0005
周介は、周りの人々が徐々にざわめきだしているのに気づいていた。
一つ、また一つと駅を通過するたびに、徐々にその人々のざわめきが大きくなるのを感じていた。
もはや無関心ではいられないほどに、そのざわめきと動揺は大きくなっていた。
そしてこの時点で周介はようやく気付く。止まるべき駅に、この電車が止まっていないということに。
降りるべき駅が通り過ぎる人間が増えていくほどに、列車内のざわめきは大きくなっていった。
そして中には車掌のもとへ向かおうと、先頭、あるいは最後尾の車両に移動しようとするものまで現れている。
ただでさえ出勤通学の時間で人が多いのに、そんなことをすればどうなるか想像に難くない。多くの者が移動しようとし、当然それによって押しのけられるものもいる。
窓際にいた周介も、同じように押しのけられていた。
何か異常が起きているのは間違いない。いったいどのような異常なのかはわからないが、周介の腹の中にある焦りは未だ取り除かれていなかった。
ただでさえ急がなければいけないというのに。ただでさえ早く目的地に着きたいというのに。なぜこういう日に限って、なぜこの時に限ってこのようなことが起きてしまうのか。周介は何度も何度も考えていた。
そして何度願ったかわからない、それを、再度頭の中でつぶやく。
早く着いてくれ。
もはや何度も何度も願ったそれを、祈るようにつぶやきながら、周介は外の景色に目を向け続けている。
幸いにして目的地には向かっている。このままいけば運が良ければ目的地の駅で降りることができるかもしれないが、間違いなく途中で止まるか、あるいはこの勢いのまま終点に到着するか。
そしてそんなことを考えた瞬間、周介はとある事を思いつく。
このまま止まらなかったらどうなってしまうのか。
環状の線路を敷いているような場合でない限り、必ず電車には始点と終点がある。つまりどこかでは止まらないといけないことになる。
だがこのまま、止まらずに突っ込んだ場合どうなるか。
駅のホームに突っ込んで、多くの人を巻き込んで、そして自分はどうなるのだろうか。
これだけ人のいる電車の中だ。衝撃でどうなるか分かったものではない。
自分だけが都合よく助かるというような想像を、周介はすることができなかった。
一体どうなってしまうのか。焦りに加え、恐怖が混ざり合う中、周介の視線が大きく動く。
そして、その目を、ざわめいていた客の一人が見つけた。
そして、周介の目を見て、驚愕の瞳を向けてくる。
その瞳は、どんどんと増えていた。周介を見て驚くものが増えているのだ。
「おい、君……なんだそれ?」
誰かに肩を掴まれた。といっても無理矢理といった様子ではない。どちらかというと、本当に何が起きているのかわからなくて肩に手を置き問いかけたといったほうが正しい。
その声音にはむしろ心配しているそぶりすらある。
「え……?なに……って?」
周介は本気で何を言っているのかわからなかった。
そんな様子を察してか、客の中にいた女性の一人がカバンの中に入っていた手鏡を出して周介に見せつける。
そこにはいつもの周介が写っている。髪は黒く短く、やや猫目。身長は百六十前後といったところで、体は細身。
何も変わったところはない。そう、ある一点を除いて。
「……なんだ……これ……!」
唯一変化がある点。唯一、いつもと違っている点を、周介は即座に見つけることができていた。
それは、いの一番に気付けてしまうほどにわかりやすいものだった。
周介の目は、もともと黒がかった茶色だ。日本人に良くある瞳の色で、別段特に変わった点も見られない。
片方の目の色だけ違うということもなければ、瞳孔の形がおかしなことになっているということもない。
だが今の周介の目は、いつものそれとは明らかに異なっていた。
それは、周介の目は、青白く光っていた。
月の色に似た光を放つその瞳がいったい何を示すのか、周介は混乱してしまっていた。何かの間違いではないかと、自分のスマホのカメラを使って撮影しても、鏡で見たそれと同じように光っている目が写るだけだった。
「なんだこれ、どうなってんだ!?なんだよ……!?」
「大丈夫か?どっか痛むとかあるか?」
「……なんで、なんでこんな……!?」
近くに居た男性が心配して話しかけてくるが、周介はまともに受け答えなどできなかった。
今までこんな風になったことはない。こんな風に目が光りだしたなんてことはなかった。
眼が光るなど、漫画などで見られる独特の表現だと思っていた。だがこんな風に淡く光るとは夢にも思わなかった。
今まで鏡で見た時も、こんな風になったことは一度としてない。だというのに、どうしてこの日にこんなことになるのかと、周介は激しく動揺していた。
そして甲高いブレーキ音とともにまた一つの駅を通り過ぎた時、列車のどこかで悲鳴が上がったのが乗客の耳に届く。
悲鳴が上がったのはそこまで遠くない場所だ。隣か、あるいはその次の車両だろうか、悲鳴は女性のものだった。
一体何が起きたのかわからないが、車両内に緊張が走るのが肌で感じることができた。
自分の目の異常、そして今度はいったい何が起きたのか。もはや周介の許容量は限界を超えつつあった。
もうこれ以上何かが起きようものなら耐えられそうもない。それほどに周介はいっぱいいっぱいの状態だった。
というか、今もうまさに泣き出しそうな状態なのだ。受験に遅刻しそうになったり、急いで乗った電車が暴走したり、自分の目がおかしなことになっていたり、果ては電車内で事件など起きようものなら、目まぐるしく変わる状況に意識を保っていられるかも怪しい。
そんな中、唐突に周介に強烈な眠気が襲い掛かる。そしてそれはほかの乗客も同様だったようで、座っている人間も、立っていた人間も急に頭をぐらつかせていた。
もうこのまますべてを忘れて眠ってしまえればどれだけ楽だろうかと、そんなことを考えていると車両と車両を区切る扉が勢いよく開き、誰かが入ってくる。
悲鳴のあった方向の扉だ。いったい誰が来たのか。乗客が逃げてきたのだろうかと多くの者が視線をそちらに向けると、そこには、異様な格好をした人物が立っていた。
周介はその辺りの服装に詳しくないのだが、見るものが見れば、それが警察や自衛隊などの特殊部隊が着るような装備であるということが見て取れただろう。
いくつもの装備品が取り付けられていて、背中には何かを背負っている。頭はヘルメットのようなものをかぶり顔は見えない。
一体誰だろうか、どこの人だろうか。もしかしたらこの車両の異常を聞いて助けに来た人だろうか。
そんなことを考えるよりも早く、その人物の顔が周介の方を向く。
「……こちらアイヴィー02。目標を発見。現在進行形で発動中…………了解、拿捕し即座に離脱する」
ヘルメットについているであろう無線に話しかけるその声は男性のもののようだった。だが声がやや高い。
装備を着込んだ男性は近くに居る客を避けながら、それでもまっすぐに周介のもとへと歩み寄っていた。
自分が目標にされている。そのことに気付くのにさほど時間は必要なかった。
逃げるべきか、あるいは問いかけるべきか、あるいは抵抗するべきか。あまりにも多くのことが起きていたせいか、周介の思考は不安と眠気のせいでそれ以上進むことができなかった。
そして目の前にその男が到着する。身長は百七十台だろうか、少なくとも周介よりは大きな体躯に、周介の目には怯えが宿ってしまっている。
「来い」
「え……?ちょ!な、なんだよ!どこに!?」
「外に行く」
「外!?走ってるじゃんか!電車だぞここ!」
体を掴んでそのまま進むその力に、周介は抗うことができなかった。掴んでいるところだけではない。他にもどこかからか引っ張られているような、押されているようなそんな力が起きていることに周介は気づけた。
だがそんなことに気付けても、目をやるだけの余裕はなかった。男性が扉の前に立ち、強引に空けようとすると、扉はゆっくりと開いていく。
電車の扉というのはそう簡単に開くようにはできていない。いくつものロックがかけられていて、そのロックを解除してもかなり力をかけなければ開けることはできない。
周介を掴み、運んでいる状態でなぜそれができるのか、周介はわからなかった。
猛烈な速度で進み続ける車両は、当然ながら扉が開いた程度ではその勢いを止めることはなかった。
そして勢い良く通り過ぎる景色が、そして吹き付ける風が、目の前に存在していることで周介の許容量はすでに超えてしまっていた。
「アイヴィー02より各員、これより当該車両より離脱する。後のことは任せます」
「まっ!離脱って!待て!走ってる!走ってるよ!死ぬ!死ぬって!」
「……あまり暴れるな。あと口は閉じとけ。舌噛むぞ」
「舌どころの話じゃねえって!全身!全身がやばいだろこ……れ……?」
セリフを言い終えるよりも早く、その男性は周介を抱えた状態で走り続ける電車から飛び降りる。
体を猛烈な風がとらえ、移動し続ける景色に身を投じ、高速で移動する地面と周辺の電車用の設備が見えたところで、周介は意識を手放した。
これは、死んだ。
そう思い、走馬燈さえ見ながら完全に気絶してしまっていた。
だが周介とこの男性はいつまでも落下しなかった。慣性によって横に移動し続けてはいるものの、それも徐々に減速し、落下どころか宙に浮きながら線路から離脱していく。
「こちらアイヴィー02、当該車両より離脱。目標は…気絶した模様……ドク、聞こえますか?………えぇ、ドクの予想通りです。本人に発動しているという意識はなかったようです。…えぇ………えぇ………了解、このままファラリス01に引き渡します。場所の指定をお願いします」
周介が気を失った状態のまま、その男は周介を抱えて宙に浮き続け、人気の少ない場所でゆっくりと降り立つ。
周介はその後も気絶したままだった。