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船旅を始めてしばらくが経過したが、船の中の様子は落ち着いたものだ。
船で作り出された円の内側。その内側に入った後、確実に周介の下に近づいているという確信もあって、大太刀部隊も必要以上に暴れるようなことはなく、娯楽をしたり、あるいは自分なりに精神を落ち着けようといつも通りのトレーニングなどを行って平静を保とうとしていた。
そんな中、鬼怒川は近い世代の人間を集めてビリヤードなどの遊戯に興じていた。
そこには瞳や知与、言音も含まれる。そして遊び相手として今回の救助に連れてこられている美鈴も一緒に参加していた。
「そうそう、そうやって白い球を打つんだよ。んで、数字のちっちゃい順に穴に入れていくの」
「こう?」
「お、うまいじゃん!なかなかセンスがあるよ」
鬼怒川は美鈴を持ち上げながらビリヤードのやり方を教えてやっていた。体格的にビリヤードの台の上の球を打てるほど身長が高くない少女への配慮のようなものだ。
鬼怒川がこんな風に子供の世話をしているというのはある意味新鮮な光景だった。
「鬼怒川先輩って子供好きなんですか?」
「ん?好きかどうかはともかく、大事だと思うよ。こういう子が将来うちらの仲間になるんだもん。うちも子供の頃はこうやって遊んでもらったしさ。そういうのをこうして次の世代に与えてやるのが大事だって、そういうもんじゃないかな」
鬼怒川自身がそうしてもらったからこそ、鬼怒川は次の子供たちに同じように接するべきだと考えているようだった。
鬼怒川は最初から組織の上層部と繋がりが深かった。だからこそ鍛えてもらえていたし、遊んでもらってもいたのだろう。
瞳は逆だ。
上層部とのつながりなどなく、スポンサーの娘ということもあってある種の腫れもの扱いされていた。いや、どちらかと言えば危険な目に遭わせられないからこその過保護な状態だったというべきなのかもしれない。
組織の人間から見守られてきたという自覚はあっても、遊んでもらったという記憶はほとんどなかった。
「こんなことしてていいんでしょうか?私達……」
自身もビリヤードをしながら、言音は少し不安そうにしている。この中で戦闘に直接かかわらない言音からすれば、もっと何かできることがあるのではないかと思ってしまうのだろう。
それ自体は何もおかしな話ではない。これから大きな戦いが始まろうとしている。その戦いの前に、こんな風に遊んでてもいいのだろうかと、漠然とした不安を抱いてしまうのも仕方のない話だ。
「でも他にやることもないでしょ?荷物を運ぶくらい?」
「それはそうなんすけど……私たちの方でもっと力になれることだってあるんじゃないかって……できること、あると思うんですよ」
それは今までずっと動き続けていたラビット隊を見てきたからこその反応だろう。周介を始め、常に何かしらしていた。
もちろん息抜きだってやっていたが、その割合はかなり少ない。
だからこそ、このように船旅の間、ほとんど娯楽に時間を費やすということが、どうしても不安を煽ってしまうのだろう。
ただ、鬼怒川は気にした様子はない。これから大々的な戦闘を行う人間とは思えないほどの落ち着き具合である。
「そんなこと気にしてたって、うちらにできることなんてほとんどないよ。変に力を使って疲れるよりも、こうして楽しんで英気を養ったほうが、後の為になると思うけど?」
それは拠点内において特定の仕事を持たない大太刀部隊ならではの考え方だろう。小太刀部隊のように拠点内で仕事のない彼女たちは、訓練をする以外で拠点での活動などほとんどないに等しい。
それ故に、普段は私生活、あるいはそれ以外の娯楽などに興じることが多い。
文字通り英気を養うためだ。ここぞという時に集中するために、普段は気を緩めているというのが正しい表現だろうか。
「先輩は、あんまり心配してないんですか?」
「心配って?」
「……色々と……現場の事とか…………周介の、事とか」
周介はもう生きてはいない、あるいは人ではなくなっていると考えている鬼怒川にとって、答えにくい質問でもあった。
何せ目の前にいる瞳は、周介のことを特に強く想っている。鬼怒川とは別の意味で強く周介に執着している。
それが心の、精神の支えになるほどに強く、依存と言い換えてもいいほどに。
少し前まで、周介が生きている未来を知る前の彼女は酷い状態だった。鬼怒川もそれを見ている。再びあんな状態に戻ったら、いや、一抹の希望を抱かせ、そこから絶望に叩きつけたら以前よりもさらに瞳の精神状態は悪化するだろう。
そんな人物に自分の考えを伝えるわけにはいかない。既に、人としての周介の存在はあり得ない、などと。
「現場のことはさ、難しく考えても仕方ないんだよ。どんなに考えたって悩んだって、実際に行ってみたら全く違うとかいうこともあるからね。特に、うちみたいにやることがシンプルなタイプは考えないほうがいいんだよ。下手な考え休むに……なんだっけ?なんかそんなの」
実際戦う時には余計なことは考えない。とにかく戦闘という行動すべてに集中する。それ以外のことを考えれば取り残される。置いていかれる。その自覚があるが故に、鬼怒川は余計なことを考えない。考えずにいられる。
「百枝君のこともさ、今考えても仕方ないんだよ。うちらがどんなに考えたってどうしようもないんだ。だから今できることをするだけ。んで、うちらには今できることはない。それなら、こうして休んで遊んで、英気を養う。これも大事なことだよ」
仕事を全うするうえで、休憩することも職務の一環としているような職業もあるように、緊急時に動かなければいけないような状況で休むことなどできない。その為体力温存などの為に休むことも仕事の内という考えが生まれたのだ。
今の鬼怒川達も同じことだ。それこそ今は移動しているだけ。移動に必要な玄徳などは休むことができないが、それ以外のメンツは休むことができる。
瞳も仕事があれば人形たちを動かすが、それ以外の時には基本的にはやることはない。そういう時に休まなければいずれ疲弊し本当に動かなければいけない時に動けなくなってしまうだろう。
「特に伊納ちゃんはさ、最近働き詰めだったでしょ?ちょっとは休まなきゃ」
「んー……私の場合、ただ出し入れする出入り口を作るだけなんで、そんなにたいしたことしてないっすけど」
機械が暴走して以来、言音はとにかく大量の物資を輸送するのに一役買ってきた。
各所に出入り口を配置して、そこに物資を運ぶ。そして集積させて現地の人間に届けるといったことをしてきたのだ。
とはいえ、彼女からすればそこまでの労力にはなっていない。何せ今までラビット隊でやって来たことと同じなのだから。
「まぁ、疲れ具合はその人にしか……いや、その人本人にも結構わからないものだから、その辺りの匙加減は任せるよ。肩の力を抜く具合にもよるし。今はとにかく楽しむこと。ね?」
鬼怒川は自らもビリヤードを楽しむべく玉の位置を確認しながらどこから打ち込もうかと悩んでいる様子だった。
こうしているとただの女子高生のように見える。歴戦の能力者とはとても見えなかった。
あとどれくらいで周介の下にたどり着けるのだろうか、あともう少しだろうか、それともまだかかるのだろうか。
移動は続けているが、瞳の中で不安だけが募っていく。
鬼怒川が打ち込んだ白球が何度か跳ね返り番号の振られた球に当たってポケットの中に落ちていく。
鬼怒川が小さくガッツポーズをした瞬間、その笑顔と一緒にその体が固まる。
そして辺りを見渡すように鬼怒川は急に挙動不審になり出した。
「先輩?どうしました?」
「…………ごめん!急用できた!みんなは遊んでて!」
先程までとは打って変わり、唐突に走り出した鬼怒川に、残された瞳たちはどうしたのだろうかと疑問符を浮かべてしまう。
鬼怒川は感じ取っていた。
だがその感覚は鬼怒川にしかわからないものだろう。
広範囲の索敵を保有する知与も、他に乗船している歴戦の能力者たちも、船に搭載されたレーダーでさえも、それを感知することなどできていない。
できるはずがないのだ。その気配など。
鬼怒川は船首に近い方向へ向かい、進行方向の先に存在している、ある気配を感じ取っていた。
それは、鬼怒川がずっと追いまわし、渇望しているある気配。
最初は間違いだと思った。勘違いだと思った。
だが少しでも近くに、少しでも感じやすいように表に出た瞬間、それが勘違いではないということを確信する。
そして、自分の考えが間違っているのだということも。
「…………あぁ…………すごいね……そっか……そっか…………そうだよね…………」
海の上を進む船の甲板には、常に強い風が吹き続けている。その風を真正面に受けながら、鬼怒川はその進む先にいる存在の気配を感じ取っていた。
それを感じ取った瞬間、鬼怒川はドクに連絡を取っていた。
『もしもし鬼怒川君?どうしたんだい?』
「あぁ、すいません。ちょっとお願いがありまして」
『お願い?どんな?』
「うん。ちょっとずれてるっぽいんですよね。右方向?に……ほんのちょっとだけずらしてもらえません?」
『え?ちょっと待って、ごめん何の話?』
「進路の話です。ちょっと左にずれてるんで、右に軌道修正お願いします」
何を言っているのか、ドクは意味が分からなかっただろう。それに鬼怒川に言われたからと言っていきなりその通りに進路を修正するわけにはいかなかった。
進行方向は現在位置の確認を踏まえて、計算して算出している。いきなり進路を変えたりしたらそれこそさらに無駄な時間がかかってしまうのは間違いない。
『いやいや、何言ってるのさ。進路はこっちで決めてるから大丈夫だよ』
「だからそれがずれてるんですって。ほんのちょっとですけど」
『あー……ちょっと待って、今話を聞きに行くから。今どこに……あぁいた。おーい!鬼怒川君!』
電話しながら鬼怒川を探していたのだろう。鬼怒川の下にドクが駆け寄ってくる。どうやらドクは操舵室にいたのではなく、別の場所にいたらしい。
船首に立つ鬼怒川を見つけて、ドクは一体どういうことなのかと疑問符を浮かべてしまっていた。
「どういうことなの?いきなり進路を変えろだなんて」
「変えろっていうより修正ですよ。少しずれてるんです」
「だから、ずれてるって何から?何がずれてるのさ?」
「百枝君のいる場所から」
一体何を言っているのか理解が及ばず、ドクは目を見開いてしまっていた。




