第四夜
「夕夜」
(僕を呼ぶ声)
誰かが肩を叩く。
「…マリ?」
「誰?」
目の前に千佐の顔。聞いたことのない名前を呼ぶ息子を怪訝な目で見つめる。
「お母さん仕事行ってくるからね、おじいちゃんとおばあちゃんに迷惑かけちゃだめよ。お昼には帰ってくるから」
何を今更と心で呟きつつ、眠い目をこすり、夏休み最後の火曜日の朝を迎えた。
「いってらっしゃい。僕ちょっと走ってくる」
「そう、気を付けてね、私ももう出るから」
夕夜は顔を洗い、ジャージに着替え、家を出た。
昨夜の事を思い出す。
夢だったのかもしれない。
あのときはそうは思わなかったけれど。
夢の中にいるときは、それを夢とは思わないものだ。
いつもより短めにジョギングを終え、祖母たちがテレビを見ているのを確かめ、片方窓の取れた部屋へ一人足を踏入れた。
朝であるにもかかわらず、緑色の分厚いカーテンのせいで部屋は妙に薄暗かった。
まだ少しカビ臭い。
入ってすぐに箪笥に目を向ける。
その上に、昨日千佐と見たときと同じ姿勢で人形は座っていた。
(夢だったのかな)
近寄り、手に取ろうとした夕夜は、すぐにその手を引っ込める。
人形の柔らかな感触ではない何か、木のささくれ。
夕夜は確信した。
(夢じゃない)
今夜も会える。
深夜一時の魔法の時間。
千佐に訝しまれつつ、コーヒーを二杯飲み、部屋でその時が来るのを待った。
「さむいさむーい日に、わたしとユキちゃんは出会ったのよ」
夕夜は千佐の使っていた学習机にもたれ掛かり、小さな来訪者の話を聞いていた。
「私はユキちゃんのお母さんのお姉さんにつくってもらったの。
お母さんの要らなくなった友禅の着物の端で、服を縫ってくれて、とっても嬉しかった。
遊ぶときはいっつも一緒。私はユキちゃんの一番のお友達だったんだけれど、あんまり仲良くしすぎて、ユキちゃんの本当のお友達に、神社の裏山に隠されてしまったの。
私とっても悲しくって、すっごく叫びたかったんだけど、その時は声なんかでなくって、涙も出なくって、とっても悔しかったわ。
でも、一人になってからある日突然、歩けるようになったの。三日くらい、この時間帯だけだけれど、わたし歩き回ったわ。
そしたらユキちゃん、こんな時間に一人で神社に探しに来てくれて。
お昼はその神社は子供が行っちゃいけなかったから、まさか来てくれるなんて思ってなかった。
そして、もうずっと一緒よって言ってくれたの。
大人になっても、結婚して子供がうまれても、ずっとこのうちに置いていてくれたの」
「おばあちゃん、今でもマリのこと覚えてるかな」
「ずいぶん年をとってしまったから、わからないけど、ユキちゃんが死ぬまで一緒って約束したから」
「そっか」
その夜は、小さい頃の祖母のことや、母、千佐とはほとんど遊んだことがないことなど、表情はないがマリの目で見てきたことを事細かに語ってくれた。
「チサは男の子みたいで、わたしに興味がなかったの」
なるほど、確かに人形で遊ぶ母の姿など想像できなかった。
「でも、ゆうやは」
「僕?」
「きっと覚えてないわ、小さかったもの」
遠い記憶をたどるが、なかなか思い出すことができなかった。
「小さい頃に出会ってたんだ。だから僕の名前知ってたんだね」
それからマリは何も言わず、座っていたベッドから降り、夕夜のもたれていた机に寄り掛かる。
「人間とおはなしできるなんて、思いもよらなかった。どうしてできるようになったのかな」
「今僕が聞こえている声は、ひょっとするとマリの念かもしれないね。耳から聞いてるんじゃなくて、僕の心に直接届いているのかも。だって実際マリには声帯がないんだから」
マリはよくわからないと言って、それでも今夕夜と会話ができていることに喜びを感じていた。
「もうそろそろ行かなくちゃ」
「時間があるの?お昼は全然動かないもんね」
「わたしたち人形が動けるのはこの時間だけみたい。それも、とっても強い想いを持っていないとしゃべれないの。ほんとはね、人間に見られちゃいけないんだけど、ゆうやはわたしの声が聞こえるからとくべつ」
「僕が壁を叩いたから?」
肯定とも否定ともとれる沈黙の後、
「そう。気づいてくれたってあのとき思ったの。また明日」
「うん、また明日」
家の中は決して通らず、庭づたいに窓から窓へと帰っていった。
そろそろ秋の虫も鳴きだす頃だ。
それでも夜風は湿っぽく、まだまだ夏の気配を弱めることはなかった。
(僕はマリと出会ってたんだ。一緒に遊んだのかな。母さんは覚えてるんだろうか。おばあちゃんは?)
明日の朝、直接二人に訊いてみることにした。