■ 篠山3・西 ■
右手の中にある自分のスマートフォンと、左手が握りしめている和也のスマートフォンとを見比べながら、麻衣子はドキドキと胸を高鳴らせていた。今、この手の中に、長年片思いを続けてきた彼のスマートフォンがある。ひょっとすると、彼に今好きな人がいるのかどうか、これを調べることで分かるかもしれない。もちろんのことながら、おそらくキーロックがかかっているだろう。もしそれが誕生日の日付であれば、それは麻衣子でもロックを外すことが可能である。七月二十日。今まで一度も(おめでとう、と口にするくらいのことはあったけれども、)祝うことのできなかった彼の誕生日。せめて些細なプレゼント、例えばコンビニで買えるくらいのお菓子でも構わないから渡すことができていれば、今の二人の関係はもう少し違うものであったかもしれない。今更そんなことを思っても、どうにもならないのが現実だ。彼とクラスメイトとして過ごした学校生活は、もう二度と戻ってこないのである。
ふと顔を上げて、和也を見る。彼はまだ職場からの電話に対応中で、ホームの向こう、出口がある階段の方を見ながら話を続けている。麻衣子の方を振り向くことはない。今なら。今なら、彼のスマートフォンの中を覗き見ることだってできるのではないか。そんな悪い考えが、麻衣子の脳裏をよぎる。いやでも、そんな、絶対にダメだ。だけど、だけど少しだけなら。たとえば、最近ではすっかりメールに取って代わってしまった、ふきだしやスタンプと呼ばれるイラストでやり取りする、緑色のアプリを起動すれば。具体的なやり取りまでは見なくとも、そのアプリの上位に並ぶ名前から、彼女がいるのかどうかくらいは分かりそうな気がする。そう。やり取りしている内容まで見てしまうのは気がひけるけれど、ただ、やり取りしている人の名前をチラリと覗くくらいなら。
まだ春先の冷たい風が吹く中で、麻衣子の首筋を一筋の汗が伝う。ダメだダメだ。そんなこと。絶対に、ダメ。法律で他人の手紙の中身を見ることは禁じられている。スマートフォンの中を見ることだって、ダメに決まっている。だから、見てはいけない。そもそも、彼のスマートフォンのロックパスワードが誕生日だと決まった訳ではないのだ。ほら、試しに入れてみれば分かる。そんな単純なパスワードで、開くはずがないのだ。七月二十日。すなわち、ゼロ、ナナ、二ィ、ゼロ。
ブルブルと震える指が、気が付けばその数字を押している。もしも間違えたパスワードを入力すると、ブルブルと画面が揺れる。そんなエフェクトが出てくると思って、その数字を押したのに。シューッと、数字キーは小さく収まって、青々とした綺麗な海の写真を背景に並ぶアイコンの数々が表示されてしまった。
「ひらい・・・た・・・?」
「ごめん、西島さん! ちょっと急な仕事で唯町に戻らなきゃいけなくなって」
「ひゃあ!」
背後から突然声を掛けられて、思わず変な声が漏れてしまう。慌てて手にしていたスマートフォンを後ろ手に隠し、和也の方を振り向いた。
「ん、どうかした?」
「え、ううん、なんでもない。それより、お仕事、大丈夫?」
さっきまでとはまた違うドキドキが、麻衣子の体を支配する。今にも雪が降りそうなくらい寒いのに、ダラダラと汗をかき続けている。もう少し彼が細かい所に気付いてしまう人だったら、間違いなく怪しまれたに違いない。普段は優しくて気が利くけれど、こういう時は鈍い人の方が良いな。あるいは、気付いていても気付かないフリをしてくれる人。
「それがさ、明日から大阪出張に行く予定だった奴がインフルエンザで倒れちゃったらしくて。代わりに行ってくれないかって」
「そっか、それは大変だね……もう冬も終わって、暖かくなってきたのに、インフルエンザ貰っちゃうなんて。私なんてほら、長袖着てたら汗かいちゃうくらい暖かいのに」
人間、動揺してしまうとどうして話さなくて良いことまで話してしまうのだろう。自分で言いながら、麻衣子は後悔した。
「そうだよなぁ。あ、ごめん、そういう訳でほら、今から打ち合わせに戻らないといけないから」
腕時計を見やりながら、和也が言う。待って、まだ、話したいことがあるのに。しかし、さすがに仕事で忙しい和也を引き留めるのは気が引けるし、何よりさっきのドキドキが治まらず、彼を引き留める余裕など今の麻衣子にはこれっぽっちも無かった。地元とのお別れの日、大好きな人と偶然出会うことができたのに、こんな形でバタバタと別れなければいけないなんて。やっぱり、彼のスマートフォンを覗き見しようとしたのがいけなかったんだ。恋の神様から、天罰が下されたみたい。
「お仕事頑張ってね、南野くん」
「ありがとう。西島さんも、福島で頑張ってね」
そう言って和也は麻衣子に背を向ける。ハッと、麻衣子の手の中にスマートフォンが握られていることを思い出す。
「あ、待って、南野くん! スマホ、忘れてる!」
麻衣子の声に、和也が振り向いた。
「あれ、ごめん、渡してたんだっけ」
「ううん、ごめんね、私が同じスマホだとか言って奪っちゃってたから」
慌てて戻ってきた和也に、麻衣子は答えた。
「あ、そうだったね。ありがとう」
和也は、麻衣子の右手が握りしめていたそのスマートフォンを受け取ると、くしゃりと頬を緩ませて笑みを作った。その表情に、麻衣子はまたドキドキする。
「それじゃ、また」
「あ……うん! また、連絡するね!」
咄嗟にそう答え、そして堪らなく嬉しくなる。これから離ればなれになってしまう麻衣子と和也の二人だが、彼は「また」と、そう言ってくれた。そんな些細なことが、嬉しくて仕方がない。
ホームを走り階段を駆け上がっていく彼の後ろ姿を、麻衣子は大きく手を振って見送った。彼は一度も振り返ってくれなかったが、それでも麻衣子は、これからの新生活を頑張れるような気がした。