罪を憎んで、人の肉不味ッ!(不味いなら喰うな!)③
かくして、最後のミッションが開始されました。
といっても、僕の役割は、ただ『熱い』か『なにも感じない』かを伝えるだけです。
「それじゃ、いっきまーすっ!」
エリーが声を張り上げました。
直後、ぼふーんという、少々脱力感を覚える音が届きます。
「どうですか?」
雅さんがそっと僕に尋ねかけてきました。
「この中には、いませんね」
ここは王宮内の一室。とある魔族の上級政務官の執務室です。
僕たちは、朝から王宮内の各所を巡り、ある行為を繰り返していました。
懸命な方はすでにおわかりかと思いますが、ベオウルフさんの立案したプランは、僕がペイの村で考案した『腕を食べたヤツ捜し』とほぼ同じでした。
まず僕の肉を夜会の参加者全員に喰わせる。
すると、勇者の法則その①で、僕は彼らと感覚を共有することとなる。
あとは『熱風魔法』で、誰が犯人かを特定するだけ。
もちろん、ペイの村のときとは、規模がまったく違うため、僕たちは大急ぎで『取り調べ』を進める必要がありました。
ぶっちゃけ女王様のお墨付きを盾に、王宮内の魔族に片っ端から熱風魔法を浴びせまくっているというわけです。
「……これでいいのかね?」
いささか憮然とした顔で、対面の上級政務官が言います。いきなり部屋に押しかけられ、魔法をかまされたんだから、無理からぬことでしょう。
ちなみに生首状態の僕は、布に覆われて一見荷物風に雅さんの小脇に抱えられています。
「はーい、けっこうでーす」
臆面もなくエリーが告げました。なんだか魔法をぶちかますことを本当に楽しんでるように見えるんですけど…。
こんな案配で、取り調べは順調に進んでいきました。
それにしても、カニバルカーニバルの構成員が出ること出ること……まじめなエリート然とした魔族、知的で穏やかな物腰の魔族、上品な立ち居振る舞いの魔族。
とにかく、色んなところから「実は隠れメンバーでした」が現れます。
もちろん全員もれなくやんごとなき身分の方々なので、僕たちには、その場で彼らを逮捕する権限はありません。
なに喰わぬ顔をしてその場を去り、名前だけはしっかりチェック。
明日には、女王陛下の名のもと、彼らの自宅にて――エリーの言葉を借りるところの――家をぶっ壊すほどの家宅捜査が行われることとなります。
こうして、一日が終わる頃には、宮廷内のすべての魔族がエリーの熱風魔法の洗礼を受けることとなったのでした。
◆◆◆◆◆◆◆
かつん、かつん、と石造りの廊下を歩く音が響きます。
僕は回廊の窓から、ちらりと中庭を見下ろしました。
心なし宮殿内の風景が昨日より寂しくなったような気がします。今日、宮廷に出勤してこない魔族は、今頃、青ざめた顔で、家を掻き回す王都警備隊を眺めているのでしょう。
僕とエリー、それに雅さんは、ベオウルフさんの居室へ向かっていました。昨日の作戦の結果を女王に報告するためです。
ちなみに、本日で三日目ですので、僕の体はすでに再生を終えています。
「まだ考えは変わりませんか?」
ふいにそんな声が聞こえ、僕は視線を戻しました。
雅さんは正面に顔を向けたまま、なにも喋らなかったかのように歩き続けています。
「え? なにか言いました?」
「以前、お話したことですよ。あなたはまだ、この社会は助け合いで、成り立っていると信じているのですか?」
「ああ」
僕はようやく彼女がなにを尋ねているのかを理解しました。
「信じてますよ。そりゃあ色々とひどいこともありましたけど……それでも、世の中、最後には、助け合いと思いやりがものを言うんだと思ってます」
「そうですか……」
それっきり口を噤む雅さん。その横顔は相変わらず無表情で、なにを想っているのかがうかがえません。
先頭を歩いていたエリーが、足をとめました。
「ついたわよ」
宮殿の片隅。やや奥まった場所にあるこの付近の廊下には、僕たち以外誰の姿もありませんでした。ベオウルフさんの居室の前です。
エリーが扉を開きます。
部屋の中では、女王が血を流して倒れていました。
「え?」
とまどいの声をあげるエリー。
そんな彼女へ、扉に背を向けて立っていた男が、くるりと振り返ります。
「おお、おまえらか。遅かったな」
ひどく落ち着いた口調のベオウルフさんは、血の付着したナイフを手にしていました。
凍り付いたような数秒間が過ぎます。
「へ、陛下ぁぁぁぁぁ!!」
エリーが叫び声を上げながら、駆け出しました。
女王の衣服には赤い染みが出来ています。傷口は腹部。激しく出血しています。
エリーは、信じられないものを見るように、実の兄に視線を向けました。
「兄貴……まさか兄貴がやったの……」
「おお、そうとも」
実にあっさりと、罪を認めるベオウルフさん。
いや、それよりも――
「なぜ、彼女を傷つけることができるんだ?」
僕の言葉に、エリーが当惑の眼差しを向けてきます。
「できないはずだろ? 彼女は僕と同じ不死身体質のはずじゃないか!」
はっと息を飲むエリー。衝撃で忘れていた事実を、ようやく思い出したようです。
僕たちは、もう一度女王の様子を見ました。
傷はいまだに塞がる気配がありません。床の上の血溜まりは眺めている間にも大きくなり、整った顔が彫像のように白くなっていきます。
明らかに再生作用が働いていません。
「どういうことですか?」
僕は低い声で尋ねます。
「見ての通りだよ。女王は――いや、この女は不死身でもなんでもない。ただの魔族の小娘なのだ」
邪悪な含み笑いを浮かべるベオウルフさん。
「それも下賤の出自のな」
彼は、無造作にナイフを投げ捨てました。ナイフが床の上で無機質な音を立てます。
「ふむ。本来、おまえごときに説明してやる必要はないのだが、私が新しい王になる前の余興というのもよかろう。特別に教えてやろうではないか」
なにを言っているのかわかりませんでしたが、とりあえず続きを待ちます。
「そもそも、なぜその女が不死身で強大な魔法を行使できたのか、そこから説明するか」
これまで見せたことのない、尊大な表情で語り始めるベオウルフさん。
「それはな、なんのことはない、勇者の肉を口にしたからだよ」
「え?」
ベオウルフさんは、にやりと僕に微笑みかけると、椅子に腰を降ろしました。
「おぬしは、7つ以前のことを覚えておるか?」
急にそんな質問を振られ、僕はたじろぎます。
いや、というか、この人の口ぶり……僕が記憶喪失であるということを知ってる?
ベオウルフさんは僕の様子をどこか面白がるように眺めながら、言葉を紡ぎます。
「わからぬか? では私が教えてやろう。お主はチキュウとやらの生まれではない。この世界に生を受けたマルタなのだ」
「は?」
この人は、いったい、なにを言っているんでしょう。わけがわかりません。
「真に受けておらぬようだな。だが、これは事実だ。お主の本当の母親は、女剣士イザベラ。父親は大賢者ヨルム。共にこの世界の住人だ。ちなみに両者ともマルタの中では、かなり高名だぞ? もう故人だがな」
「………………」
「向こうの世界でおまえを育てていたのは、二人の世話役をやっていた、ただのメイドだ」
ベオウルフさんは、つい一昨日女王の腰掛けた椅子の上で、大仰に足を組みました。
「お主もすでに知っておるかもしれんが、当時は、人魔大戦の真っ最中でな。そんな中、勇者であるおまえが生まれた」
侮蔑に頬を歪める彼。
「だが、おまえの両親は、おまえが戦争に利用されることを怖れた。そして、密かに、世話役の女とともに、異世界に逃がしたのだ。おまえのそれまでの記憶を封じてな」
足元がぐらぐらと揺れ始めました。部屋全体が僕を中心に回っているような気がします。
頭の中を様々なことが駆け巡りました。
7歳以前のことを聞くと、なぜか決まって目をそらせる母。
僕は一度も大きな怪我をしたことがありません。
ふざけて屋根の上から飛び降りたこともありますが、足首にすさまじい激痛が走ったのに、気が付けば立ち上がれました。今にして思えば、勇者の治癒力が働いていたんでしょうが、そのとき母はなにかを誤魔化すように、言いました。
『勇ちゃんは、運が強い子だからね。怪我しないで済んだんだよ』
同じようなことが幾度も起こり、その度に僕は無傷であることに小首を傾げましたが、母はお決まりの台詞を言いました。
――運がいいからね
「母さんは、僕を勇者じゃなくて、ごく普通の人間として育てたかったんだ。だから、僕が自分の体質に気付かないよう、極力気を配ってた。それが本当の両親の願いだったから」
「どうやら納得できたようだな」
肘掛けに頬杖を突いて、ベオウルフさんが含み笑いします。
「だとしても……だとしても、それがなんの関係があるんです?」
「なに?」
「僕の出自と女王のことになんの関係があるのかと聞いてるんだ!」
僕はからからに渇いた喉から、声を絞り出しました。
確かに衝撃の事実ですが、それでも、今、床の上で冷たくなりかかっている女王の方が重要です。なんとしても事実を暴き、彼女の不死性が失われた原因を探り出さねばなりません。
「それが関係あるのだよ。そもそも、その小娘に不死を与えたのはおまえなのだからな」
「……?」
「お主、異世界へと飛ばされる直前、両親に黙って家を飛び出し、迷子になっただろう? ……と聞いても覚えておらぬか」
「………………」
「そこでおまえは一人の魔族の少女と出会った。そして、飢え死にしかかっていたその子供に自らの肉を食べさせたのだ」
すっと彼の指先が、僕の右頬を示します。今はなき、頬の風穴のあたりを。
「もう理解できたであろう? ネオテニアはおまえの肉を喰った。それで不死となった」
僕は女王と会ったときに、フラッシュバックした光景を思い出します。
――おなかがすいたよぅ
――それじゃあ、僕を食べていいよ
妙に生々しい白昼夢でしたが、やはりあれは幻覚などではなく、封印されていた記憶の断片だったのです。
「でも、もしそれが本当だったとしても……それでもおかしい……」
「ほう?」
「勇者の肉を食べて不死身でいられるのは、新陳代謝の関係で三日間だけのはずだ。女王は、ずっと不死身だったんだろう? 理屈にあわないじゃないか」
「よいところに目をつけたな。その疑問のこたえこそが、私が今回の計画を思いついたきっかけなのだ」
「もうそんな話、どうでもいい!」
突然、金切り声が上がりました。エリーが女王を抱え、切迫した口調で言います。
「早く陛下を手当てしなきゃ手遅れになるわ! 兄貴、いまからでも遅くないから、治療術士を呼んで! お願いだから!」
「妹よ。それはできん相談だ」
彼女は唇を噛み締めると、今度は雅さんの方を向きます。
「雅、急いで治癒魔法をかけて!」
「………………」
彼女は女王の傍らへと行きました。
そして、刀を抜いて、女王の喉元へ当てました。
「え? 雅……?」
「動かないでください」
平坦な声が雅さんの喉から流れます。
「この部屋から出ようとしたり、反抗しようとしたら、即座に女王の首をはねます」
伝えたい情報を、必要最小限の言葉だけで紡ぐ。いつもの雅さんの喋り方でした。
低い笑い声が、室内に響きます。
「さて、茶番は終わりだ。いよいよ、私が王になるための儀式へと移るとしよう」
ベオウルフさんは立ち上がりました。
「先程の質問のこたえだが、勇者の法則②を打ち破る方法が一つだけあるのだよ。たった三日の不死ではなく、永遠に持続させる方法がな」
彼は悠然と部屋をよぎり、室内の一角に敷かれていたカーペットの上に片足を乗せます。
にやりとこちらに笑みを浮かべ、芝居がかった仕草でカーペットをずらしました。
下から、床に直接書かれた魔方陣が現れました。
「それは……」
「そうだ。そこの勇者を召還するのに用いた魔方陣だよ、エリー。これでいますぐ、そのマルタを元の世界へ送り返すのだ」
僕は耳を疑います。送り返す? 僕を?
「我々が永遠の不死を得る唯一の方法。それは勇者の肉を食べた直後に、その勇者を異世界に送ることなのだ!」
高揚した口調で、そう告げるベオウルフさん。
僕とエリーは目を見開きます。
「いいか、よく聞け。確かに勇者の肉体は、ばらばらにしたとて、細切れにしたとて、勇者自身として生き続ける。だが、それは勇者が同一の世界にいる場合だけなのだ! もし、勇者が異世界へと行ってしまった場合、残された肉片は、新陳代謝に逆らい、捕食者の体内に留まり続ける。帰るべき肉体を失ったあとも、存続し続けるためにな」
僕は半ば無意識に指先で右頬をなぞりました。子供の頃から、ずっとここに開いていた穴。夢のとおりなら、あれは女王が食い千切った痕なのでしょう。
そして、その痕は僕が子供の頃から十年間、消えませんでした。考えてみればおかしな話です。再生能力がある以上、こんな傷跡ができるはずがないんですから。
しかし、今のベオウルフさんの話が本当なら、辻褄があいます。
「でも、だったらなんで、今になって、僕の頬の穴は再生されたんだ……?」
半ば独り言のように洩らした疑問に、ベオウルフさんの嘲るような声がこたえます。
「お主、あまり頭の回りがよくないようだな? 勇者が同一の世界にいる場合だけ、と言ったであろう。今、おまえはどこにいる?」
「あ」
唐突に僕は理解しました。
現在、僕は異世界にいます。そして、女王も異世界の住人なのです。同じ世界に勇者が戻ってきた以上、彼女の体内で同化していた肉は、勇者として生きようとするはずです。
ちょうど十年間凍っていた氷が解けるように、長い歳月を隔て、再生現象が起こったのです。
そして、体内の勇者肉を失った女王は、元のごく普通の魔族に戻った。
なんということでしょう。僕がこの世界に来たこと自体が、女王が不死を喪失した原因だったのです。
「言ったであろう? おまえの疑問への答えこそが、私の計画のきっかけだったのだと」
狂気の笑みを浮かべたベオウルフさんは、やおら室内の黒板にぐるんと向き直ります。
『 新しき真の王『ベオウルフ帝』誕生へのステップ
①まず宮廷内の強力なライバルたちを失脚させる
②それから、今、王の冠を被っている、下賤女を殺す
③そして勇者を異世界に送り返し、このベオウルフが唯一不死身の体を持つ、魔族となる
④あとは周りが勝手に、私を王に選ぶ 』
「どうだ、完璧な計画だろう?」
再びぐるんとこちらを向くベオウルフさん。唇がつり上がりすぎて、ピエロのような笑みになっています。
「だいたいなあ、ちょっと戦争で活躍したからって、なんでわけのわからん餓鬼が王になるんだよ!」
ベオウルフさんは、うろうろと歩き回り、ヒステリックな声を吐きます。普段のどこか超然とした雰囲気は跡形もなく消え失せていました。
おそらくこの部屋で一人でいるときは、いつも被っている仮面を脱ぎ捨て、こんな風に不満を巻き取らしていたのでしょう。
「王は王にふさわしい身分の者じゃなきゃ変だろうがッ! この私みたいに!」
ふっと正気に返ったように、彼の表情が穏やかになりました。
「計画の中で一番難しいのは、ライバルたちを失脚させることだった。どうやろうか頭を悩ませていたが、そんなときにおまえたちから事件の報告を受けた。そこで、例の計画を思いついたというわけだ」
再び、狂気の笑みが彼の唇に浮かびます。
「そうか……カニバルカーニバルのメンバーには、王宮勤めのエリートが多い。彼らをスキャンダラスな事件で逮捕させれば、自然とライバルが減るわけだ」
「そのとおり。そして、私だけが廉潔白な貴族として残るというわけだ」
僕の言葉に、得意げに頷くベオウルフさん。
「いやー、あの組織はほんとに用心深くてなあ。一部、私の息のかかった者もいたが、すべての会員を特定することは、到底不可能だったのだよ」
彼はそう言いつつ、懐からビンを取り出します。小さなビンの中には、赤黒いなにかが入っていました。
それは一片の肉でした。
「! まさか――」
「そう。これはあの日、夜会で出されていたおまえの肉だ。一切れ失敬して保管しておいたのだよ」
さりげなく紡がれた言葉に、僕はようやく確信を得ます。
「やっぱり、あの夜会の主催者はあんただったんだな?」
「おお、そうとも」
「じゃあ、なぜ、エリーの熱風魔法に引っかからなかったんだ? あんたも僕の肉を口にしたはずだろ?」
あのとき、主催者――ベオウルフは間違いなく僕の耳を食べたはずです。全員、一切れは食べるのが、結束の証という話でしたから、他の者に怪しまれないためにも、絶対口にしたはずなのです。にもかかわらず、一昨日、女王の目の前で、彼が熱風を浴びたときに、僕はなにも感じませんでした。
男は道化師じみた笑みをさらに醜悪に吊り上げます。
「くくく……まあちょっとしたトリックを使ったのだよ。しかし、そこまで説明しなくてもいいなあ? 面倒くさくなってきたしなあ」
彼はもう待ちきれないとばかりに、いそいそとビンの蓋を開け、肉をつまみ出します。
赤黒い肉が彼の口の中に消えました。
「さあ、妹よ! 魔方陣を起動させて、兄に不死の肉体を授けてくれ! そいつを元の世界に追い返せば、計画は完了だ!」
やはり、自分自身では魔方陣を発動できないのでしょう。エリーを促します。
「さあ、早く!」
迎え入れるように両手を広げ、満面の笑みを浮かべるベオウルフさん。
僕は恐る恐るエリーの様子をうかがいます。彼女は顔を俯せていました。
「妹よ! なにをしている? 兄とともに、下賤な愚民どもを支配しようではないか!」
「……けるな」
「さあ! ……って、なにか言ったか?」
「ふざけるなああああああーっっっっ!!」
鼓膜をつんざくような怒声が、室内に響き渡りました。調度類がかたかた鳴るほど、とんでもない声量です。
顔を上げたエリーの目は怒りに燃えていました。
「そんな……そんなくだらない野心のために、こんなことをしたの!」
涙の伝う頬を歪め、感情を迸らせます。
「あんたを尊敬してた……ずっとあんたみたいになりたいって、思ってたのに……」
ゆっくりと立ち上がるエリー。
ベオウルフさんは、なおも不気味な笑みを浮かべたままです。
「えりぃー、兄は悲しいぞ? この私の崇高な志を理解してくれないなんて。でも、兄は心の広い男だからな、けっしておまえを見捨てたりはしないぞ?」
ぐるん、と彼の眼球が雅さんへと向きます。
「女王を殺せ」
雅さんの刀が音もなく持ち上がりました。
「待って!」
エリーが間髪入れずに叫びます。
「……………………わかった。魔方陣を起動させる。だから、やめさせて」
「ほんとにいい子だね、エリーは。兄さんは誇らしいぞ」
彼が指揮者のように片手を横に振ると、雅さんが刀を戻しました。
「……我、二つの常世の狭間にたゆたいし獣なり。汝の前に穴をうがち、望みの場所へと誘わん――起動」
エリーが呪文を唱え終わった途端、まばゆい光が部屋を満たしました。いつの日か、空き教室で見た、あの血のような赤い光です。
光を放射する魔方陣の前で、ベオウルフさんは狂ったように小躍りしました。
「ひゃっはー、あとはあいつをここに放り込むだけだあ。それで私は永遠の命を手に入れることができるんだあ」
ふいにその動きが止まります。
「んあ?」
彼は自分の胸元を見下ろしました。そこには、一本のナイフが突き刺さっています。
場のすべての視線が、ナイフの投擲された元へ移動します。女王が横たわったまま、片手を持ち上げていました。その手がゆっくり床の上に落ちます。
「おやおや、これはこれは。女王様ではないですか」
ベオウルフさんはナイフが刺さったまま、剽げた顔をして見せます。
「さすがは尊き身分のお方だ。最後まで諦めないという姿勢は、魔族全員が見習うべきですな。惜しむらくは、その行為がまったくの無駄だということですが――ぶっ」
口から血があふれましたが、全く気にせず、侮蔑を吐き続けます。
「わ・た・し・は・ゆ・う・しゃ・の・に・く・を・くっ・て、・ふ・じ・み・に・なっ・た・んめで・す・よ。残念でしたね、ひゃっはははは――ぶばっ」
赤い光を背景に、口から血を吐き続けながら笑い狂う男。正気の光景ではありません。
ふいに、彼の隣に人影がたちました。
雅さんです。彼女はいつもの無機質な眼差しを主へと注いでいます。
「なんだ、どうしたあ?」
「我、潤いの舌を持つ獣なり。汝の傷に口吻し、癒やしの水をそこに注がん――治癒」
彼の発言を無視し、呪文を唱える雅さん。彼女の両手が淡い水色に輝きました。
雅さんはその手を、ベオウルフさんにかざします。
「おいおい、おまえらしくもないミスだな」
呆れた声があがります。
「そんな治癒魔法なんぞ、意味ないだろ? 私は不死身になってるんだから。せっかく再生能力を試す機会なんだから、邪魔しないでくれる? ひゃはははー」
「……」
雅さんはそれでも手をかざし続けます。たしかに、意味のない行為です。
だいたい、ナイフを引き抜いてから魔法をかけないと傷口がふさがらないと思うのですが……。
「ベオウルフ様、この治癒魔法がどのような仕組みで傷を治すのか、ご存じでしょうか?」
ふいに雅さんが口を開きます。
「? 私を誰だと思ってるんだ? 代謝機能を急速に加速させるにきまっ……て…」
突然、ベオウルフさんの目が大きく見開かれました。
「ごぶっ!?」
これまでとは比較にならない量の血が、その口からこぼれ落ちます。
雅さんは、その様子を冷然と眺めました。
「仰るとおりです。この魔法は、代謝機能を急速に加速させます。三日分の新陳代謝程度なら、十数秒、魔法をかけ続けるだけで事足ります」
「な……まさかおまえ……俺を裏切…………」
驚愕の表情でゆっくりくずおれていく男。その手が、ぶるぶると側近の女性に差しのばされますが、雅さんがその手を取ることはありませんでした。
床の上に倒れ伏すベオウルフさん。
彼女は、つかつかと女王に近付きます。
「雅……」
エリーが疲れたような声をあげます。
「あんた、土壇場で改心してくれたのね?」
「はい」
「今、あたしの中は、あんたを殴りたい気持ちと、感謝したい気持ちで一杯よ……」
「すいません。咎は後ほどお受けします。しかし、今は陛下の治療を」
切れ長の目が、床に横臥するネオテニアに向けられます。
「わかったわ」
雅さんはこちらに背を向け、低い声で呪文を唱え始めました。
「我、幾千もの慟哭を知る獣なり――」
!? さっきと呪文が違う?
「汝の頭に茨の輪を冠せ、我が嘆きを分け与えん」
「エリー、気をつけろ! やっぱり雅さんは――」
「幻覚」
警告を発するより早く、呪文が響きました。仄白い光がすぐ近くに現出します。
僕はエリーを振り返りました。驚きに口を開いた彼女の頭の上に、白い光の輪が浮いています。彼女の外見も相まって、あたかも天使が目の前に現れたようです。
次の瞬間、光の輪が彼女の頭部に嵌まりました。
「エリー!」
床に倒れ込むエリー。胎児のように体を丸め、がたがたと震え出します。
「悪寒です」
短い声が耳に届きました。
僕はゆっくり視線を戻します。常と変わらぬ怜悧な目が、ひたりとこちらを見据えていました。日本人形のように整った顔からは、やはり胸中がうかがえません。
雅さんは、刀を抜いていました。剣の先端に、紫色の光が灯っています。光が脈打つたびに、エリーの輪も光を強めたり弱めたりしています。
「これでも、この魔法による幻覚の中では、比較的楽な方です」
瘧のように震えるエリーを見下ろしながら、そう告げる彼女。
僕は雅さんと正面から向き合いました。室内には光が乱舞しています。
毒々しい赤色に剣の放つ紫色が混じり、雅さんの姿が幻想の彼方に浮かんでいるかのように見えます。
「一つ聞いていいですか?」
「どうぞ」
「あなたは、ベオウルフさんの手先だったんですよね?」
「ええ」
「裏切った理由は?」
「わたくしが王になるためです」
耳を疑うというのは、まさにこのことです。
「意外ですか? でも、わたくしにも野心はあるのですよ?」
冗談ではなさそうです。そもそもこの人が、こんな状況で冗談を言うはずがありません。
僕は大きく息を吸いました。そして、両腕を胸の前で構えます。
「なら、あなたを倒すしかないですね」
「………………」
自分で言っておいてなんですが、それこそギャグにしか聞こえません。1秒も保たない予感がびんびんします。
しかし、意外にも、雅さんは刀を構えつつ、告げました。
「あなたは油断のならない人です。今回の旅の間、わたくしは幾度もあなたへの評価を上方へ変えざるを得ませんでした」
すうっと音もなく、剣先が降りてゆきます。
「だから、申し訳ないのですが、魔法で仕留めさせてもらいます」
雅さんは、呪文を唱え始めました。
「我、幾千もの慟哭を知る獣なり――」
おや? この呪文は……
内心、微かな希望が芽生える僕。幻覚の魔法が僕に効かないのは、老人との一戦で証明済みです。ということは、これは最初で最後のチャンスかもしれません。
僕は意を決して、駆け出しました。
どうやら雅さんは、僕にあの呪文が通じると思っているようですから、魔法を唱え終えた直後、隙が出来るに違いありません。そこを飛びかかれば…………。
「汝の頭に茨の輪を冠せ、我が嘆きを分け与えん――幻覚」
今だ!
僕は雅さんに飛びかかりました。
彼女がくるりと半回転し、部屋の隅に剣先を向けます。
――!?
瞬間、全身に寒気が走りました。これまでに感じたことのない、凄まじい気分の悪さが襲いかかってきます。
たまらず床に倒れる僕。
苦しい。
まるで、骨の中に氷を詰め込まれたようです。
体の内側から間断なく、寒気が湧き上がってきます。ただ、横たわっているだけで耐えがたい苦痛が、僕を蝕み続けます。
気が付けば、僕は胎児のように体を丸めていました。
横向きになった視界の中で、誰かの足がゆっくりこちらに近付いてくるのが映ります。
僕の前で足がとまりました。見上げると、なんの感興もなくこちらを見下ろす雅さんと目があいます。
彼女は手に何かを下げていました。
鳥かごです。いつも部屋の片隅に置かれていた、布を掛けられているあの鳥かごでした。
「これがトリックの正体です」
意味がわからず、僕は布で覆われた鳥かごを見つめます。
「先程、あなたはベオウルフ様に質問したでしょう? 『なぜ夜会で肉を口にしたのに、熱風魔法による判別で引っかからなかったのか』と」
細くて長い指が、布をゆっくり取り払いました。鳥かごの中が露わになります。
例の魔法の輪が、かごの中に浮かんでいました。輪の真ん中になにかが置かれています。
最初、僕にはそれがなんであるのか、まったくわかりませんでした。
両手で抱えられるくらいの灰色の塊。まるで複雑に絡み合う蛇のように、入り組んだ皺が全体に刻まれています。どこかで見たことはある。けど、図鑑かなにかで見たことがあるだけで、日常生活ではまずお目にかからないはずの物。
ようやくわかりました。
「人間の……脳……?」
僕は、悪寒をこらえて、声を絞り出しました。
「あなたの脳です」
……? 意味がわかりません。どういうことでしょう?
雅さんの人差し指が、まっすぐ僕を示しました。正確には、僕の頭を。
「今、あなたのそこには、なにも入っていません。空っぽなのです」
…………………………………………………………………………
いやいやいやいや、ちょっと待ってください。
よく言いますよね、頭が良くない人に向かって『おめえの頭は空っぽかよ?』とか。つまり、そういう意味でしょうか?
「違います。本当の意味で空洞なのです」
僕の表情を読んだのか、雅さんがそう告げてきました。
「あなたの脳は摘出され、とっくの昔にこの鳥かごの中に移されていたのです」
「………………………嘘ですよね?」
「本当です」
絶え間なく体を苛む悪寒さえ、一時的に意識から消え去りました。
僕は呆然と鳥かごの中のそれを見つめます。
頭が混乱で満たされます。いえ、それは正確な表現ではありません。
だって、僕の頭の中には、何も入っていないのですから。
混乱しているのは、僕の首から上にのっている部位ではなく、今、囚われの身となっている鳥かごの中の脳なのです。
「……摘出って言いましたよね?」
「はい」
「……誰がいつ摘出したんですか?」
「わたくしが、あなたがこの世界に来る直前に、です」
僕はゼンマイ仕掛けの人形のような動きで、鳥かごから雅さんへと顔を移動させました。
この世界に来る直前?
「まだわかりませんか?」
雅さんは鳥かごを床の上に置きました。
空いた左手を持ち上げ、美しいカーブを描く額に添えます。
「我、無数の仮面を持つ獣なり。汝の顔を鑿で穿ち、望みの彫刻へと変えん――変身」
すーっと、舞台の幕のように、彼女の手が上から下へと移動しました。
手の下から、まるで手品のように、雅さんとは異なる容貌が現れます。
知的な眼差し。肩より少し上までのさらりとした黒髪。そして、口元に刻まれた皮肉げな微笑。少々冷たそうですが、かなりのイケメンです。
「って、え………………霧島先輩?」
その顔は、どこからどう見ても、僕の学校の先輩――あの霧島先輩でした。
「久しぶりだねぇ、多田氏ちゃん」
彼(?)は皮肉げな笑みを浮かべたまま、言います。綺麗だけど、どこか嬲るようなその声も、記憶の中にある先輩のものと一致しました。
呆然と彼の顔を見上げる僕。
「驚きで声も出ないって感じかな? そう。俺だよ。大好きな霧島先輩だよ」
「………………」
「俺はな、こっちの世界の住人だったんだよ。勇者をあっちの世界から呼ぶには、かなり特殊な魔法陣が必要だけど、魔族一人を行き来させる程度なら、それほどでもないのさ」
ひょい、と小馬鹿にするように肩を竦めます。
「勇者が異世界にいることを突き止めたベオウルフは、そいつを探し出すために一人の魔族を送り込んだ。それが俺さ」
さらっと髪をかき上げる先輩。見覚えのある仕草を見せられ、こんな時なのに、僕の胸に懐かしさが込み上げてきます。
先輩の存在自体が、僕にとって失われた日々の断片なのです。
たとえ彼が偽りに彩られた存在だったとしてとも。
「苦労したよ、多田氏ちゃんを探し出すのは。で、なんとかおまえを見つけ出した俺は、こっち側で準備が整うまで、引き続きおまえの監視にあたる任務を与えられた」
「監視……?」
「そうだよ。俺はずっとおまえを見てきたんだ。おまえだけを、ね。まー、ちょっと気晴らしにちょっかいを出しちゃったりしたけど、基本それだけが俺の仕事だったのさ」
狐のような賢しげな表情が、先輩の顔に浮かべます。
「そうこうしてるうちに、多田氏ちゃんを召還するための魔方陣が完成した。で、そっちの妹君に召還させることにしたんだけど、その前に一つ保険をうっておくことにしたんだ」
小首を傾げ、ひょいと鳥かごを持ち上げてみせる先輩。
「それがこれ。ほら、覚えてない? 空き教室で召還される前に、多田氏ちゃん、俺に殴られて気絶したでしょ? で、目が覚めたとき、なんか頭が血まみれじゃなかった?」
僕は、懸命に記憶を探ります。
そういえば、その後に起こった事態があまりに衝撃的だったので忘れていましたが、確かにそんなことがありました。
頭部から滴る、血の筋。こめかみから少し上あたりにラインに沿って、ぐるりと頭を一周していたその跡は、まるで開頭手術をした直後のようで……………………。
「まさか」
「そうだよ。あのとき、実際に頭を開いたのさ。そして俺はおまえの脳みそを取り出した」
先輩はメロンくらいの大きさのなにかを、鞄にしまっていました。とても大切そうに。
「なるべく、てきぱきやったんだけど、傷口が完全に塞がる前に多田氏ちゃん、目を覚ましちゃったろ? さすがの勇者も脳を生きたまま取り出されるってのは、きつかったのかなあ?」
くつくつ、と声をたてて笑う先輩。
その目がとりかごの中で魔法の輪に囲まれている僕の脳みそへと向けられます。
「もうわかったろ? この幻覚って魔法は、相手の頭に直接幻覚を送り込む。正確には、相手の脳に。ベオウルフが熱風魔法を受ける直前、俺はこの鳥かごに向かって、密かに幻覚をかけたのさ」
僕は、あのとき雅さんが、エリーに場所を譲るようにして、さりげなく鳥かごの方へ下がったことを思い出しました。
「すると、あら不思議。おまえは感覚を共有しているはずのベオウルフの熱さを感じることができなくなる。俺の魔法で、熱くないという幻覚を与えられてるからね」
先輩が剣の先を少しだけ動かすと、紫色の光がそれに反応するように輝きを強めます。
途端に、全身を蝕む悪寒がさらに激しくなりました。
僕はすべてを悟りました。
あの老人の魔法が効かなかったのは当たり前です。幻覚をかけるための脳がそもそも僕の頭の中になかったのですから。
僕はこの世界に来てからというもの、ずっとこの鳥かごの中にいたのです。そして、まったく無自覚に体を遠隔操作ロボットのように操っていた。
「さて。多田氏ちゃんも理解できたようだし、最後の仕上げに移らせてもらうよ」
霧島先輩はそう言うと、刀をゆっくり降ろしてきました。紫の光に包まれた剣先が、床に這いつくばる僕の肩に触れます。
先輩が軽く、刀を横に振りました。刃の上に薄っぺらい肉が現れます。
痛みはほとんどありませんでした。肩からそがれた肉は本当に最小で、血もほとんど出ていません。
先輩がそっと肉を口に含みました。
そして、剣を少し手前に引きます。途端に、僕の悪寒が弱まりました。
にっと皮肉げな笑みを浮かべる霧島先輩。その顔を今度は下から上に向かって、手がスライドしていきます。
「今なら、魔方陣まで歩くことぐらいできるはずです」
再び雅さんの顔に戻った先輩が言います。
「その鳥かごを持って、元の世界に帰りなさい。そして、ここで起こったことはすべて忘れるのです」
秀麗な横顔が、床の上の魔方陣に向けられます。
「あなたのその体質は、あちらの世界でも、十分活用できるはずです。用心する必要はありますが、うまくやれば、人より良い人生を送ることもできるでしょう」
僕はよろよろと立ち上がりました。ぼんやりとした目で、魔方陣を見つめます。
危険に満ちたこの世界からの唯一の脱出口。魔方陣から放たれる赤い光が、ゆっくりと蠕動します。まるで、僕を誘うかのように。
確かにいい提案です。
そもそもここで起こってることなんか、僕にはなんの関係もない。僕は無理矢理この世界に連れてこられただけです。
しかもここの連中ときたら、やれ奴隷が欲しいだの自分が王になりたいだの、いいように僕を利用することしか考えていません。
チャンスがあれば一刻も早くおさらばしたいと、いつだって思ってました。
元の世界に帰り、上手にこの体質を使って、人より幸せな人生を送る。
結構な話ではないですか。
「でも、お断りします」
僕は、雅さんに言いました。
「なぜ?」
「エリーや女王を放って、自分だけ帰るわけにはいかないから」
嘆息を洩らす雅さん。
「なら、仕方ありませんね」
紫の光が爆発するように、輝きました。
「ぐ――――」
悲鳴さえあげることもできず、僕は全身を硬直させます。
棒を飲んだような格好のまま、体が真横に倒れました。
騒々しい音を立てて、ひっくり返るテーブル。卓上のランプが割れ、鳥かごが床の上を転がっていきます。
「では、わたくしの手で、あなたを魔方陣に放り込むとしましょう」
こつこつと言う足音が徐々に近付いてきました。
立ち上がらなければ……。そう思うのですが、指先さえ動かすことができません。
あたかも生きたまま標本にされたかのように、床の上でぴくぴくするのが関の山でした。
ぼんやりと霞んだ視界になにかが映ります。目の前に、筒のような物が落ちていました。
『久方ぶりだな、勇者よ』
突然、そんな声が頭に響きます。
幻聴? それとも、これも雅さんの魔法の効果でしょうか。
『そうではない。我だ、聖剣ソウルグレイブだ』
苦痛に朦朧とする意識に、その呼びかけはやけにはっきり聞こえました。
「聖剣……ソウルグレイブ……」
『そうだ。少し前にゴーレムと戦う際、汝は我を手にしたであろう』
急速に、記憶が蘇ってきました。
そうです、この声は召喚されてすぐにゴーレムと戦わされたとき、剣から響いてきたものと同じです。
勇者にしか扱えないという武器。名前は聖剣ソウルグレイブ。
目の焦点が、ようやく円筒形状の物体に合いました。リレーのバトンによく似た物。どうやら、これはベオウルフさんが管理していたようです。机が倒れたとき、どこかから転がり出てきたのでしょう。
僕は、体内に残っているすべての力を集結し、それに手を伸ばしました。
「無駄ですよ」
冷然とした声が頭上から振ってきます。
「それはあなたには使い込なせません。以前、証明されたでしょう?」
なんとか視線を持ち上げると、すでに見慣れた無表情がこちらを見下ろしていました。
「一つ、面白い話をきかせてあげます」
雅さんは、刀を片手に下げたまま、言葉を紡ぎます。
「私の両親は地方の貧しい魔族でした。生活は苦しかったのですが、非常に心優しかった彼らは、様々な奉仕活動をしていました。あちらの世界で言うボランティア活動です」
彼女は淡々と言葉を紡ぎます。
「彼らの愛は、同族だけではなく、マルタにも注がれていました。まだ捕食禁止法がなかった時代に、マルタが安全に暮すことのできるための捕食を禁ずる村を作ったのです」
魔方陣の赤い光が、彼女の顔に陰影を刻んでいました。精緻に描かれた絵画のようです。
「やがて人間と魔族の間に戦争が起こりました。しかし、それでも彼らはその村を守り続けました。中には猛烈に反対する魔族もいたのですが、二人は時として身を呈してまで、その村の決まり事を保ち続けました。そんなある日、その村が人間の手に落ちました」
いつしか僕は、彼女の話に引き込まれていました。
己の身も顧みず、他種族であるマルタを庇う二人。彼らはどうなったのでしょう。
「二人は即座に殺されました。それも彼らの子供の目の前で、です」
僕は目を見開きました。
「村のマルタたちはこう考えたのです。『俺たちは、今まで、マルタとして戦うこともせず、逆に魔族に保護されてのうのうと生きていた。それを他の人間に知られると、これから先、暮らしにくくなってしまう。なら、村に残っている魔族たちを皆殺しにして、その財産を奪った方がいい』」
雅さんの言葉が途絶えました。僕は衝撃の事実に、慄然とします。
「で、でも、雅さんの両親は、長い間、マルタを助けてあげてたんでしょ?」
「彼らは口封じのために一番に殺されました。なんの躊躇もなく」
僕は彼女の顔を見ました。
切れ長の瞳には、相変わらずなんの感情も浮かんでいません。
ただ事実を並べ立てた、と言わんばかりに。
「強者が奪い、弱者が奪われる。これが自然の法則なのだと、わたくしは向こうの世界でもこちら世界でも言いましたよね? わかりますか? これが事実なのですよ。そして、わたくしの両親は、それに不自然に抗ったから、その報いを受けた。おかげで一人残されたわたくしは、さんざん苦労をする羽目になりました」
「…………」
「すべては、あなたのような分からず屋がいるせいです。弱肉強食がこの世の掟だという真理を受け入れることができず『話せばわかりあえる』だの、『お互いに手を取り合えば、より良い社会を築くことができる』だの戯言を吐き、周囲に迷惑をかけ続けた挙げ句、自己満足とともに身を滅ぼす。そういう輩です」
雅さんの声に、徐々に熱がこもり始めました。
「いいですか? わたくしが王になったら、今までのような生ぬるいマルタとの共存は許しませんよ? すぐにマルタ捕食禁止法を撤廃し、社会を本来あるべき、姿に戻します」
「…………」
「思いやりでできた社会? 両親もよく口にしていましたけど、そんなふざけた幻想はこのわたくしが全力で否定してあげますよ!」
「それがあなたが王になる理由ですか」
「ええ」
「嘘っぱちに彩られた動機ですね」
ぴくりと雅さんの眉が動きます。
「なんですって?」
「あんたは嘘をついている。否定して欲しいのは、自分の理屈の方だろう? あんた、本当は両親の方が正しいって思ってるだろ? それで、自分の理屈を否定してもらうことで、それを証明して欲しいんだ」
「なにを根拠にそんな戯れ言を」
「違うっていうのか。なら、なんであんたはそんな表情をしているんだ」
雅さんの顔に浮かんでいる表情。
それは時折垣間見せていた、あの途方にくれたようなものでした。
たとえるなら、深い森の中で迷った子供のような顔とでも言いましょうか。瞳の奥に疲労を浮かべ、目の前の僕が道標でもあるかのようにすがるような眼差しになっているのです。
「いいよ。なら、僕が道標になってあげるよ」
雅さんの刀の先が虚空を上下に彷徨います。あたかもなにかを迷っているかのように。
「僕が雅さんの理屈を全力で否定してあげるよ!」
僕の中をただ一つの思いが満たしました。この気の毒な女性を苦しみから救ってあげたい。ただそれだけが。
『それが汝の思い描く勇者の姿か』
突然、頭の中にどこか満足げな声が響きました。
瞬間――青い光が生じました。光は洪水のように僕の右手から溢れています。
僕の握る剣の柄からは、あのゴーレムのときとは比較にならない、目映い刃が伸びていました。
雅さんが、はっと息を呑み、とんぼを切って距離を取りました。
僕は傍らに転がっている鳥かごに目を向けます。
ほとんどなにも考えず、手にした剣を振りました。光の刃が、かごを直撃し、左から右へと突き抜けます。
「な!」
短い驚愕の声が、雅さんの口から上がります。鳥かごには、傷一つついていません。中の脳も同様です。ただ魔法の輪だけが跡形もなく、消滅していました。
悪寒の戒めを解かれた僕は、ゆっくり立ち上がります。
「……これは驚きましたね。まさかその剣の真の力を引き出すとは」
雅さんが刀を正眼に構え、押し殺した声を上げます。わずかに頬が引きつっていました。
「僕があなたを救ってあげます」
その言葉に、歪な笑みを見せる彼女。
「それはどうも。でも、その前に一つだけ忠告しておきたいことがあります」
「なんです?」
「その剣――聖剣ソウルグレイブはたしかに絶大な力を秘めていますが、使用するためにある物を差し出さなければなりません」
眉を寄せる僕。
「なんです、そのある物って?」
「寿命ですよ」
雅さんはにやりと口の端を吊り上げました。
「わかりますか? 不死身の勇者の唯一の弱点。それは寿命があることです。その剣は勇者のただ一つの泣き所を糧としているのですよ。ゆえに魂の墓場と呼ばれているのです」
「…………」
――本当か? ソウルグレイブ
『…………真実だ』
「そうか……」
雅さんが勝ち誇った表情になりました。
「さて、もう一度尋ねます。それでもあなたは、わたくしを救ってくれるのですか? 自分の命を削ってまで、ただの他人のこのわたくしを」
「うーん……寿命かあ………」
しばし考え込むふりをする僕。
「まっいいや、それでも救っちゃいます☆」
「こ………こ………」
初めて雅さんの顔に、明確な怒りが浮かびました。
「この愚か者がぁぁぁぁぁぁっっっ!」
一足飛びに近付いてくる雅さん。瞬時に間合いがつまります。
ずぶり。気が付けば、僕の胸は、突き出された彼女の刀に貫かれていました。
白けたような間があきます。
「わたくしとしたことが、つい熱くなってしまいましたね……考えてみれば、いくら武器が優秀でも、あなたの身体能力でわたくしが倒せるはずもないのに」
柄に手を添えたまま、嘆息を洩らす雅さん。
僕は小首を傾げます。
「雅さん……もしかして、らしくなく焦っちゃいました?」
「は?」
「そんな風に綺麗に胸を串刺しにすると、全然痛みを感じませんよ?」
そう。不死身の僕が傷を負って動けなくなるのは、痛いからです。
院長のときと違い、こんな風に技アリかつ超高速で胸を貫かれても、文字通り痛くも痒くもありません。
雅さんがはっとした顔になりますが、いくらなんでもこの状況なら僕の方が早いです。
僕は思いきり、雅さんに剣を叩き付けました。
「ぐ………」
小さく呻いて倒れ伏す雅さん。僕は慌てて、抱きとめます。
「あ、すいません! 強くやり過ぎちゃいました?」
「? ……………切れてない?」
「柄で思い切りぶったんです。僕、握力が29しかないんで大丈夫だと思ったんですけど、剣のおかげで多少パワーアップしちゃってたみたいで。大丈夫ですか?」
僕を睨む彼女。
「……………なぜ、殺さなかったのですか?」
「思いやりですよ」
「……………?」
「言ったでしょ。『あなたの理屈を否定してあげます』って。ほら、僕に思いやりがあったおかげで、あなたの命は助かった」
「……………」
「ちゃんと内野君に一万円返してあげてくださいよ、先輩」
雅さんは、深いため息を洩らしました。
「あなたって、本当に迷惑な人ですね………」
そして、彼女は意識を失いました。