第三夜
その晩四人で夕食をかこみ、千佐にとっては懐かしの我が家での武勇伝などで大いに盛り上がった。
「そうそう、こないだ藤森の淳に会ったらさ、昔の面影全然なくてね、こんなんよ」
言いながら箸を持った手を大袈裟に広げ、藤森の淳が如何に肥えていたかを説明する。
「あんなにちっちゃかったのにね、時間って怖いね」
少し酔っているのか、いつも以上に饒舌に語る千佐。
「アルバムどこだっけ。後で見せたげる」
夕夜はそんな母の同級生の現状などどうでもよかったが、あまりにも楽しそうなので少しだけ付き合うことにする。
夕食も済ませ、先程カビ臭かった元開かずの間の箪笥の中にそれはあった。
窓のないその部屋は直接夜風が入ってきて気持ち良かった。
「窓ないほうがいいんじゃない?」
冗談半分に千佐が言う。
「ホントにここで寝るの?」
「まさか。おばあちゃんの部屋で寝るよ」
言いながら目の前に飛んできた蚊を見事に叩く。
「ここで寝たら明日の朝母さん別人になってるよ。ほらまた」
古民家の窓には得てして網戸がないことが多い。しばらく使っていなかったこの部屋の窓にはやはり網戸などなく、蚊はもちろん、灯りに誘われ蛾や、よくわからない羽虫などが次から次へと入ってくる。
それを払いながら千佐は自分の学生時代、そして幼少期のアルバムを捲る。
しばらく眺めていると、急に千佐が笑いだした。
「見て、おばあちゃんのちっさいときよ」
のぞきこむと、おかっぱの少女が人形を抱いてカメラを睨み付けている写真があった。まるでその人形を頑として取られまいとするように。
「何でこんなに怖い顔してるのかな」
可笑しそうに千佐が言う。何枚か同じ様な写真があった。
「あれ?」
夕夜はあることに気づく。
「どしたの?」
「この人形、あそこにあるやつじゃない?」
箪笥の上に飾られた人形。毛糸の髪の毛に、ボタンの目。上質そうな着物の端切れで仕立てられた服。
写真は白黒だが、明らかに目の前の人形と写真のそれは同じものだった。
「まあお母さん、大事にしてたのね。何十年ものかしら」
それから二人は小一時間写真を眺め、所々蚊に刺された所を掻きながら部屋を出た。
皆が寝静まり、時刻は深夜一時に差し掛かろうとしている。
夕夜は二日前の事を思い出していた。
壁の向こうで確かに自分の名前を呼んでいた。
目の前の白い壁を見つめる。
もうすぐあの声が聞こえるはず。
そして今夜も自分の名を呼ぶのだろうか。
今夜はいつもより多くの虫の声が聞こえる。とにかく壁の向こうの声を聞き逃さないよう、夕夜は意識を集中させた。
ところが今晩は一時を過ぎても聞こえない。
しばらくして、眠気が夕夜を襲い始めた矢先、思わぬ方向からそれは聞こえた。
それは不意の出来事で、夕夜の頭は見事に覚醒した。
(窓側だ)
鼓動が早まる。見てはいけないものをこれから見る恐怖が、動きかけた夕夜の足を止めた。
(今日はどうして窓側なんだろ)
そしてやはり夕夜の名を呼んでいる。
立ち上がったものの、中々進むことができない。
微かな声が名を呼び続ける。
カーテンの向こうに、確かにそれは居るのだろう。
呼び声と共に、ガラスを叩く音。
夕夜は意を決し、カーテンを開けた。
夜の隙間とも言えるこの時間のガラスの向こう。そこには先程長い時間人間の目に触れられていなかった可愛らしいそれが立っていた。
「ゆうや、やっと会えた」
毛糸でできた髪の毛を夜風になびかせながら、小さな声で彼女は語る。
「…君だったの」
初めてその人形を見たときから、夕夜は気付いていたのかもしれない。
声の主を改めて見たが、それほどの驚きはなく、その事事態に夕夜は驚いていた。
「さっきも会ったじゃない」
そう言って、やはり立て付けの悪い窓を開ける。
彼女はどういう原理で動いて喋っているのか。きっと意思というものもあるのだろう。しかしそんな疑問は一瞬で消えた。
「僕のこと知ってたの?」
夕夜はまずそれが気になった。
ベッドに促し、一秒一秒高まっていく高揚感を抑えつつ尋ねる。
「知ってた。どうしてかはひみつ。でも会いたかった」
まずそこが知りたかったのに秘密にされてしまった。
「僕も会いたかった。いつもドキドキしてここに座って、君の声を聞いてたよ。君は誰かとお話ししてたの?」
「独り言。ずうっと一人でつまらなかったから」
曾祖母が亡くなって十年、一回も開けられていないということはないだろうが、それでも夕夜は隣の部屋を今日までほとんど入ったことがなかった。少なくとも物心付いてからの記憶はない。
「名前はあるの?」
「マリ。ユキちゃんがつけてくれたの」
「ユキちゃん?おばあちゃんだ」
「ゆうやのおばあちゃん、わたしのお友達。ずうっと昔よ」
マリはそう言って少し黙ってしまった。
「色々聞きたかったんだけど、今日はとりあえず君に会えたから僕は嬉しいよ。ずっと座敷わらしか、ネズミか、そんなのだと思ってた。こんなかわいいお人形さんだったなんて」
夕夜はそっとマリを抱き上げる。
「少しの間この家にいるから、またおいでよ」
人形は表情はわからないが、小さく頷き、夕夜の手からするりと抜けると、自ら外に出た。
「また明日」
「また明日」
どちらともなくそう言うと、夕夜は窓を閉め、ベッドに横になった。
(そっか、今日は窓がないから出てこれたんだな。そっか)
夢のような出来事のあと、本当の夢は見ることなく深く眠り、母の味噌汁の匂いで目が覚めることもなかった。