2 戦慄! 戦闘! 初めてのエンカウント
イオが朝食の後片付けをしてくれている。全て任せるのはなんだか申し訳ない気持ちになったが、前世? 以前の《俺》? ともかく、家事は全部母さんがしてくれていた当時の俺は、食器をしまうぐらいしかしたことがない。
その食器でさえ、今は棚のどこに何をしまえばいいのか。……駄目な姉と言われないよう、これから少しずつ頑張ってみよう。
そんなわたしの思いを知ってか知らずか、
「待ってる間にトイレ済ませといたらー?」
と、手を動かしながらイオが言う。
「……そうだな。じゃあ、行ってくる」
ごく自然にそう応えて、わたしはトイレのドアノブに手を掛けた。そこで、はたと気づく。というか、なぜ今までそれに気づかなかった!?
とりあえず、トイレの前で突っ立ったままではイオに不審がられるので、慌てて個室に入る。
さて。
当然だが、わたしは女だ。今朝目が覚めてからを振り返ってみれば、自分が自分のまま女体化したのではなく、年齢も性別も違う全くの別人になっていたことに、まず驚いた。それはいい、いや、よくはないが、とりあえず我が身に起きた事実として、性転換したことは受け入れよう。
問題はその後だ。わたしは、パジャマからごく自然に着替えを済ませた。下着を含めて。
以前の《俺》にしてみれば全くの未経験、目にしたことさえ殆ど無いはずの女物の下着を、毎日の自然な流れで着ることができていたのだ。たぶん、それに気づかずにいれば、今も何も疑問に思うこと無く、女として用を足していただろう。
だが、気づいてしまった。気づいてしまった以上、自分の体のはずなのに、その部位を見ることに変な罪悪感を覚える。
用を足す時にいちいちそんな所は見ないだろう、生まれながらの女性にはそう言われるかもしれない。だが、男であれば、狙いを外さないためにも、そこは視界に入れていなければならないのだ。あいにく、この癖はすぐには抜けそうにない。
……見ることの罪悪感の原因は、この体がまだ《本当のエイナさんへの憑依》である可能性も残っているから、ということにしておこう。
●
用を足すだけなのに、妙に疲れてしまった。今後、トイレに入る度にこんな思いをするのかと思うだけで憂鬱になるが、わたしは高瀬和也ではなくエイナ・アルテスなのだ。慣れるしかない。
この後は一旦自分の部屋へ戻り、魔物と戦うための装備を調える。その際、ふと自室の机の上にある1冊の……日記? が目に留まった。表紙には《エイナの記録》と書かれているので、わたしの物で間違いないだろう。
ページをめくると、
「昨日で終わってる……?」
今朝、つまり俺がエイナとして目覚めて以降が白紙だった。……って、今日初めてこの日記を開いたのが今なんだから当然か。なんでこんなことを疑問に思ったのやら。
そういえば、和也だった時には日記なんて書いたことは無かった。昨日以前のわたしに日記の習慣があったのなら、それを続けてみるのも面白そうだ。
「お姉ちゃん、準備できたー?」
「ああ、今行く」
●
わたしたちの家があるのは、この塔の127階。そこから階段を上がると、階段はそこで跡切れていた。さらに上へ続く階段が無い。
さっき自室で準備している時に地図も確認しておいてよかった。さすがに、あっけに取られての挙動不審を《寝ぼけている》で済ますには、起きてから時間が経ちすぎている。……言葉遣いだけはどうしようもないが。
この塔は一般的な……日本では一般的だった高層建築物のように、1階から最上階まで貫く1本の階段というものが無い。それこそ、ゲームに登場するダンジョンのように、階層を1つ移動するごとに、次の階段を探して歩き回らなければならない。
イオの話では、わたしは……昨日以前のエイナは《探索者》として仕事をしていたようだから、それ関連の地図が部屋にあったのには助けられた。
129階への階段のそばには、《探索者》のための拠点だろう、ちょっとした商店街のようなものがあった。127階への入植が最近始まったばかりなのだから、休息や補充を行おうとすれば、実質126階まで戻らねばならない。それを思うと、この拠点はありがたい。
「よう、エイナちゃんたちか、おはよーさん」
屋台で食材を売っているおっちゃんが、わたしたちに声を掛けてくる。
「おはよー、ゼルフェンさん」
イオがやたら元気よく片手を挙げて挨拶をする。……彼の名前を知らないわたしのために、率先して挨拶してくれたように見えたのは気のせいか?
「今日も元気いいね、イオちゃん」
「へへー」
「それで、お姉ちゃんのほうは、昨日の怪我は大丈夫だったのかい?」
急にそのおっちゃん、ゼルフェンさんがわたしに話を振ってきた。……え? ていうか、怪我?
どう答えようかとわたしが戸惑っていると、イオがどことなく慌てた様子で割り込んできた。
「あー、えっとね。昨日の怪我でお姉ちゃん、頭に強い衝撃を受けてたみたいだから、ちょっと記憶が混乱してるみたいなんだ。今朝なんかわたしのことも思い出せなかったみたいだし」
「そうだったのか……でもまあ、そんなんでも仕事を休んじまったら食ってけねえもんな。《探索者》ってのはつらい仕事だ」
同情してくれるような声でゼルフェンさんは言った。
それはそれとして。
今のイオの言葉で、一応の説明はついた。和也がエイナに憑依ではなく生まれ変わっていたのなら、なぜ今朝までの記憶が無かったのか。なぜ和也だった時の記憶だけが残っていたのか。
単なる記憶喪失ではなく、和也だった時から現在まで続く記憶の中間部分だけが抜け落ちているのだとすれば……なんだか都合が良すぎる気がするが、一応のつじつまは合う。記憶の混乱のことを今朝のイオがわたしに《寝ぼけている》で通したのは、わたしを気遣ってくれていたからだろう。
その割には今のわたしにそれらしい傷跡は残っていないが、ここは火魔法や毒魔法なんてものがある世界だ。たぶん、回復魔法もあるのだろう。傷跡が跡も無くきれいになっていても不思議ではない。と思う。
この後、わたしはゼルフェンさんに《探索者》の仕事についておおまかに説明を受け、イオと共に129階へ上がった。
●
空気が変わった、と言うべきか。ゲームで町の外へ出てBGMが変わった時のように、いつ魔物と遭遇するか分からない、そんな緊張感が漂い始めた。
《探索者》の仕事は魔物の討伐と、その死骸の一部を持ち帰ること。魔物の角や牙なんかは、道具や武器を作るのに格好の素材になるらしい。
通路の雰囲気は128階までと殆ど同じだ。大部屋のような開けた空間があったり、狭い通路もあったりする。どこから魔物に襲われるか分からな──
「──ぅお!?」
いきなり目の前に何かが降ってきた。わたしはとっさに後ろへ跳んでかわしたつもりだったが、降ってきたモノの一部であろう、何か鋭いものが腕をかすめていた。
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名前:エイナ・アルテス
HP:215/235 MP:113/113
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最大値の1割って、けっこうダメージでかいぞ!? ……ヘタに攻撃を食らう訳にはいかない、ってことか。
「お姉ちゃん!?」
「大丈夫! かすり傷だ!」
そう返してイオの隣に並ぶ。
降ってきたのは大型の蜘蛛だった。中型犬並のサイズだが、蜘蛛だ。
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名前:エイナ・アルテス
HP:209/235 MP:113/113
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あれ!? なんでさらにHPが減ってるんだ? しかもけっこう減り方が速い。
状況を理解できずにいると、イオがわたしの腕に手をかざして……たぶん、何かの魔法を発動させた。実戦で初めて理解するのもどうかと思うが、他人が魔法を使うと《魔力の流れ》みたいなものを感覚で掴めるようだ。
そのおかげか、減り続けていたわたしのHPは一気に最大値まで回復し、減少も止まった。
わたしもイオも蜘蛛に向かって剣を構える。……《前の俺》には剣を持った経験なんて無いはずなのに、この動作も自然と体が動いた。記憶が抜け落ちていても、こういう基本的な動作は体に染みついているのだろう。
「あいつぐらいならわたし1人で倒せると思うから、お姉ちゃんは何かあった時の補助をお願い」
イオはそう言って蜘蛛に斬りかかった。補助といっても、わたしにできるのは火魔法と毒魔法くらいなんだけど……イオの動きの合間をぬって火魔法をぶち当てるなんて器用な芸当、できないぞ? 記憶を失う前ならともかく。
振り下ろされたイオの剣を、蜘蛛は牙で受け止める。それを確認したイオはすぐさま後退し、自身の目の前に3つの火球を出す。どうやら、イオも火魔法を使えるらしい。
蜘蛛は意外と防御が硬いらしく、イオが発動させた火球も、斬りかかった剣も、まともなダメージを与えられていないように見える。
今日初めて剣を……少なくとも、記憶に残っている限りでは初めて剣を握ったわたしに、アレと戦えと? 無理。
「あぅっ! ……っ、お姉ちゃん!」
不意に耳に突き刺さるイオの悲鳴。……くそ、戦闘中に敵から目を離すなんて、わたしは馬鹿か!
視界に入ったのは、蜘蛛の突進で体勢を崩されたイオと、そのままの勢いでわたしに向かって突っ込んでくる蜘蛛。……何ができる? 昨日までの《エイナ》の経験は今のわたしには無い。日本の高校生だった《俺》の判断力で何が──
ぐちゅっ!
蜘蛛の巨大な牙が、わたしの肩に突き刺さった。一瞬遅れて、わたしは噛みつかれたのだと理解する。一応、鎧は身に着けてはきた。だが、鎧といっても防御力より機動性を重視した、軽装の物だ。外装の隙間から、蜘蛛の牙がわたしの肌を捕えるのに、殆ど支障は無い。
突進の勢いに負けて、わたしは後ろ向きに倒された。
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名前:エイナ・アルテス
HP:166/235 MP:113/113
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スキル《痛覚無効》のおかげで、ちょっと強い力で引っかかれた程度の痛みしか感じてはいない。それと、軽装とはいえ鎧には肩当てがあるため、蜘蛛の牙がこれ以上肩に食い込む心配は、今のところ無い。
だから何だ?
見た目どおりの重量がある蜘蛛にのしかかられ、肩に噛みつかれて身動きがとれない。そして、噛みつかれた肩にさっきから何やら熱いものが流し込まれてくるのを感じる。たぶん、毒だ。どんな種類の毒なのかは分からないが……って、たしか《毒無効》持ってたよな、わたし。それに気づいたら、いくらか冷静さを取り戻せた気がする。
毒をもって毒を制すではないが、そっちがそう来るなら、こっちも毒魔法でお返ししてやる。レベル2の火魔法よりレベル8の毒魔法のほうが、たとえこの蜘蛛に毒耐性があったとしても、まだマシなダメージを与えられるはずだ。
賭けに失敗すれば死ぬ。だが、やるしかない。
わたしは、噛みつかれていない、自由に動かせる右手で蜘蛛の頭を鷲掴みにして、全力の毒魔法を発動した。その瞬間、
ブジュウゥゥゥ!
わたしが触れている蜘蛛の頭が、まるで腐り落ちるように溶けていった。……毒持ちの蜘蛛を毒で殺すって、どんだけ強いんだ、わたしの毒魔法。
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蜘蛛に噛みつかれた肩の傷は、イオの回復魔法できれいに治った。その治療を終えた時、イオには、
「つい、大丈夫だと思っちゃったけど、記憶が無いのに連れてきてごめんね、お姉ちゃん」
と、泣きそうな顔で謝られた。
「……ま、助かったんだから気にすんなって」
それはわたしの……《俺》の本音だ。
以前のわたしがどんな人物だったのかの記憶は無い。あまりにも前と違いすぎることを言ってイオを困らせるのも本意ではないが、記憶が無いものは無いのだから、それはどうしようもない。
だったら、今のわたしの精一杯で応じるしかない。わたしは言葉を続ける。
「さ、こんな所でぐずぐずしてたら、また魔物と出くわすかもしれないから、話は歩きながらしよう?」
「……うん。ありがとう、お姉ちゃん」
どうにか、イオは笑顔になってくれた。
やばい、妹かわいい。
書き溜めを消化するまでは2日に1話のペースで投稿していきます。