■ 東京9・西 ■
「ご、ごめん」
噴き出したビールをおしぼりで拭きながら、和也は謝った。とんでもない。急にこんな話をして、謝るのはこっちの方だよ。麻衣子はそう思いながら、自分のおしぼりも使って机の上を拭った。これは、難しい問題である。麻衣子は、和也を愛している。和也には彼氏がいて、つまりそれは同性愛者ということになるのだが、それ自体は別に笑ったり馬鹿にしたりするようなことでも何でもない。ただ、麻衣子が和也を愛している以上、女性である麻衣子が和也の恋愛対象にならないのであれば、それはやはり辛いものがあった。思いを伝える上で、そのことは確認しておきたかった。それでダメだったら、初めから叶うはずのない恋だったのだと諦めるしかない。思いを伝えて今晩で決着を着けるのだと心に決めたのだ。もう、逃げるわけにはいかなかった。何より、和也のスマートフォンに掛かってきた男性から、「別れよう」と切り出されてしまっているのである。和也にそのことを伝え、謝り、彼を慰めなければならない。これ、ひょっとして、和也に麻衣子の思いを伝えるどころの話しではないのでは? だんだんと、そんな不安が募ってくる。
「ちょっと、待ってね。どうして急に、そんな話になったの?」
慌てたように、和也は話した。麻衣子はもう一度深々と頭を下げて謝る。
「本当にわざとじゃないの。さっき、南野くんのスマホに、何度も同じ番号から電話が掛かってきて……それで、緊急事態かなと思って、仕方なく電話に出たの。そしたら、男の人が凄く怒ってて、さっきの男は誰だって」
和也は、キョトンとした目をしていた。あれ、なんだろう。何か話が噛み合っていないように思えてならない。
「それで、その人、別れようって切り出してきて……あれ?」
自分で言っていて、おかしなことを言っていることに気付いた。和也に電話を掛けてきた人──確か、画面には外野くんと表示されていた、彼。彼は、確かに「さっきの男は誰だ」と言った。電話に応じた麻衣子は、女だ。動揺してほとんど言葉を返すことはできなかったが、応じた時にもしもし、と声を発している。その時、どうしてお前は誰だとならなかったのだろう。いくらなんでも、女声と男声の違いくらい電話でも分かるはずだ。和也の電話に掛けてきたはずなのに、どうして──
「マジか、やばいな……どうしよう」
和也は頭を抱えて俯いた。しかしすぐに顔を上げて、説明を始めた。
「実は……信じられないような話なんだけど、そのスマートフォン、俺のじゃないんだよ」
「えっと……どういうこと?」
これはひょっとして、とんでもないことをしてしまったのではないだろうか。とめどない不安が押し寄せた。それから、和也が語り始めた内容を要約すると、こういうことらしい。つまりは、新宿駅近くで女性とぶつかった際にスマートフォンを落としてしまい、その時、その女性がたまたま和也と同じスマートフォンを所有していたため、自分のスマートフォンを持って帰ったつもりが女性のものを持ち帰っていた、ということらしい。つまり、麻衣子が通話に応じたそのスマートフォンの持ち主は、和也ではなく、その見知らぬ女性だということらしい。しかも、そのスマートフォンの持ち主である女性の彼氏さんらしき人は、麻衣子と会う前に和也も電話に応じていたらしく、その時もひどく罵声を浴びせられたということだったようだ。
それなら合点がいく。要するに、「外野くん」は、さっきの男、つまり麻衣子の前に電話に出た和也が誰だと言っているのであり、そして麻衣子のことを「外野くん」の彼女である女性と勘違いして、別れを切り出したということになる。納得だ。すこぶる納得するが、同時に非常にマズいできごとだ。彼女の知らない所で勝手に彼氏と別れてしまったことになる。しかも、誤解が原因で。
「マズいじゃん……」
「マズいね……とりあえず、俺、スマホ交換してもらいに明日会うことになってるから、その時に謝っとくよ」
「ごめん……私のせいで……」
和也が女性と会うことに少し抵抗はあったが、やむを得ないので仕方がない。
「いや……西島さんは悪くないよ。そもそも俺が、スマートフォンを落として、間違えて持って帰っていなければこんなことにはならなかった訳だし」
「でも、私が自分のスマホと、その女の人のスマホとを間違って持って帰っていなかったら、こんなことにはならなかった訳じゃない?」
「そんなの、いずれにせよ俺がその電話に出て余計に彼を怒らせる結果になっただけだよ。いや、電話に出なくても、なんであいつ電話に出ないんだって、結局一緒だったかもしれないし」
彼は優しくそう励ましてくれて、麻衣子は少し気持ちが楽になった。そう、これはあくまでも不慮の事故なのである。「外野くん」の彼女である女性には非常に申し訳ないことではあるが、スマートフォンを落として間違えて持って帰っていることに気付かなかった彼女にも落ち度がある。そう思うことにした。
その後は世間話にも花が咲き、仕事のこと、福島のこと、二人の地元である唯町のこと、懐かしい中学や高校時代のことを色々と話しているうちに、いつのまにやら時間は最終の新幹線が出る時間に迫ってきていた。
和也は多く食べたからお金を払うと言ってくれたが、申し訳ないので割り勘にして貰って店を出る。地下街の賑わいは心なしか少し落ち着いてきたように思えた。
「改札まで見送るよ」
「良いの? ありがとう」
二人仲良くキャリーバッグを転がして、東北新幹線の改札口を目指した。二人の時間がもう間もなく終わろうとしている。
──告白。そう、告白だ。思いを告げるチャンスは、もうあと数分のうちに終わってしまう。少しずつ、別れの場所へと近付いていく。コツコツと響く靴音、心臓はドキドキと弾む。震える手は、キャリーバッグの引き手を思わずツルリと滑らせてしまいそうなほどに汗ばんでいた。
「南野、くん」
数十メートル向こうに新幹線の改札口が見えてきた頃になって、麻衣子は口を開いた。
「ん、どうしたの?」
麻衣子は、和也と向かい合うように立ち止まり、彼の顔を見つめた。胸、いや、喉元まで速まった鼓動が感じられた。そのせいで言葉がつっかえるようで、ゴクリと息を呑み呼吸を整えた。頭が真っ白になりそうなほど緊張している。和也が、首を傾げながら麻衣子を見た。カーッと顔が熱くなる。思わず俯いて、でもそれではいけないと思い顔を上げた。
「笑わないで、聞いて欲しいんだけど、さ」
寒いわけでもないのに、震えが止まらなかった。傍から見れば、アルコールの飲み過ぎで震えているように見えるのか、ちゃんと緊張しているように見えるのか。むしろ、気付いていないことを願いたい。
「好き、なの。南野くんのこと」
全ての音が、止まって聞こえた。和也の目を見ると彼は困ったような表情を浮かべていて、ああ、やっぱりダメなんだなと目を伏せた。
「えっと、ごめん、急なことでビックリしちゃって」
和也の言葉で、周囲の雑踏が麻衣子の耳に戻ってきた。昼間なら考えられないくらいに静まり返った東京駅。それでも、地元の唯町に比べれば十分に賑やかだ。
「ううん、ごめんね、ビックリさせちゃって」
震えはまだ、止まらない。
「ただ、離れる前にどうしても伝えておきたくて。ずっと、好きだったから」
二人の間に、再び沈黙が起こる。おそらく、数秒の沈黙。それでも、とてもとても長く感じられた、静かな時間。
「あ、えっと、もうすぐ電車来ちゃうし、私行くね。今日はありがとう、楽しかった」
気まずさに耐えられなくなって、麻衣子は言った。
「返事は、今日じゃなくて良いから。明日、一日待ってるから。連絡が来なかったら、ダメだったんだと思って、素直に諦める。だから──だから、待ってるね」
そう続けて、別れの言葉もそこそこに麻衣子は和也に背を向けた。それを、和也が麻衣子の手を掴んで阻止する。ドキリと胸が弾んだ。
「すぐに答えてあげられなくて、ごめん。でも──必ず、返事はするよ。約束する」
和也の言葉に、麻衣子は頷いた。
「ありがとう。それじゃあ、行ってきます」
「うん、元気でね」
和也が、麻衣子の手を離す。改札を抜けて振り返ると、和也はじっと見送ってくれていて、ニコリと微笑んでくれた。嬉しくなって、手を振ってそれに答える。
本当は、気付いている。すぐに答えられなかったということは、これまで和也が麻衣子を恋愛対象として見ていなかったということ。それでも、麻衣子の思いを受け止めるかどうか、真剣に考えてくれようとしている。だから、希望は持っていよう。
諦めるのは、まだ早い。




