■ 東京5・西 ■
東京駅構内で見つけたカフェに腰を下ろし、注文したブレンドコーヒーを啜りながら、麻衣子は悶々とした気持ちでいた。聞きたい。和也に直接、聞きたい。今現在、恋人がいるのかどうか。お付き合いしている人がいるのかどうか。仮にその答えを聞いたところで、和也が麻衣子の彼氏になるという保証がある訳ではないのだけれど、それでもやはり、恋人がいるかもしれないという不確定な要素があることはたまらなく不安だった。好きで好きでたまらないのに、その気持ちを受け止めて貰えない。それどころか、自分はこんなにも恋い焦がれ苦しんでいるというのに、その一方で彼は幸せな毎日を送っているかもしれない。考えたって仕方のないことが、いつまでも頭の中でグルグルと彷徨い続ける。
カップに注がれたブレンドコーヒーは、とても苦い味がした。四月を迎えたとはいえまだ冷たい風が吹く中、冷えきった麻衣子の心を少しでも温めてくれれば良いのに、いくら飲めどもその冷たさは和らいでくれず、ただただ苦いだけであった。お皿に載っていたコーヒーシュガーの封を破き、サラサラと溶かす。スプーンで掻き混ぜると、カップと当たってカチャカチャと静かな音がする。いつもなら数回で混ぜ終えるところを、何度も回し続けた。心にポカンと穴が開いたようで、どうにも頭が回らない。代わりに回り続けるスプーンは、くるくると小さな渦を作った。
──ガガガガガガ……
スマートフォンの振動が無機質な机の上で響き、麻衣子はハッと我に返る。カウンターのような形の長机にはすりガラスの敷居がされていて、その向こう側、麻衣子と向き合うように座っていた小学生くらいの子どもがビクンと驚いたように体を跳ねた。
「すみません……」
麻衣子が会釈すると、その男の子の右隣に座っていた母親らしき人物がペコリと頭を下げた。すりガラスの隙間から見える表情を伺うに、さほど気に留めている様子は無さそうだ。
手に取ったスマートフォンに目を落とす。知らぬ間に振動を止めていて、画面には着信履歴が残っていた。外野くん、と表示されている。ソトノくん、だろうか。いくらなんでも、まさかガイヤくんではないだろう。はて、和也と幼馴染の麻衣子だが聞き覚えのない苗字である。ということは、大学か職場の友人だろうか。それにしても、男同士で君付けとは。普段の和也を見ていると同い年の友達に君付けをするのは聞いたことがない。ということは、もしかすると後輩かもしれない。後輩なら、君付けすることもあるように思う。
考えていると、スマートフォンが再びブブブと振動した。画面には、また「外野くん」。立て続けに電話があるということは、何か緊急事態だろうか。先程の一件がある以上、電話に出る気にはなれないのだが、どうしたものだろう。悩んでいるうちに、スマートフォンはまた振動を止めてしまう。ホッと安心したのもつかの間、スマートフォンは再び振動した。もちろん、画面の文字は「外野くん」だった。意を決して、麻衣子は通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
「……なぁ、さっきの何」
ドキリとした。電話越しの彼の声には怒気が含まれていて、麻衣子は思わず息を呑んだ。少なくとも、この電話で分かったことがある。外野くんは、おそらく和也の後輩ではない。敬語を使っていないから、直感でそう思った。
「誰やねん、さっきの男」
続けて外野くんがそう言ったことで、麻衣子にはもう二つ、分かったことがあった。彼が、関西人であるということ。そしてこの電話には、出るべきではなかったということだ。
「誰やって、聞いとんねん!」
怒鳴られて、思わず体を竦めた。突然の理不尽な罵倒に、麻衣子の思考は完全に停止する。何が起こっているのか、さっぱり理解できない。和也には、こんなに怖い友達がいるのか。というか、ここまで怒らせるなんて、一体何をしたというのだろうか。
硬直してしまい、彼の問に答えられず黙り込んでいると、外野くんがスゥと息を吸って、そして吐くのが聞こえた。彼も、どうやら気持ちを落ち着けようとしているらしい。ありがたい。そうして貰えると、麻衣子も助かる。
「……もうええわ、終わりにしよう」
麻衣子は、ゴクリと息を呑む。喉はカラカラに乾いていた。
「別れよう」
外野くんは、短くそう言って電話を切った。ツー、ツー、と通話が途切れたことを知らせる音が、麻衣子の左耳に響いている。ぐっしょりと汗をかいた左手は、プルプルと震えていた。怖かった。もう辞めにしよう。そう思い、麻衣子はスマートフォンの右上にある電源ボタンを長押しし、電源を切った。最初からこうすれば良かったのだ。パンドラの箱は、初めからこうして封印すべきだったのだ。
コトリと机の上にスマートフォンを置き、右手で左手首の震えを抑える。目を瞑り、極力何も考えないようにした。全てを忘れたかった。今日一日の出来事を、なかったことにしてしまいたかった。しかし、ブンブンと首を振り回しても、その記憶を振り解くことはできない。
「こら、ダメでしょ!」
女性の声が聞こえて、麻衣子は零れそうになる涙をグッと堪え前を向いた。何事かと思っていると、どうやら子どもがいたずらをして麻衣子の持っていたスマートフォンに触れていたらしい。
「だって、ママ、同じだもん」
「そういう問題じゃないでしょ。ほら、返しなさい。どっちがどっちのスマホなの?」
母親が問い詰めると、すりガラスの下にある隙間から、少年はスッと水色のスマートフォンを差し出した。そして、少しの時間差でいつの間にか麻衣子の左隣の席に座っていた男性にも同じようにスマートフォンを差し出していた。どうやら、麻衣子の持っていたスマートフォンだけでなく、隣の男性の物にも手を出していたらしい。
「もう、ほんと、すみません」
「いえ、大丈夫ですよ。これ置いてトイレに行っていた僕も悪いので」
申し訳なさそうに女性が謝ると、隣の男性はそう答えた。無精髭が少しワイルドな彼は、そのイカつい雰囲気とは裏腹に柔和な笑顔を浮かべている。
「私も、大丈夫ですよ」
麻衣子もなんとか笑顔を繕ってそう答えると、それでも母親は気が済まず、息子に謝りなさいと厳しく叱りつけた。目に涙を浮かべながら、ごめんなさいと謝る少年を見ていると、彼には申し訳ないがなんだか心が癒やされた。大丈夫だよ、と今度は心から微笑みかけて、少しだけ残っていたコーヒーを飲み干した麻衣子は席を立ち、隣の男性と向かいの親子にペコリと頭を下げてから店を出た。
決めた。和也に電話をして、スマートフォンを返そう。そう思い、電源を入れて通話を試みようと考えたのだが、キーロックの暗証番号がどうして分かったのか問われる可能性があることに気付き、近くの公衆電話を探すことにした。何より人の電話で通話するのは躊躇われたし、再び電源を入れることが怖かったというのもあった。
駅員に尋ねなんとか見つけた公衆電話から、和也が持っているはずの自分のスマートフォンへ電話をかける。しばらく呼び出し音が続いた。これで、ようやくパンドラの箱を手放せる。ホッと胸を撫で下ろしながら、ふと、麻衣子はもうひとつあることに気付いた。
そうか。和也には彼氏がいたのか。
現在所有しているスマートフォン
南野和也→西 東山朋夏→南 西島麻衣子→東 北本太一→北
※記号の意味は、「※ 前書き ※」を参照ください。
※入れ替わりが発覚するまではネタバレ要素になってしまうため、
全話に記載している訳ではありません。
※入れ替わりが発覚する度に、あるいは必要に応じて記載していきます。