第二夜
月曜日の早朝、毎朝決まったコースをジョギングしている夕夜の携帯電話に一件着信があった。
母からだ。
「もしもし」
『もしもし、あんた今どこ?すぐに帰ってきて欲しいんだけど』
立ち止まり、近くにあったベンチに腰を下ろす。
「もう後十分もしたら帰るよ。どうしたの」
『おばあちゃんが倒れたって。お母さん病院に行かなくちゃいけないから、あんたも早く帰ってきて。おじいちゃんは先にいってるから』
走った後だからかもしれないが、心臓を誰かに掴まれたように痛い。
免許を持っていない祖父はは救急車に乗っていった。
とりあえず状況を確認しに病院へ行くというのだ。
『多分ちょっと血圧が上がっただけだと思うんだけど。でも歳だから、ちょっと怖いわ』
普段ハキハキと喋る母の声が心なしか小さい。
夕夜は電話を切ると、引き返すよりもコースを走る方が早いので、携帯電話をポケットに入れてジョギングのペースではあり得ない速度で駆けていた。
祖母の味噌汁が無性に食べたくなった。
「ただいま」
「早く着替えて。おじいちゃん待ってるから」
「連絡は?大丈夫なんでしょ?」
母は少し黙って「とりあえず行ってみないと」とだけ言って、急ぎ車に乗った。
病院に着くと、祖母がベッドに寝かされ、祖父は神妙な顔つきでこっちを見た。
何か気まずそうな、妙な空気が流れている。
「まあ、血圧は少し高いです。椅子から立ち上がろうとしたときに、起立性低血圧で目眩をおこしたんでしょうな。それでつまずいて」
淡々と説明をする医者の言葉に、祖母が恥ずかしそうに笑う。
「お父さん、慌てすぎ」
「しばらく動かんかったから、こりゃいかんとおもって」
夕夜は笑う祖母の顔を見てひとまず安心して目を閉じ、ひとつ深呼吸をする。
「先生、母はすぐ帰れるんでしょうか」
「少しつまずいたときに手首を痛めたようなので、外科の方でいったん処置します」
「わかりました。今日はもう帰っていいんですね?」
「そうですね、大事を取ってしばらく安静でお願いします。家事などできればどなたか代理で」
千佐は少し考えて祖父の方を向き、
「私しばらくそっちへ行くわ。お父さんじゃ無理でしょ」
きっぱりと言ってのけ、今後しばらくの間実家に帰ることを宣言した。
まさかこんなに早くこの家に泊まることになるとは。
自宅から二キロほどしか離れていない祖父母の家は、築六〇年あまりの平屋である。
「懐かしいな。私何年ぶりだろね、ここ来たの。あれ、あのオバケの木なくなっちゃったの。残念」
庭は広く、隣家とは少し離れているので、夕夜も子供の頃はよく友達と泊まりに来て、夏には決まって庭で肝試しをした。
確かに最近まであった枯木が無くなっている。
とりあえず祖父母を送った後、千佐と夕夜は一旦自宅に戻り、何日か分の泊まる準備を整えると、再び祖父母宅へ。
そして今晩から母が寝泊まりする部屋へと。
「何この部屋、カビ臭い」
開け放った瞬間千佐は鼻をつまえながらそう言った。
庭に面している元母の部屋は、週末だけは夕夜の部屋になるので閉めきることなく普段から管理されているが、たった今開け放たれた部屋は十年前に亡くなった祖母の母、曾祖母が使っていたもので、現在箪笥ひとつを残して誰も踏み入れない開かずの間となっていた。
「いくら使わないったって、換気くらいするでしょ普通」
古びた緑色のカーテンを容赦なく開け放ち、何年も人の触ることのなかった窓を一気に開こうとするが、築六〇年の開閉することの忘れた窓はなかなか開いてくれない。
「夕夜も手伝って」
仕方なく母に加勢した。
瞬間、木製の窓は呆気なく枠から外れ、派手な音と共に草の上に落ちた。
自室で休んでいた祖母とテレビを見ていた祖父が何事かと飛んできた。
「千佐ちゃん、あなた何かやらかすわね」
娘の仕出かした惨状を見て祖母は呆れた口調で言った。
「ごめん。でもいくら使ってないからって、換気くらいしてよね。自分ちなんだから」
ぼそぼそと小さい声で呟く。
ふと夕夜はあることに気づく。
「ねえおばあちゃん、この部屋ってお母さんの部屋の隣だよね。僕が寝るときって誰もいないよね」
「当たり前でしょ。こんっなにカビ臭いんだから」
そう言ったのは千佐だったが、祖母も何か物言いたげな顔をしている。
窓は当然ガラスでできていて、外には窓の残骸が散らばっている。夕夜のその質問は誰に不思議がられることなく流れてしまった。
夕夜もそれはわかりきっていたことで、それ以上突き詰めるつもりはなかった。
今晩わかる。
そう確信すると、三人が「夏だからいいようなものの、冬だったら大変だ、しかし窓がなくてどうするんだ」などと言ってるのを横目に、夕夜は箒と塵取りを取りに行った。