■ 唯町1・南 ■
各駅停車に揺られながら、和也は大きな溜め息を吐いた。新宿への日帰り出張から帰ったかと思うと、次の日には大阪へ行けだなんて。人使いが荒いにも程がある。
「とんでもないブラック企業だよ、全く」
呟くと、目の前の吊革に掴まっていた高校生カップルがこちらを振り向いた。またやってしまったと思いながら、ペコリと頭を下げて会釈する。そんな和也に二人は呆気にとられたのか、お互いに顔を見合わせていて、バツが悪くなった和也はイソイソと隣の車両へ移動した。連結部分の扉を開けた時にチラリと振り返ると、カップルはニヤニヤと笑いながらこちらを見ていて少し腹が立った。仕事に対する苛立ちもあって何か言ってやろうかとも思ったが、よくよく見ると男子高校生は耳にピアスをしていて髪も金髪に染めており、一瞬浮かんだ怒りは何処へやら、サバンナでライオンを見つけたシマウマが如く結局はこそこそと逃げることしかできなかった。
なんだか今日は、朝から碌なことがないな。今朝は営業先から延々と文句を言われ続け、街中でスマートフォンは失くし、和也が拾ったスマートフォンの持ち主と付き合っていると思われる人物からは理不尽に怒鳴られ、明日からの大阪出張を押し付けられ、そして高校生にも馬鹿にされ、踏んだり蹴ったりとはまさにこういうことを言うのであろう。こういうことが続いた後は、きっと何か良いことが起こるに違いない。神様はいつだって公平なのだ。そう、信じたい。
山間部を抜けた電車は、ガタンゴトンと枕木を鳴らしながら進んで行く。ポツポツと民家が見え始め、次第に閑静な、いや、線路沿いなので実際には静かという訳でもないのかもしれないが、一見すると閑静に思える住宅街へと入り込んでいく。不意に、カンカンカン、と踏切の音が後方へと流れていった。
「まもなく、唯町、唯町です。」
アナウンスに顔を上げて反対側の車窓を見ると、小さいながらいくつかのビルが並んでいるのが見えた。あの中のひとつに、和也の務める会社がある。何処かしらから帰って来てあの灰色の薄汚れたビルを目にする度に、ゲンナリとしてしまう。この程良い田舎町が和也は大好きで、幼い頃はこの景色を見る度に心が落ち着いていたはずなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。
ゆっくりと動きを止めた電車が、プシューと音を立てて扉を開けた。
「おっと、降りなきゃ」
慌ててホームに降り立つと、冷たい風が和也の体を震わせる。ようやく今日四月になったばかりだというのにもかかわらず、まだまだ春は遠いように思えた。改札を抜けて駅舎を出ると、何本か植えられた桜の木が、美しい色の花を咲かせていた。
「あれ、いつの間に咲いてたんだろう」
新宿まで向かった朝はまだ薄暗くて桜の花に気付かなかった。きっと咲いたのはここ数日くらいの話だろう。心を奪われるように眺めていると、ヒラヒラと花びらが一枚舞い落ちた。青々とした空に、まるで雪のようにフワリと、優しく、それでいて雪よりもずっと温かみのある、綺麗なピンク。
「……もう、春だったんだな」
誰にともなく呟いて、和也は小さく微笑んだ。