旅は肉(ミンチ)連れ、世は情け容赦なし(9)
「あれです」
院長さんの指さす方には、たしかに一台の馬車が止まっていました。
ほとんど裏手といってもいいくらい、孤児院から近い場所です。考えてみれば、子供を攫って、速やかに運ぶ必要があるんだから、なるべく近くに馬車を止めるのは当たり前かもしれません。
馬車が逃走する前に戻ってくることはできたのは、僥倖というべきでしょうが……。
「行きましょう」
僕は、傍らの院長さんをうながします。
彼は驚いた顔で、こちらを見ました。
「え? あの……あなたは丸腰のようですが…」
「もし戦いになったら、武器があろうがなかろうが、勝負にならないと思います。なら、出来るだけ身軽になって、こっそりと助け出しましょう」
見つかれば、その時点でアウト。それが僕の判断でした。
そもそも、僕は昨日の一件で、現在、隻腕なのです。ただでさえ武器なんて持ったこともないのに、実戦で使いこなすのは、無理でしょう。
院長さんは、わずかに逡巡した後、首を頷かせました。
僕は、なるべく音を立てないように移動を開始します。
院長さんの言うとおり、この辺りは人の立ち入ることが滅多にないようです。
下生えが生え茂り、木もこんもりと葉を茂らせて、森に深い陰を落としていました。
僕は身をかがめながら、下生えから下生えへと移っていきます。確認はしていませんが、院長さんも僕の後をぴったりついてきているようです。
馬車のすぐ近くに辿り着きました。そっと様子を探りますが、少なくとも車外には、見張りの姿が見当たりません。
「……行きますよ」
「はい」
僕たちは、下生えから出て、馬車の後ろへ近付いていきました。
まるで死人の乗り物のように、馬車からは物音一つ聞こえてきません。
ついに、荷台に手が届くところまで辿り着きました。
僕は背後の院長さんに『待て』と手振りで伝え、馬車の中をのぞき込みます。
いました。
子供たちが合計5人。
全員、手足をぐるぐる巻きにされた上、猿ぐつわを噛まされています。念入りなことに、目隠しまでしていました。
意外なことに、ここにも魔族の姿が見当たりません。いったい、どこにいるんでしょう。
しかし、今がチャンスであることは間違いありませんでした。
僕は背後を振り返ることなく、小声で尋ねかけました。
「院長さん、ナイフとか持ってますか?」
「ええ」
「じゃあ、急いであの子たちの縛めをとってあげましょう」
「いえ、その必要はありません」
「?」
僕は背後を振り返りました。
院長さんが逆手に持ったナイフを、振り上げていました。
さくっ
胸に冷たい感触が走りました。
「え?」
冷たさは、すぐに熱へと変じます。熱湯を注ぎ込まれているような熱さは、速やかに僕の胸を放射状に広がっていきます。
院長さんがナイフをこじらせました。
瞬間、今までに感じたことないほどの恐ろしい激痛が、僕の脳を焼く尽くしました。
「ぐああああああああああああああっっっっっっっっっ!!」
絶叫が喉から迸ります。犯人にばれる以前に、ここがどこで今なにをしているのかさえ、わからなくなるほどの痛みです。
院長さんがナイフを引き抜きました。
「ぐはぁ!」
大量の吐血をする僕。胸から噴水のように血が吹き出します。
しかし、すぐにそれは収まりました。
たちどころに塞がっていく傷を見て、院長さんが興奮した声をあげます。
「やっぱりだ!」
彼は早口でまくしたてます。
「凄いですね! いやほんと凄いですね! いったいあなたは何者なんですか? 心臓を一突きにしたんですよ? いやはや信じられません!」
僕は痛みの余韻をこらえ、院長さんに驚愕の目を向けます。
「あんた、まさか……」
「そう。私がこの子たちをここに運んだんですよ。商品として魔族に売るためにね」
「な――」
「だって、私の給料ゼロなんですよ? 院長なんて名ばかりで、ただ最低限の衣食住を与えられてるだけなんですよ? そこの子供たちとなーんにも変わらないんですよ?」
僕は混乱する頭で必死に状況を整理しました。
発言からすると、どうもこの人は、ただの奴隷として孤児院の管理を任されていただけのようです。そして、そんな自らの状況に満足できなくなり、道を踏み外してしまった。
「あ、あんた自分がなにをやってるのか、わかってんのか? あんたは、自分の子供を食料として売り渡してるんだぞ?」
「私の子供じゃ、ありませんよ」
「子供だろ! あんたはあの子たちの育ての親じゃないか! 子供たちはあんたのことを信頼してたんだぞ。それを……」
小首を傾げる院長。その顔には、例の卑屈な笑みが浮かんでいます。
「うーん、そろそろ魔族の方々が見えるころなんですけど、ちょっと遅いですねぇ」
その言葉に僕は総身の毛が逆立つほど、戦慄しました。
「院長さん、お願いです。今からでも遅くないから、人の道に戻ってください」
こたえは、再度胸に突き立てられたナイフでした。
「――――」
「いや~、私もほんとはこんなことしたくないんですよ? でも魔族の方々って、この世界の支配者でしょ? 強い者のルールには従わないと、こっちも生きていけないんですよ」
文字通り胸をえぐられるような絶望感を味わう僕。
このままじゃ……子供たちが……
「そ・れ・よ・り・も。あなた本当に何者なんですか? 昨日の件を見て、ただのマルタじゃないと確信してましたが、なんで傷が治るんです? どういうからくりなんですか?」
「…………」
「ん~、まあこたえたくないなら、いいでしょう。どうやら、ナイフを刺しっぱなしにしておけば、抵抗できないみたいですからね。それに、ちょうどお客様も到着しましたし」
院長がゆっくり顔を右に向けます。
胸にナイフを突き立てられたまま、彼の視線を追う僕。
三人の魔族が立っていました。
左右に並んだ二人の男は、背格好がそっくりです。昨日、エリーに絡んだ男がチワワに見えるほどでかく、どちらも処刑人のようなマスクを被っています。
彼らに挟まれるように立っていたのは、小柄な老人でした。こちらは素顔をさらし、小馬鹿にしたような笑みで僕たちを見つめています。
「おい、こりゃあいったいどういうことだ?」
左側の大男が声を上げました。ただ普通に喋っているだけのようですが、ブルドーザーのエンジン音のように、声が凄味を帯びています。
「どこにもいねぇと思って探し回ってみりゃあ、なにしてやがる? そいつは誰だ?」
右側の男も尋ねます。マスクの下は同一人物なのではないかと疑いたくなるほど、声が一人目とそっくりです。
「これはこれは旦那方。毎度このような所までご足労いただき、恐縮の極みです」
院長が、最初にエリーと相対したときのように、慇懃な挨拶をします。
しかし、相手はそれを無視しました。
右の大男が、院長の胸ぐらをつかみあげます。
ナイフの柄から手が離れましたが、痛みで引き抜くこともできません。
「誰が挨拶しろと言った? 俺はこいつは誰だときいたんだ」
「は、はひぃ、申し訳ありません。このマルタはつい昨日見つけました商品です」
顔を見合わせる大男たち。僕も何を言ってるのかわからず、霞んだ目を院長に向けます。
「……どういうことだ? この餓鬼はどう見たって孤児院のマルタじゃねえだろ!」
「はいぃ、お察しの通り、このマルタは孤児院の子供ではありません。街に来た旅行者の方が所有していた奴隷なのです」
「なにィ!?」
大男が胸ぐらをつかんだまま、凄まじい勢いで院長を馬車に叩き付けました。
「ぶ……ぶふぅぅ」
「てめぇ! 自分がなにをしたのかわかってんのか!」
いみじくも先程の僕とまったく同じ台詞を吐く男。
「俺たちが、わざわざてめえから商品を買ってんのは、足が付かないからなんだよ! 他人様の所有物を盗んでいいなら、とっくに自分たちでやってんだ! そんなこともわからねえのか、クズがっ!」
「まあ、待ちなさい」
拳を振り上げ、院長を殴りつけようとした大男を、静かな声が制します。
魔族の老人が、髭をしごきながら言います。
「なにか、理由があるのかもしれません。とりあえず、話を聞こうではありませんか」
「しかし――」
「あれを見なさい」
皺だらけの顎が、僕の方へ向けられます。
「おかしいと思わんかね」
大男二人の視線も僕の方へと向けられました。
しばらく、間があいた後、左の大男が当惑した声をあげます。
「なんだこいつ? なんで急所にナイフが刺さってるのに、いつまでも生きてやがる?」
右の男も続きます。
「それに、意識があるみたいだぞ? 普通、即死だろ、あそこにナイフが刺さったら」
沈黙がおりました。昼なお暗い森を、一陣の風が吹き抜けます。
老人が糸のような目を、ゆっくりと院長に向けました。
「では、話を聞こうかの?」
大男が院長を解放します。
彼は、せかせかと襟元を直し、それから、いつもの卑屈な笑みを見せます。
「それはですね――」
院長は、昨日の出来事を順を追って説明していきました。
話を聞き終えた老人は、泰然とした声で尋ねます。
「その黒角病の子供が治ったというのは、たしかなんですね?」
「はい。間違いありません」
「それで、このマルタは、深手を受けても、たちどころに回復したと?」
「左様にございます」
老人が、左の男に顎をしゃくりました。男は無言で僕の胸へ手を伸ばします。
「よ……せ……」
弱々しい声で抗議を試みますが、次の瞬間、ナイフが勢いよく引き抜かれました。
「ぐあああああっ!」
壊れた蛇口のように、傷口から血が溢れ出します。
しかし、例によって、すぐに出血は止まり、傷がひとりでに塞がり始めました。
「おいおい…………マジかよ」
「見ろ! もう傷口がどこにあったのか、わかんねえぞ!」
口々に驚く男たちとは裏腹に、老人は、体の後ろで手を組んで、泰然と僕の再生を眺めていました。
彼は首だけを院長の方へ向けて、言います。
「よいでしょう。リスクを犯したことは、許してあげます。どうやら、それだけの価値のある拾いもののようですからね」
「は! ありがとうございます!」
即座に頭をさげる院長。
「もしお前の言う通り、このマルタに病を治す力があるなら、それに見合った報酬も約束しようではありませんか」
老人の糸のような細目が、笑みの曲線を描きました。
「では、このマルタも乗せなさい」
老人が指示すると、右の男が僕の方へと足を踏み出しました。
声が聞こえたのは、そのときです。
「おにいちゃん?」
僕を含む全員の顔が、声のした方へと向きました。
孤児院の裏の塀と森の境目あたりに小さな人影が見えます。
「マルタのおにいちゃんだろ?」
人影が再度尋ねます。膝まである草に足を取られながら、こちらに近付いてきます。
――この声は
「く、来るなアトス! 来ちゃいけない!」
「え? なに言ってるのさ? 俺、昨日のお礼を言いに来たんだよ」
アトスは、徐々に足を速めます。
「ほら、うっかりおねえちゃんたちがどこに泊まってるか聞きそびれただろ? だから、孤児院に行けば教えてもられるかもしれないと思ってさ。そしたら、おにいちゃんとマルタのおじさんが、なんかこっちの方に行ったのが見えた……ような…気がして…………」
少年の言葉が尻すぼまりに消えます。ようやくこちらの異常な様子に気付いたようです。
「こいつらは――」
僕の口が、左の男の手によって強制的に閉ざされました。
「坊や、おどかしてすまないね。わしらはちょっとお仕事の話をしてたんだよ」
老人が穏やかな声で、アトスにそう告げます。
僕は必死に警告を発しようとしますが、男の手は万力のように僕の口を捕らえたまま、離しません。しかも、いかにも僕と話し込んでいる感じで、さりげなく自分の巨体を遮蔽物として使っています。これでは、もがいている僕の姿はアトスの目に映らないでしょう。
「なんだ、そうだったんだ……」
ほっとした声を上げるアトス。
「でも、そしたら俺、邪魔だったかな?」
「いやいや、いいんだよ。遠慮はいらん、わしらの話はもう終わったところさ」
ほんのわずかにですが、老人の声に凶悪な響きが混じりました。獲物に忍び寄る肉食獣の息遣い。
「このマルタの兄さんに用事があるんだろう? さあ、こちらへおいで」
わずかにためらうような間がありました。
それから、さくさくと小さな足音が響き始めます。
「――――」
僕は、足を踏ん張って、全力で顔を引きました。顎の骨が外れるかと思うほど、がっちりとつかんでいた指がようやく外れます。
「アトス、逃げろ! こいつらは人攫いだっ!」
老人が左の男に目配せしました。
大柄な巨体が猫のような俊敏さで、少年へと迫ります。
唐突な事態に、アトスは体を硬直させ、棒立ちになっていました。
――どうすれば
恐慌をきたしそうになりましたが、そのとき、僕の目が老人を捕らえました。無防備に背中を見せています。少し手を伸ばせば、届きそうです。
この人を人質にとれば――
僕は右手を彼の方に伸ばしました。指先が触れる寸前、突然、僕の手がかき消えます。
なにが起こったのかわからず、唖然とする僕。
数瞬遅れて、激しい水音が聞こえます。
見ると、勢いよく流れ出る血が、派手に地面を叩いていました。
くるくるくると円を描きながら、なにかの影が地を動いていきます。
頭上を見あげると、誰かの腕が円を描いて宙を舞っているのが見えました。
どさりと少し離れた草むらの中へ落下する腕。
僕は後ろを振り返ります。
まるで青竜刀のような巨大な肉切り包丁を手にした男が、にやりと微笑んできました。
切断されたのは、僕の腕でした。
「ぐわああああああーっ!」
両腕を失った僕は、傷口を押さえることも出来ず、絶叫します。
目に涙が浮かんできましたが、歯を食いしばって痛みに耐え、アトスの姿を確認しました。
のっそりと立ち尽くす大男。その足元には、小さな体が横たわっています。
まさか……。
最悪の事態に寒気が走りましたが、よく見ると少年の胸は微かに上下していました。
「その子供も積み込みなさい。出発しますよ」
老人が冷然と告げました。