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■ 東京6・北 ■

 浅草寺から東京駅へ戻る途中、どうせなら評判の良いカフェを調べてそこに行けば良いのではと思いネットで検索していたのだが、生憎途中で電池が切れてしまいスマートフォンは沈黙した。そもそも遠出をするほどの時間はなく、東京駅構内にもカフェは無数にあることは分かっていたので、太一は仕方なく東京駅に戻り駅構内で店を探すことにした。

 地下鉄とJRを乗り継いで東京駅に戻ってきた頃には、ちょうど十六時を回ったくらいであった。飛行機は十八時前に出発するので、十七時過ぎには羽田空港についている必要がある。ここから空港までどれくらい時間が掛かるのか──調べようにもスマートフォンが電池切れのため調べられないことを思い出した。そもそも、浅草寺に行こうと思うなら何時まで大丈夫なのか、時間を調べておくべきだった。後悔しても遅いが、いくらなんでも東京都区内から空港まで一時間以上掛かるということはないだろう。コーヒーの一杯くらい飲む時間はあるはずだ。

 適当に見つけた店に入ると、空席は僅かだった。今はコインロッカーに大きな荷物を預けているので良いが、荷物があれば席に着くのを躊躇うレベルの混み具合である。少し迷ったが、他の店も人の多さはどうせ同じだろうと思い、ここで休憩することにした。

 ブレンドコーヒーと甘味にクッキーを注文し、トレイを受け取り空席を探す。カウンター型の長机に一人分の空席を見つけ、そこに腰を下ろした。ふと、右隣にはおおよそ同い年くらいの若い女性が座っているのに気付き、テンションが上った。浅緑色のワンピースに白のカーディガンが良く似合う、美人なお姉さんだ。いや、先程の土産物屋のお姉さんと比べると、綺麗、というよりは可愛い、という方が正しいかもしれない。少し幼さの残る瞳には、何か得体の知れない恐怖を感じているような心細さと、いとも簡単に砕け散ってしまう氷のような美しさが備わっていて、そこが外見の幼さからは掛け離れた大人の女性を醸し出している。太一は思わず声を掛けようかと思ったのだけれど、生憎電話に応じているところだったのでひとまずやめておいた。彼女が電話を掛け終えるまで、暇潰しにと思いスマートフォンを取り出すが、すぐに電池が切れていたことを思い出す。そうだった。仕方がない、とりあえずクッキーでも食べようかと思ったが、その前に手を洗いたい。大学で細菌学や感染防御学の講義を受けていた太一には、物を食べる前の手洗いが如何に重要であるのかが体に叩き込まれていた。しかも、流水手洗いの重要性である。どれだけ冬場寒くて冷たい水で手を洗いたくないからといって、アルコール消毒だけで済ませるのは以ての外なのだ。冬場に猛威を振るうノロウイルスなんかはアルコールでは死滅しないし、細菌でもバシラス属なんかの芽胞形成菌には効果が無い。だから、太一は何かを食べる前には(特に手を直接使う場合は)必ず流水で手を洗うことにしている。

 持っていたスマートフォンは一旦机の上に置き、手が洗える場所を探す。店内にトイレを見つけ中に入り、すぐさま石鹸で手を洗った。ハンドタオルで丁寧に水気を拭い、せっかく洗った手を汚さないように体でドアを押し開けて自分の席に戻る。すると、隣の席の女性は塞ぎ込んだように俯いていた。右手が抑えるその左手は小刻みに震えていて、やはり何かに怯えているように思えた。大丈夫ですか、と太一が声を掛けようとしたところで、不意に「こら、ダメでしょ!」とまた別の女性の叱る声がして前を向いた。テーブルの敷居を隔てて向こう側に母親とその子供が座っていた。

「だって、ママ、同じだもん」

 男の子が言い訳すると、その隣で母親が呆れたような表情を浮かべた。

「そういう問題じゃないでしょ。ほら、返しなさい。どっちがどっちのスマホなの?」

 母親のその問い掛けに、ふと自分のスマートフォンがなくなっていることに気付いた。そういえば、手を洗う時に机の上に置きっぱなしにしていたのだっけ。

 敷居越しに少年が、隣りに座る女性と、そして自分とにスマートフォンを差し出した。どうやら、太一のスマートフォンだけでなく隣の女性の物も手に取っていたようである。なんとも手癖の悪い少年だ。

「もう、ほんと、すみません」

 母親が申し訳なさそうに言うので、太一は慌てて首を横に振った。

「いえ、大丈夫ですよ。これ置いてトイレに行っていた僕も悪いので」

「私も、大丈夫ですよ」

 太一が答えると、隣の女性は笑顔でそう答えた。しかし、その表情は心なしか強張って見える。

「ほら、幸太も何ボサッとしてるの、ちゃんと謝りなさい!」

 母親が厳しく叱りつけて言うので、太一は思わず苦笑いを浮かべた。少し厳しすぎるような気もするが、少年が悪いことをしたのは確かだ。人に迷惑を掛けた以上、子供のいたずらだからと甘やかす訳にはいかないのだろう。将来、太一に子供が生まれた時にも、同じように叱ることができるだろうか。今にも泣き出しそうな目をしながらごめんなさいと謝る少年と見て、太一は思った。

「大丈夫だよ」

 女性が、ニコリと微笑んで答えた。先程の笑顔とは違い固さが消えていて、その柔らかな表情は何処か無邪気な子供のように可愛らしく見えた。それは子供にも伝わったのか、少年は落ち着きを取り戻した。彼女の笑顔を見て、怒っていないことに安心したのだろう。だから太一も、少年に対して笑顔で答えることにした。

 隣に座る女性は、残っていたコーヒーを飲み干すと、スックと立ち上がり太一と、そして母子に向かって会釈した。あっと声を掛けようとしたが間に合わず、女性はトレイを片付けてスタスタと店を出ていった。

 惜しいことをしたな。可愛らしい女性だっただけに、一言くらい話をしてみたかったのに。熊本に住む太一にとって、ここは遠く離れた、しかも日本一の大都会である東京だ。もう二度と彼女と会うことも無いのだろう。そんなことを思いながら、太一も席を立つことにした。そろそろ空港に向かわないと、飛行機に乗り遅れてしまう、スマートフォンの電池が切れてしまった今、電車の時間を調べることもできないのだ。だから、確実に間に合うであろう今のうちに羽田空港に向かっておく必要がある。休息ももう十分に取った。

 席を離れる際に、ふと少年と目が合った。ビクッと少年が怯えるような仕草をしたので、太一は笑顔を返した。すると少年もあどけない表情で微笑んだ。それに気付いた母親がペコリと頭を下げるので、太一もそれに会釈を返し、店を出た。荷物を預けたコインロッカーから旅行かばんとお土産の袋を取り出し抱える。ズシリとした重みが、自分はよそ者で東京の人間ではないのだということを思い出させる。どうせ明日もまだ春休みは続くのだから、もう少しゆっくりして帰れば良かったとは思うものの、大学から宿泊費が今日までしか貰えなかったのだから仕方がない。名残惜しいが、これで東京ともお別れである。さよなら、東京。また来るよ。

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