第一夜
目の前に白い壁がある。
毎週祖母の家に泊まる夕夜は、午前一時頃になるとその壁から目を逸らすことができなくなる。
決まって目が覚め、母が昔使っていたベッドに座り直視する。
すると微かに人の話し声がする。
それは夜の闇に紛れ込み、知らず知らずのうちに夢の中を侵食してくるナイトメア、或いは静謐を切り裂く常識知らずの虫、または小動物の囁き。
何にせよ、夕夜はその現象はあやかしの類いではないかと思っている。
その好奇の目で壁を見つめ、そして耳をそばだてる。
小さな声は微かに語尾が聞こえる程度。
明らかに言葉を発している。
一人ではない。
多分、二人いる。
一度壁を軽く叩いてみたことがある。
すると一瞬の間をおいて、衣擦れの音を残して話し声が聞こえなくなってしまった。
なのでそれからはひとつの音もたてぬように、夕夜はただ聞き耳をたてているのだ。
しかしどれだけ集中して聞こうとしても、結局内容など微塵もわからないまま眠気に勝てず気が付けば朝なのだ。
「…また寝ちゃった」
今夜こそと毎回コーヒーや寝溜めで挑戦するが、聞き耳をたてて数分もすると深い眠りにおちてしまう。
いつものように祖母の味噌汁を頂き、その不思議な現象を反芻するも、朝の清々しい光と味噌汁の匂いで晩にあった奇妙な体験はやはり夢だったのかと思ってしまう。
父親のいない夕夜の母は、週末だけ夕夜を実家に預け居酒屋でアルバイトをしている。
高校一年生にもなって一人で留守番もできないのかと快活な母に言われたが、毎週祖母の家の壁で行われているあやかしのやり取りが気になり泊まりに行かないわけにはいかなかった。
寂しがり屋なのねーと笑われながらも夕夜は「おばあちゃんが寂しがる」と適当な事を言ってこの家に来させてもらっていた。
実際、物静かな祖母と穏和な祖父は大好きだったし、この現象を伝えようかとも思ったが、二人とも高齢なのでもし不安がられても困るのでそれは控えた。
そうしてそんなことが起こりはじめてから半年ほどたった八月の蒸し暑い週末に、夕夜は遂にあやかしの言葉のひとつを聞き取ったのだ。
びくりとした。
今まであやふやだったモノの片鱗がかいまみえた瞬間。
そしてその言葉は思いもよらぬ、自分の名前を含んでいたのだ。
違う。
呼ばれている。
少しの間をおいてもう一度。
それは蛍光灯が闇を揺らすように、今まで自分は傍観者だと思い込んでいた夕夜の思考をぐらつかせた。
寝巻きが肌に張り付いてとてつもない不快感を与えられているのに、背中だけが冷水に浸かったように寒かった。
それはもう一度呼ぶ。
しかし夕夜は返事をすることができない。
声は儚く、すぐに静けさの波に飲み込まれる。
気付かれたんだ。僕がここで聞き耳をたてていることに。
どうしよう。
不安と焦燥に苛まれながら服を握る手に力が入る。
するといつものように語尾だけが耳につく程の小さな声でそれらは語り始める。
夕夜は以前壁を軽く叩いたことを思い出す。
それはそのモノたちの中に衝撃を与えたのかもしれないし、そうではなくてもこちら側に何かがいる確信にはなったと思う。
(でも、なんで僕の名前を)
またしてもそのモノたちの会話が止むまでに夕夜は眠りに落ち、やはりいつもの味噌汁の匂いで目が覚めた。
来週、返事をしてみよう。