■ 東京4・西 ■
小説の主人公が修学旅行先で訪れたタワーの展望台へ行き、景色を眺めながらヒロインに告白をしたところで、不意に麻衣子の鞄がブブブと振動した。なに、こんな時に。誰からの電話だろう。今この場で電話に出るわけにもいかず、ひとまず小説はしおりを挟んでショルダーバッグにしまい、デッキへと出た。そうこうしているうちに、電話は切れてしまったらしく振動が止んだ。鞄をゴソゴソと開けて、スマートフォンを取り出したところで、それが自分の電話ではないということを思い出す。そうだった、今は和也のスマートフォンを持っていたのだった。画面には、登録されていない見知らぬ番号が表示されている。一体、誰からの電話だろうか。急ぎの電話でなければ良いけどと思っていると、再びスマートフォンが振動した。表示されていたのは、ついさっき画面に並んでいたのと同じ十一桁の数字だった。立て続けに掛かってきたということは、急ぎの電話だろうか。だとすると、ひとまず電話に応じて事情を説明し、彼に掛け直してあげるというのが良いのかもしれない。和也は麻衣子のスマートフォンを持っているはずなので、連絡を取ることは容易だ。少し逡巡しながらもそう思い、麻衣子は画面下中央に表示された赤い受話器のマークをタップした。
「あ、もしもし?」
聞こえてきたのは若い女性の声で、麻衣子は思わずギョッとした。誰、この女。誰なの、和也くん。
「……もしもし?」
なんとか気持ちを抑えそう答えると、彼女が息を呑んだのが分かった。
「え、あ、えっと、すみません! 間違えました!」
電話越しの彼女が慌ててそう答えるや否や、電話はプツリと切れてしまった。嫌な汗が、背筋をツツと伝う。今の女性は誰だったのであろうか。少なくとも名前が表示されないあたり、彼女という訳ではないのだろう。しかし、電話が繋がった瞬間の彼女の嬉しそうな声のトーン。そして、和也でなく麻衣子が応じた際のあの戸惑い。ひょっとすると和也には彼女がいて、それを知っていながらも和也のことを愛している、そんな誰かからの電話だったのではないだろうか。そして麻衣子の声を聞いて、応じたのが和也の彼女であると勘違いし慌てて電話を切ったという可能性は無いだろうか。無いよね。無いに決まってるよね。和也くんに限って。あの優しい和也くんに限って。でも優しいからこそ、いろんな女性の心を揺さぶっている可能性はある。だからこそ、不安は拭えない。でも彼に限って二股を掛けているなんてことは無いと信じたい。せめて、今電話を掛けてきた女性の片思いで、浮気をしているなんてことは無いことであって欲しい。考えれば考えるほど、馬鹿らしくあり得ないと思いながらも、拭っても拭っても消えてなくならない一抹の不安が麻衣子の心をチクチクと刺した。
やっぱり、電話に応じるべきではなかった。和也のためを思って、一旦電話に出て後から教えてあげることで、「気が利くね、西島さん! ありがとう!」と言われたかっただけなのに。結局は自分が傷付いてしまうだけでしかなかったのだ。よくよく考えれば、そんなことでありがとうと言われることを期待するなんて、まるで小学生の子どもがお母さんに褒められたいがために一人でご飯を作ろうと火をかけた結果、危うく火事になりかけてしまい結局は怒られるような、そんな愚かなことでしかなかったに違いない。
電車の揺れも重なりフラフラともつれる足をなんとか踏ん張って、自分の座席へと戻る。しかし自由席だったので、そこには既に別の見知らぬ五十歳代くらいのおばちゃんが座っていた。人生とは何故こうも辛くて険しいのだろう。
「本日も、JR東日本をご利用いただきまして、まことにありがとうございました。東京、東京です」
タイミングよく不意に流れたそのアナウンスに、麻衣子は心救われたような気がした。ごめんなさいと声を掛けながら、おばちゃんに奪われた座席の真上にある棚から自分のキャリーバッグを下ろすと、おばちゃんはさっきまでそこに麻衣子が座っていたということに気付いたのか、すみませんと小さく謝った。謝られると逆に申し訳ない気がしてきて、麻衣子は大丈夫ですよと笑顔で答える。それを見ておばちゃんは安堵したのか、分厚い丸眼鏡の奥の瞳をキュッと細くして笑った。ペコリと会釈をして、麻衣子はさっきまで立っていたデッキに戻った。そこには既にドアが開くのを待っている数人が列を成していて、麻衣子もそこに並んだ。
とりあえず、心を落ち着けるために何処かのカフェに入ろう。そして、コーヒーでも飲んで心を落ち着けたら、和也に、すなわち和也が持っている麻衣子自身のスマートフォンに電話を掛けよう。持っていても、嫌な思いをするだけで何も良いことはない。まるでパンドラの箱から少しずつ中身が漏れ出しているような、そんな数多の不運が待ち受けているような気がして、電車がホームに到着するまでのほんの数分程度の時間が途轍もなく長く感じられた。ようやく電車はスピードを落とし、緩やかにホームに停車する。扉が開き、乗客が一人ずつ外へ降りていき、麻衣子もそれに続いて人混みで溢れた東京駅のホームに降り立った。