■ 唯町2・南 ■
会社で一通りの申し送りを受けた和也は、明日に備えてもう帰っても良いと許可を得たので、遠慮なく家路に就いた。荷物を纏め、大阪での仕事の時間を確認しようと職場で受け取った書類に目を通していると、梅田の少し外れにある支店に午前十時に着く予定となっていてゲンナリとした。これだと家からでは始発でも間に合わないではないか。とはいえ今日のうちに大阪まで赴くのはあまりにも重労働である。
「本当、とんでもないブラック企業だよ……」
思わず頭を抱えた和也は、目を瞑りフゥと頬を膨らませるように息を吐いた。まずは落ち着いて、そして今後の方針を立てなくてはいけない。
「さすがに交通費と宿泊費は出してくれるようだし……ひとまず今日中に東京まで出るか」
仕事に間に合うことと現在の体力とを勘案し、そう結論付けた和也は、一息吐いてから家を出ることに決めた。
「そういや、前に貰ったコーヒーがあったな」
書類を片付けた後に腰を上げ、棚の前に立った和也は、引き出しを開けて中に無造作に押し込められたお茶のパックが入った箱やコーヒーシュガーなどの束をガサガサと漁る。
「お、あったあった。って、なんだよこれ、コンビニでも売ってる奴じゃん」
何ヶ月か前に職場の友人がお土産と言って渡してくれたそれは、コーヒーシュガーの三倍くらいの太さの袋に、妹のスペルを書き損じたような見覚えのある店の名が表面に印刷されたものであった。近所のコンビニなどでも売っていて、酷いことに五本入りで五百円ちょっとくらいのものを一本だけ抜き取ったものである。確かに、チェーン店ながらここ、唯町には一店舗も存在しない店ではあった。この店に限らず、女神のような人魚がロゴになっていて、数年前に砂丘で有名なあの県にオープンして話題となった店も、くすんだ緑と赤がちょうど歌舞伎の幕のようにロゴを覆っていて、同じく某県の大学病院にオープンして話題となったコーヒーショップもこの街には存在しなかった。
「そういや、また山陰行きたいな」
コポコポとコップにお湯を注ぎながら、和也は思った。その昔、旅行で山陰に出かけたことが二回ほどあった。最近出かけたのは一年前の休暇の時で、砂丘や中国庭園、温泉に牧場、古い屋敷が並ぶ街並みに妖怪の町、シジミの美味しい湖に年に一回神様が集まる神社、世界遺産の銀山にそしてまた温泉と、五日間でかなり回ったものだから、結局はリフレッシュのために行ったのか疲れに行ったのかよく分からなかった。それでもそのどれもが魅力的で、和也を楽しませてくれたのは確かだった。思い出の写真も、スマートフォンの中に何百枚も残されている。
「そうだ、スマートフォン」
思い出して、和也は職場のフィーチャーフォンを取り出した。和也のスマートフォンは、今はあの新宿五丁目東交差点でぶつかった女性が持っていて、代わりにその女性のスマートフォンが和也の手元にあるのだ。今度こそ電話が通じると良いなと思いながら、自分のスマートフォンの、すなわち女性が持っているはずのその電話番号を入力する。通話ボタンを押し、しばらくコール音が続いた後、もしもしと女性の声が聞こえた。