4 赤面! 赤飯? 初めてじゃないけど初めての経験
朝食を終えて、自室で今日の仕事の準備を進めていた時、またあの日記が目に留まった。
「そういえば、昨日は日記を書かずに寝てしまったな」
そんな独り言を言いながら、わたしはページをめくってみた。昨日の分の白紙ページと、その前のページ。……あれ?
「なんで書いてあるんだ?」
白紙の1つ前のページ、つまり、イオの話では、わたしが魔物との戦いで傷を負い、記憶を失った、その日だ。
その日のページには、魔物と戦ったことや、イオに傷を治してもらったことが、しっかりと書き込まれていた。日記が書いてあるということは、その時までは記憶が残っていた証拠、のはずだ。
日記を書いて、眠りについてから記憶を失ったのか? ……イオはわたしが《記憶を失った》ではなく《記憶が混乱している》と言っていたから、そういうこともあり得るのだろうか。
とにかく、日記は以前のわたしが続けていたことだから、これからもできるだけ忘れないようにしよう。
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イオと共同で使っている……2人暮らしだからあまり意識しないが、一般家庭での居間にあたる部屋へ戻ると、ちょうど朝食の後片付けを終えたらしいイオも戻ってきていた。
「あ、そうだイオ──」
食事の片付けをイオに任せっきりにするのは悪いから、わたしもできるように、これから少しずつ教えてほしい。
わたしは、イオにそう伝えた。
「……やっぱり。忘れててもお姉ちゃんはお姉ちゃんだね」
あれ? なんか泣きそうになってる……?
「イ、イオ……わたし、何かひどいこと言ったか?」
「あ、ううん! そうじゃなくて……!」
この後、イオが話してくれたことによると、どうやら親元からの独立当初はわたしが全てやっていたらしい。そんな時、イオが《姉に甘えっぱなしはダメだ》と、当時のわたしからひととおりの家事を教わった、と。
「こんな時くらいは、お姉ちゃんに苦労をかけたくなかったからさ」
と、言うイオはもう笑顔になっていた。
かわいいだけじゃなくてなんて健気なんだ! 思わず抱き締めてよしよししてやりたくなるが、《前の俺》の記憶が邪魔して、つい、それは犯罪なんじゃないか、と思ってしまう。
……そういえば。
親元、でふと浮かんだ疑問。
「なあ、イオ。わたしさ……記憶を失ってから、まだ1度も両親に会ったことが無いんだけど……出発の前にちょっと会いに行ってもいいかな……?」
わたしは、聞かずにはいられなかった。
考えてみればおかしなことだ。
わたしが《わたし》として目覚めた時……イオの言葉を借りるなら《記憶の混乱》をきたした時、いくら独立しているとはいえ、イオはわたしを親元へ連れていかず、そのまま《いつもの仕事》へ誘った。
この世界は、《前》の……日本の常識とは違うのかもしれないが、独立して間も無いうちは、まだまだ親を頼るものではないのだろうか。
イオの顔からは、すーっ、と笑みが消え、信じられないものでも見たような表情に変わっていった。
「お、お姉……ちゃん?」
あー……これは地雷を踏んでしまったか?
「ああ、いや。なんだ、その……もしかして、こうなる前のわたしって、親との仲が悪かった、とか?」
気まずい。非っ常ーに気まずい。が、この件は《やっぱりなんでもないから忘れてくれ》で誤魔化してはいけない気がする。それに、以前のわたしがどんな人物だったのかを知るためにも、親との関係は聞いておく必要があるだろう。……イオが話してくれるのなら、ではあるが。
「仲が悪いっていうか……お姉ちゃんとわたしが《探索者》になる時に、両親の反対を押し切ってきたからねー。……うん、記憶を失ってるんだから、こういうことも想定しておくべきだったね」
イオは、想定していなかった自分が悪い、とでも言わんばかりの口調だった。……どこまで姉思いなんだよ、おまえは。
「おまえのせいじゃないさ。……さ、仕事に行こうか」
ぽんぽん、と。わたしはイオの頭を撫でるように軽く叩きながらそう言った。……ぽんぽんをやった後で、《うお! やってしまった!》と、ちょっとびびったことは、イオに知られてはいけない。
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あれから1週間は何事も無く過ぎた。わたしたちと同じ127階に住む人々とも知り合えた……というより、わたしが記憶を無くしたことを説明した上での、関係の再構築と言うべきか。ともかく、ご近所さんとも良い関係を築けたし、わたしのレベルも1つ上がって、14になった。そして、
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名前:エイナ・アルテス
種族:人間 性別:女
LV:14
HP:244/244 MP:121/121
攻撃:72 防御:44 魔力:61 敏捷:68
スキル
毒無効 痛覚無効 麻痺耐性(4) 鑑定(4)
剣術(4) 体術(3) 火魔法(2) 毒魔法(9) 回復魔法(1)
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この1週間の経験で、スキルに関して分かったことが1つあった。それは、スキルは、レベルアップ時のスキルポイントを使って取得する以外にも、そのスキルに関係した行動を取れば、スキルを取得できる場合があること。
今のわたしにとって唯一の飛び道具である火魔法の《火球》だが、スキルレベルが低すぎて戦闘ではまともに使えない。だから、という訳でもないが、剣に毒魔法をかけて魔法剣的な戦い方をしていたら、《剣術》《体術》《毒魔法》のスキルレベルが上がっていた。
ステータスを確認し終えて、わたしは風呂から上が……!?
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浴室の掃除を終えたイオが居間に戻ってきた。
わたしは伏せていた顔を上げて、イオに言う。
「……悪い。おまえが風呂に入る時間が無くなっちまったな」
「あはは、いいよいいよ、気にしないで。……でもさ、お姉ちゃん、自分が女だってことも忘れてたんじゃない?」
イオはわたしをからかうように、軽い感じで笑いながらそう言ってくれた。
わたしが風呂から上がろうとした時、《前》の保健体育の授業で習ったアレが、我が身に起きてしまった。その後の処理をうまく進められれば風呂場を汚さずに済んだのだろうが、授業で習った知識しか持っていない今のわたしは、そのまま呆然と立ち尽くしてしまった。
我に返った後はイオを呼んで、全部任せた。
今はパジャマに着替えて、湯冷めしないよう毛布にくるまってはいるが……まあ、うん。実践を交えて使い方を教わるという経験に戸惑ってしまった、ということにしておこう。居間に入ってきたイオを出迎えた時のわたしは、ソファの上で毛布にくるまって、小さく体育座りをしていた。これじゃあ、まるでわたしのほうが子供みたいだ。
「それで、どう? お腹が痛いとか、無い?」
イオはわたしの隣に腰を下ろしつつ、視線は合わせずにそんなことを聞いてくる。
「いや、それは無いな。というか、体のほうはすこぶる調子が良いみたいだ」
「ふーん……まあ、大丈夫そうなら安心したよ。じゃあ、わたしはもう寝るから、お姉ちゃんも早めに寝るんだよ」
「ああ。おやすみ」
その言葉を交わした後、イオは自分の部屋へ戻っていった。
居間で1人になり、ふと、今後のことを考えてみる。
《前》の人生に未練が無いかというと、そんなことはない。家族や友達に会えないのは寂しいし、積みゲーや積ん読も消化したかった。
かといって、それじゃあ今すぐ、例えば神様的な誰かに《何もかも元どおり》にしてもらえるとしたら……たぶん、わたしはそれを望まない。なんだかんだで、イオとの生活を気に入っているのだろう。いずれ、わたしかイオ、あるいは両方ともが人生の伴侶を見つけて、一緒には居られなくなるとしても……ん? 人生の伴侶?
そうだよ! わたしは女なんだよ!
最近になって、ようやくわたしはわたしであることに馴染んできたものの、やっぱり、まだどこかに《前の俺》の意識……というか、価値観が残っている。男と結婚するなんて考えたくないし、ましてアレをアレする……あーくそ。思わず両手で股間を押さえてしまった。
……こんなこと考えるのはやめよう。
《前の俺》の価値観が消えて、本当の意味で《わたし》になりきれる日は来るのだろうか。
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翌朝。
「お姉ちゃん、入るよー」
わたしがわたしとして目覚めたあの日と同じ光景が展開される。
扉をノックせず、いきなり入ってくるイオ。その手に……注射器? にしては、ちょっと大きすぎる《何か》を持って。
「ん……? ああ、そうか。ナプ……布の使い方を教えてくれるんだっけか」
起こされてすぐの寝ぼけた頭でも、それの名前を口にするのは、妙に気が引ける。女としては普通に生活必需品だろうに、《前の価値観》のせいで、踏み込んではいけない領域という考えが抜けない。……それはともかく。
昨日、風呂上がりにも使い方を教えてもらったが、あの1回で完璧に覚えるのは、さすがに無理──
「何言ってるの、お姉ちゃん」
「……へ?」
「寝てるだけの夜ならともかく、魔物と戦う時もナプキン使ってたら、ずれちゃうでしょーが」
イオはこれからイタズラするような悪い笑顔を浮かべつつ、手に持った注射器モドキをわたしに向けて歩いてくる。
「お、おいイオ、待──」
……まあ、うん。
詳細に描写したら成人漫画コーナーに置かれてしまいそうなやり方で、入れ方を教わりましたとさ。