エピローグ
携帯のアラームが鳴っている。
いつもなら二度寝を繰り返してから起きるのだが、今朝はすこぶる目覚めが良かった。
昨日のうちに用意しておいた皺のないカッターシャツを着て、妻の作った朝食を食べる。
「今朝はあなたの好きなサツマイモのお味噌汁よ」
毎朝律儀に朝食を作る妻。
結婚するまでは考えられなかった生活に、夕夜は未だに慣れないでいる。
「ありがとう、何時にうち出たらいいんだっけ」
「向こうに十時前には着きたいから、九時には出ないと」
時計を見ると後三十分もなかった。
目覚ましの設定時刻を間違えたと後悔するがもう遅い。
寝癖を直し、支度を整え車に乗る。
「間に合うかな」
「間に合うわよ」
その家の庭には数台の車と鯨幕。
遠くから自分を呼ぶ声が聞こえる。よく通る声が近づいてくる。
「夕夜、遅いわね。親族は前に居てなくちゃいけないんだから、早く来なさい。瑠美ちゃんと、あれ?」
そう言って千佐はきょろきょろと辺りを見渡す。
「茉莉ちゃんは?」
「先に走っておじいちゃんとこに行った」
「あら、全然気付かなかった。それにしても天気でよかった。昨日の雨が嘘みたいね」
空を見上げると飛行機雲が、遠くの山の峰まで伸びていた。
「今夜は星がよく見えるわね。
瑠美ちゃん、この子高校生のとき、この家に毎週泊まりに来てね、その度におばあちゃんと星を見てたのよ。ほら、あそこに座って。ね、卒業するまで続けてたのよね。私なんて除け者よ」
「母さんは仕事してたでしょ」
「そうだけど、なんか同級生みたいに、あれ、おばあちゃんが救急車で運ばれてからだっけ。それは大したことなかったけど、なんか急にそんな習慣つけちゃって」
あまりに勢いよく喋る母を横目に、夕夜は妻に説明する。
「流れ星探してたんだ。願い事叶えてほしかったから。
結局見たけどお願いできなかったよ。三回もお願いするの無理だよね」
マリともう一度お話したいと祖母は願ったが、とうとう願いは叶わなかった。
しかし毎週週末には三人で切り株に座り、空を見上げた。
目の前には年月が経って少し丸みを帯びた切り株。
三人で初めて流れ星を見た夜から十年が経とうとしている。
何年ぶりかの祖母の家は、あの頃切ったばかりだった枯木を除いて、何も変わっていなかった。
普段からスーツは着なれているが、この場所にこの格好で来るとは思わなかった。
「今日はここで泊まるんでしょ?」
「うん」
「とりあえず皆に挨拶して、後でゆっくり思い出話しでもしましょう。お酒はたんまりあるからね」
抜けるような青空に、僧侶の低音の効いた声が響く。
夕夜は娘を膝に乗せ、陽気で微睡みそうになりながら部屋の中を見回した。
そして彼女と目が合う。
あの頃よりも少しくたびれた気がするが、もう七十は越えるおばあちゃんなのだから仕方がないと思った。
そうだ、おばあちゃんの着物、母さんは絶対に着ないだろうから、瑠美にもう一度新しい服を作って貰おう。
読経が終わり皆で食事の席になり、夕夜は祖母の人形の服を作れるか妻に尋ねると、妻は快諾してくれた。
「茉莉、この子もね、マリって言うんだよ。ひいばあちゃんのお友達だったんだ。ちょっとお洋服が汚れちゃったから、ママが新しいの作ってくれるって」
茉莉は不思議そうに人形を見つめ、小さな手で人形に触れる。
「マリちゃん、今日は一緒に寝ていい?」
「いいよ。ママとパパと茉莉とマリちゃんと、四人で寝ようね」
あの飛行機雲はあの時見た流れ星の尾のように、もちろんそれ以上に長く伸びている。
(今頃あっちで仲良く遊んでいるのかな。あの飛行機雲の先で)
小さなユキと小さなマリがずっと友達でいられたように、この子にもそういう友達ができればいいと、夕夜は思った。
夕夜はふと、今夜あの部屋で寝てみようかと思った。
白い壁の向こう側で、聞こえるのではないか。
暗闇に紛れて、小さく儚い声が、今度はふたつ。
ひょっとすると、最初に聞いた話し声は、マリと、子供の頃のユキだったのかもしれない。
あの夜の隙間の魔法の時間。
不思議なことはあるんだな。
夕夜は不謹慎とは思いながら、その壁の向こうでは秘密の遊びをしているのではないかと想像し、少しにやけた。
いつか僕も混ぜてもらおう。
それはもうちょっと先になるだろうけど。