねば、名前を付けることはできぬぞ」
五日といえば、村までの道を下ってまた登って、ぎりぎりの刻限です。
「はい、神様。必ず戻ります」
モノはそう言うが早いか、矢のように山道を駆け下りました。
走りに走ったモノは、二日かかる道を、たった一日半で駆け抜け、村に戻りました。
モノを一番かわいがってくれた人。
それは、タリオじいさんをおいてほかにはいません。
モノはタリオじいさんの家に駆けました。
タリオじいさんの家には、たくさんの村人が集まっていました。
村人の一人が、モノを見つけて言いました。
「モノ。この大変な時に、何日もいったいどこへ行っていたんだ」
「タリオじいさんがどうかしたのかい」
モノは嫌な予感がして尋ねました。
村人に促されてモノが家に入ると、タリオじいさんはベッドに寝ていました。
「タリオじいさん」
モノが呼びかけましたが、タリオじいさんは苦しそうにうめくばかりで返事をしません。
「悪い気が胸に入ったんだ」
村人の一人が言いました。
「症状が重い。街に行って薬をもらってこないと、じいさんはもってあと二日だ」
「二日だって。でも、街までは」
モノは言葉を失いました。
街までは、どうしたって一日半、往復すれば三日はかかるのです。
「今、村長さんが街の医者への紹介状を用意してるけど、とても間に合わないよな」
村人はそう言って腕を組みました。
そのとき、タリオじいさんが薄く目を開けました。
「モノ」
じいさんが苦しそうにモノを呼びました。
「どうだった。名前は付けてもらえたか」
モノは、神様に会って、名前を付けてもらえる約束をしたことを話しました。
「そうか」
タリオじいさんは微笑みました。
「わしのことは気にするな。お前の挨拶は確かに聞いたからな。神様のところへ戻りなさい」
そう言うと、タリオじいさんはまた目を閉じました。
挨拶は、済みました。
これで神様のところへ戻れば、名前が付けてもらえるのです。
欲しくて欲しくてたまらなかった、自分の本当の名前が手に入るのです。
けれど、モノはその足で村長さんの家を訪ねました。
そこでお金と紹介状を受け取ったモノは、街まで走り出しました。
休むことも忘れて、無我夢中で走りました。
どうしたって一日半はかかるはずの距離を、モノは一日で走り抜きました。
街の医者に紹介状を渡して薬をもらったモノは、休むこともなくまた村へと取って返しました。
眠ることも食べることも忘れて走ったので、モノの足はふらふらとよろけ、目の前がちかちかしました。
それでもタリオじいさんのために、薬を握りしめて、また村への道を一日で駆け戻りました。
薬を飲んだタリオじいさんが穏やかな寝息を立て始めたのを見て、モノは安心して全身の力が抜けるように眠ってしまいました。
目覚めると、外は夕焼けでした。
「やっと起きたのか、モノ」
通りがかった村人が言いました。
「お前のおかげでタリオじいさんはすっかり元気になったぜ。でもまさか、お前も三日も眠り続けるなんてよっぽど無理をしたんだな」
その言葉を聞いて、モノは目の前が真っ暗になりました。
神様との約束の期限は、とっくに過ぎてしまっていました。
もう名前は付けてもらえません。
俺はこれから一生、名前のない、モノのままだ。
モノは、とぼとぼと山道を戻りました。
途中で何度も涙を拭くために立ち止まりましたので、山の頂上につくまでに四日もかかってしまいました。
モノを出迎えた神様は、冷たい声で言いました。
「約束の期限はとうに過ぎたぞ。何をしに戻ってきた」
「神様。俺は約束を破りました。だから、俺はこれから一生、モノとして生きていくことを伝えに来ました」
言いながら、悲しくて悲しくて、モノの目からはぽろぽろと涙がこぼれました。
「俺は、これからもずっとモノのままです」
泣きながら、モノは言いました。
「でも、どうしてもあのときは、名前よりもタリオじいさんの薬のほうが大事だったんです」
神様は、厳しい顔で首を振りました。
「いかなる理由であれ、お前は約束を破った。私が名前を付けることはできん」
「はい」
モノは肩を震わせました。
「分かっています」
「だが」
神様は言いました。
「モノよ。お前は私に愛を示した」
神様は厳かに告げました。
「お前に、名を選ぶ権利を与えよう」
顔を上げたモノの目の前に、ふもとの村の景色が浮かび上がりました。
それは、大猪に苦しめられていた村でした。
村人たちは、名も告げずに去っていったモノのことを、尊敬を込めて勇ましき者「タパン」と呼んでいました。
「タパン」
モノは言いました。
「俺が、タパンだって」
次に、モノの目の前には魔法使いに苦しめられていた村の景色が浮かび上がりました。
モノに救われた村娘は、名も告げずに去っていった命の恩人のことを、頬を赤らめて、賢き者「マタリノ」と呼びました。
「マタリノか」
モノも頬を赤らめて言いました。
改めて見ると、自分が助けたのはとても可愛い娘でした。
「皆、お前のことを別の名で呼んでいる」
神様は言いました。
「選ぶがいい。タパンでも、マタリノでも、好きな名をお前の本当の名と認めよう」
モノがどうしようかと頭を悩ませていると、最後に自分の村の景色が浮かび上がりました。
タリオじいさんが、山に登ったきり帰ってこないモノを心配して、山を見上げていました。
「おうい、モノ。帰ってこい」
タリオじいさんの寂しそうな声が、モノの耳にも届きました。
「お前がいないと、寂しいぞ」
そのじいさんの顔を、モノはじっと見つめました。
「神様」
モノは、とうとう神様を振り向きました。
「俺、決めました。俺の本当の名は」
それから二日後のことでした。
いつものように心配そうに山を見上げていたタリオじいさんは、山道を下ってくる若者の姿を認めて、大喜びで手を振りました。
「モノ!」
タリオじいさんが叫ぶと、山を下りてきた若者は、満面の笑顔でじいさんに手を振り返しました。
「ただいま、タリオじいさん」