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■ 新宿1・南 ■

 東京駅から電車で二時間ほど離れた場所にある小さな印刷会社に務めている南野和也は、この日、とある生命保険会社からの依頼で作成したパンフレットの試作品を届けに新宿までやってきていた。和也の会社が東京から離れていることもあり、本来ならメールのやり取りで済ませることも多いのだが、先方が急ぎのためどうしても直接サンプルを見ながらやり取りしたいと言うので、始発列車にゴトゴトと揺られこうして新宿まで出て来たのである。遠路はるばるすみませんでしたと初めはペコペコと頭を下げていた彼らも、打ち合わせが始まると途端に豹変し、この柄が良くないだとか、文字が小さくて読めないだとか、遠慮の欠片もなく延々と不満を述べ続けた。文字を大きくして欲しいのならもっと原稿の文量を減らしてくれなどと思いながら、もちろん仕事である以上は致し方ないことなので、静かに呼吸を整えてグッと堪える。一時間半に渡りペコペコと頭を下げ続けた和也は、ようやくそのことから解放され安堵の溜め息を吐いて新宿のオフィスを後にした。目の前に広がるビルや車、大勢の人の群れにうんざりしながら、スーツの右ポケットからスマートフォンを取り出して駅までの帰り道を検索する。来るときはどの方角から来たのだろうと思い返してみても、右からだったような気もするし左からだったような気もしてさっぱり分からない。君たちは何故そうもスタスタと歩けるのだろうかと道行く人々に首を傾げながら操作を続けていると、どうやら右へ進むのが正解らしいということが分かる。コンビニや銀行、牛丼チェーンのお店など、周囲に見えている建物と比較する限り、おそらく間違いは無さそうだ。和也は自分が方向音痴であることは自覚していたが、地図が読めるだけマシだと思っていた。そうでなければ、今朝も東京という大都会の中でひっそりとそびえるこのオフィスに迷わず辿り着くことはできなかっただろう。今歩いている通りは靖国通りと言うらしく、その通りを西へ、新宿駅を目指して歩いて行く。靖国通りと言うからには、総理大臣が参拝するかしないかが毎年のように報じられている神社が近くにあるのかもしれない。今は駅に向かって歩いているのだから、きっと反対方向に歩けば着くのだろうかと考えていると、チリンチリンと後ろからベルを鳴らされて和也は道を譲った。スッと自転車に乗った男子高校生が和也を追い抜いていく。

「そういや自転車って、歩道走行禁止になったんじゃなかったっけ……」

 誰に問いかけるでもなく一人呟いていると、すれ違ったサラリーマンのおじさんがジロリと和也を睨んだ。慌てて口を抑え、気恥ずかしさからイソイソと小走りに駅を目指した。田舎育ちの和也は、道を歩いていても人と会うことが少なかったせいかよく独り言を話す癖があった。田んぼの畦道を歩きながら今日も良い天気だとか明日は何をしようかなだとか、そんなことを呟いたって誰も聞いちゃいないものだから、ついつい思ったことを口に出してしまうのだ。しかしここは東京であり、右を見ても左を見ても、前を見ても後ろを見てもウジャウジャと人がまるで湧いて出る湯水のように溢れている。独り言なんて言っていようものなら頭のおかしな奴だと疑われたって仕方がない。

 伊勢丹前の歩行者用信号がテカテカと点滅して、和也は慌てて道を渡った。同じように急いで横断歩道を渡る人、のんびりと歩いている人、立ち止まる人、いろんなタイプの人たちがいて、その大勢の人々の間を縫うようにして駅を目指す。手元のスマートフォンを見て、このまま新宿二丁目交差点の方を目指して進んでいけば駅に辿り着くということを確認してふと顔を上げると、目の前に同じくスマートフォンの画面を睨みながら立ち止まっている女性がいた。マズいと思い慌てて体を仰け反り避けようとするが間に合わず、ドンと肩と肩とがぶつかった。体勢を立て直すことができないまま視界がぐるりと回り、青々とした空の中、白い雲がゆっくりとビルの間を流れていくのが見えた。こんな都会でも空は綺麗なんだな、なんて思っていたのもつかの間、カシャンと何かの落ちる音が聞こえるのとほぼ同時に、和也はドサリと地面に倒れ込んだ。痛みと同時に、自分が転んでしまったことを理解する。

「いたたた、すみません」

 謝りながら起き上がると、彼女も同様に尻餅をついていた。ヒラヒラの短いスカートから太ももが際どい辺りまで見えていたため、和也は思わず目を逸らした。

「いえ、私こそすみません。ちょっと、急いでいたので」

 彼女はそう言って立ち上がり、それまではアスファルトと呼ばれていたであろうスカートに付いたその欠片を払っている。不意に、先程まで手に持っていたスマートフォンが無いことに気付き、和也はキョロキョロと辺りを見回した。そういえば、倒れる時にカシャンという音がしたな。壊れてないと良いがと不安に思いながら、横断歩道の手前、車道ギリギリの所に落ちていた水色の筐体を見つけた。危うく車に粉々にされるところであったそのスマートフォンを何とか救出し、手に取った。良かった、少なくとも画面が割れてはいないらしい。

「すみませんでした、失礼します」

 和也と同じくスマートフォンを落としたらしい彼女は同じようにそれを拾い上げた後、そう言って深々と頭を下げると、明滅を始めた歩行者信号に慌てて横断歩道を渡って行った。和也も、もう一度謝ろうかと考えていたもののタイミングを逸してしまい、新宿の街に消えていく彼女の後ろ姿をただ呆然と見つめていた。信号が赤に変わり、目の前を自動車が往来し始めたことでハッと我に返った和也は、そのまま歩道に沿って歩みを進めた。それにしても、可愛い女の子だったな。肩下まで伸ばした長い黒髪に、とてもお淑やかそうな優しい笑顔を思い浮かべる。きっと、もう二度と会うことも無いのだろうなと残念に思いながらしばらく歩いていると、十分そこそこで新宿駅の駅舎まで辿り着いた。

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