旅は肉(ミンチ)連れ、世は情け容赦なし(7)
少年はアトスと名乗りました。
住まいは、リタワーズの西地区、いわゆるスラム街にあるとのこと。
僕たちは、薄暗い路地を、彼の案内の元、進みます。
周囲を囲むのは、すし詰めのように建てられた家々。どれも単に石を積み上げただけといった外観です。
狭い路地には至るところに紐が渡されており、干された衣服が風にはためいています。風向きによっては、衣服からにおいが漂ってきますが、はっきり言って息をとめないと我慢できないような臭さでした。
この西地区には、院長さんの孤児院もあるのですが、ここいら一帯は比較にならないほど、貧困の空気が漂っています。
30分ほど歩き続けると、アトスが足をとめました。
目の前には周囲と比べても、一際粗末な小屋が建っています。
もはや石造りですらなく、薄っぺらい木の板が並べられているだけの外壁。
扉はどこにも見当たらず、代わりに入り口と思われる場所に、ぼろぼろの布が垂れ下がっています。
少年はその布を持ち上げて、中をのぞき込みました。
「ミルカ、起きてるか?」
ごそごそという音が、小屋の奥から聞こえてきます。
「おにいちゃん……?」
「ああ」
途端に嬉しそうな声があがります。
「おかえりっ!」
ミルカは、いかにも病床の少女といった感じでした。
粗末な服からのぞく手足は、動かしただけで折れそうなほど細く、肌は白いを通り越して、向こう側が透けるんじゃないかというほど、漂白されています。
しかし、目はくりくりとよく動き、髪の毛も綺麗な亜麻色をしていました。やつれているにも関わらず、十分可愛い容姿をしています。
「ふーん。おねえちゃんたち、おにいちゃんのお友達なんだ」
「うん、そうだよ」
エリーは、ほら、といって、顔の右側を少女の方へ向けます。耳の上あたりに、例の造花が付けられていました。
「綺麗なお花をもらってね、おねえちゃん嬉しくなって、つい色々お喋りをしちゃったんだ。それでお家にご招待してもらったんだけど、お邪魔だったかな?」
「ううん、そんなことない」
少女は粗末な寝床に横たわったまま、それこそ花のような笑みを見せます。
「わたし、嬉しい! いつもおにいちゃんと二人っきりだから、つまんなかったんだ」
「こら! 俺といるのが、そんなにつまんないのかよ」
そう言いながら、アトスが現れました。料理の盛られた皿を持っています。
食器にはひびが入っていますが、料理の方はとても美味しそうです。
「たくさん作ったから、おねえちゃんたちも、食べてってよ。そもそもおねえちゃんが100ゴールドもくれたから、こんなに材料が買えたんだし」
「そんな。いいわよ、気を遣ってくれなくても」
ぐううううううっ。言葉とは裏腹に凄まじい音が鳴りました。
「あ、あはははは……」
そういえば、エリーの食欲は人一倍強いということを、思い出します。やせ我慢はいいんですが、限界が来て、いきなり僕に齧り付かないか心配です。
結局、僕たちはアトスの手料理をご馳走になりました。
ちなみに、例の院長さんも、成り行きでここまで付いてきていたりします。
「ぷはー、ああ美味しかった! 君、料理がうまいわねぇ~」
最初の遠慮はどこへやら、三杯もおかわりしたエリーが彼の腕を賞賛します。
「え、そうかな? ミルカには、まだまだって、よく言われるけど。なあ、ミルカ――」
からん、という音が響きました。目を向けると、少女の上体がゆっくり寝床へと倒れ込むところでした。手からこぼれ落ちた皿が床の上で踊っています。
「ミルカちゃん!」
慌てて駆け寄ろうとするエリーを、アトスが手で制しました。
「大丈夫。疲れて、眠っただけだよ」
少女の顔をそっとのぞき見ると、たしかに規則正しい寝息が聞こえてきます。
「ここんとこ、食事が終わるといつもこうなんだ……」
沈んだ声でアトスが告げました。
小屋に沈黙がおります。
ミルカの寝息が耳に届きます。一見、健やかに眠っているように見えますが、少女の胸の動きはひどく緩慢に見えました。
僕は床に落ちた皿の中身が、ほとんど減っていないことに気付きます。
「で、どう?」
妹の額を拭ってやりながら、アトスが尋ねます。
「ミルカの病気がなんなのかわかった?」
エリーが目を伏せ、珍しく雅さんも顔色を曇らせます。
――妹がなんの病気なのかはわかんない。医者に診せる金もない。でも、マルタの肉は栄養満点でどんな病気のときでも、すごく体にいいって聞いたから
あのとき、アトスはそう告げました。
それに対しするエリーのこたえは、こうでした。
――それは迷信よ。でも、あたしが妹さんを見れば、どんな病気かわかるかもしれない
「あの……」
おずおずと口を開く院長さん。
「もしかして、このお嬢さんの病気は、黒角病では……」
その言葉が飛び出した途端、エリーの顔が歪みました。
「黒角病……? なにそれ」
アトスが質問します。
しかし、三人とも目を伏せたまま、口を開こうとしません。
「もしかして、すごく悪い病気なの?」
さらなる沈黙。重い空気が小屋に垂れ込めます。
「そうなんでしょ? ねえ、そうなんだろ!」
突然、アトスがエリーにしがみつきました。
「こたえてよ、おねえちゃん! そのために来てくれたんだろ!」
泣きながら、彼女を揺さぶる少年。絞り出すようなその声を聞いているだけで、僕の胸は潰れそうになります。
「なあ、ねえちゃん!」
「魔族に特有の病気よ……」
エリーがようやく口を開きました。
「あたしたちの魔力の源である角に罹る病気なの。原因は不明で発症も極めて希……」
ゆっくり顔をあげるエリー。その瞳には、ある覚悟が宿っていました。
彼女は静かな口調で告げました。
「だけど、もし発症してしまったら、治すことはできない。黒角病は不治の病なの」
「え……?」
戸惑ったような笑みを浮かべるアトス。僕はその表情の意味するところを、理解します。今、耳にした事実を『冗談だよ』と否定して欲しいのです。
きっとエリーにもそのことはわかったでしょう。
でも、彼女は彼の期待にこたえませんでした。いったん、残酷な事実を告げる覚悟をした彼女は、少年から目を反らさず、厳しい表情を保ち続けました。
潮が引くように、少年の顔に張り付いていた笑みが消えます。
「う、嘘だ……」
うわごとのような声が、まだ幼い口から洩れました。
「嘘だぁぁぁぁぁっっっーっ!!」
涙がみるみる盛り上がり、両目からこぼれ落ちます。とめどなく溢れる涙は、アトスの頬を伝い落ち、真下で眠っている少女をも濡らしました。
彼がこの世で一番大切にしている少女。けれども、彼の涙にどんなに濡らされようと、すぐ隣で兄がどんなに号泣していようと、少女の目はけして開くことがありませんでした。
小屋は沈痛な空気に包まれ、暗い表情を浮かべていないのは、病魔の中で微睡む少女だけとなりました。
このままでは喉や目を痛めるのではないかと心配になった頃、ようやく悲鳴のようだった声が嗚咽へと変わり始めます。
「ミルカは………」
しゃっくりのような音の合間に、掠れ声が届きます。
「ミルカは……あとどのくらい…………生きられるの?」
「残念だけど、角の黒ずみ具合からして、もって一週間だと思うわ」
目を見開くアトス。
「そんな!」
「もっと早いかもしれない。覚悟はしておいて」
「ほんとは治せるんでしょ? すごく高い薬とかあれば、治るんでしょ?」
「今まで黒角病が治ったという話は、一例もないわ。当然、薬もない」
彼女の言葉を聞くたびに、少年の顔が蒼白になっていきます。
「あたしたちに出来ることは、なるべくこの子の苦痛を和らげてあげることだけ」
「う……う……」
少年の喉から、再び嗚咽が洩れ始めます。
「や……和らげてあげるには…………どうしたらいいの?」
「……なるべく傍にいてあげて。それで楽しい話をしてあげなさい」
僕はエリーが手を握りしめていることに気付きます。色が白くなるほど握りしめられた拳は、小刻みに震えていました。
努めて冷然と振る舞ってみせても、彼女の心も悲鳴を上げているのです。
屋根の隙間から、月の光が差し込みました。
青白い月光は、妖精の鱗粉のようにミルカの顔を縁取り、輝かせます。
思わず息を呑むほど、美しい光景でした。
――こんな純真無垢な子が、この世から消えていいはずがない。
僕の心に、徐々に怒りが沸き上がります。
まだ彼女はなにも知らないんです。恋することも学ぶことも、額に汗して働くことも。これからたくさん、楽しいことを経験して、十分に人生を満喫したあとに「いい人生だった」と思いながら、息を引き取るべきなのです。
気がつけば、僕も拳を握りしめていました。
僕は少女の花のような笑みを思い出します。
それから、彼女のために盗みを働こうとしたアトスの声も。
『ただ食べさせてあげたかったんだ!』
『妹が病気なんだ……だから、どうしてもマルタを食べさせてあげたかったんだ』
こんな仲のいい兄弟が引き裂かれてしまうなんて、そんな理不尽、決して認めることができません。
…………………………………………………………
ちょっと待ってください。
「エリー」
僕の言葉に、ミルカを除くすべての目がこちらに集まりました。
「なに? どうしたのよ?」
どこか疲れた感のあるエリーの声。
僕は、一つ息を吸い、それから、その発言をします。
「もしかしたら、彼女を助けることができるかもしれない」
空白のような時間が流れました。
「はあ?」
「もしかしたら、彼女を助けることができるかもしれないんだ」
再度告げる僕。
次の瞬間、僕の体は宙に吊り上げられていました。
「あんた……ふざけてんの」
低く静かな声音が、彼女の口から流れます。僕は、これまで一度もエリーが僕に対して本気で怒ったことがなかったのだということを知りました。
「ふざけてなんかない」
彼女に襟首を捕まれたまま、僕はこたえます。
「いい加減なことを言ってんじゃないわよ? 魔族の医者だって無理なのに、ただのマルタでしかないあんたが、どうやって助けるってのよ!」
「僕はただのマルタじゃないだろ」
その言葉にエリーの目がはっと揺らぎました。ゆっくりと僕を、床の上に降ろします。
「確証はない。でも、僕の肉は病気にも効くんじゃないか?」
アトスと院長さんが、当惑した表情を浮かべました。僕がなにを言っているのか、さっぱりなのでしょう。
しかし、エリーは理解できたようです。彼女はゆっくり雅さんの方へ目を向けます。
彼女は『わたくしにもわかりかねます』という風に首をわずかに傾げました。
「試してみる価値はあるんじゃないか?」
僕はゆっくり言いました。
「……………………そうね」
頷き合う僕とエリー。
僕は左腕を水平に差し伸ばし、雅さんを振り返ります。
「お願いします」
雅さんは、しばらくの間、僕の顔を見つめた後、ゆっくり刀を抜きました。
「……麻痺」
すうっと冷たい感覚が左腕を抜けます。一拍おいて、熱い血潮が迸るのを感じました。
首を左に向けて確認すると、肘の少し上辺りから綺麗に切り落とされていました。少女に食べさせるには、十分でしょう。
左腕の切断面は、僕が眺めている間にも、みるみる塞がっていきました。
驚愕のためか、院長さんの口がOの字に開きっぱなしになります。
「お、おねえちゃん……? これ、いったい、どういうこと?」
アトスがおびえた声をあげました。いきなり自分の家で、訪問客が腕を切り落とせば、誰だって同じ反応をするでしょう。
エリーは僕の腕を拾い上げると、少年の前に差し出しました。
「これをミルカちゃんに食べさせてあげてくれる?」
「え?」
「ほら、君も言ってたでしょ? 『マルタの肉は栄養満点でどんな病気のときでも、すごく体にいい』って。この腕を食べさせてあげれば、きっと彼女の容態もよくなると思うの」
「でも、それは迷信だって……」
エリーは苦笑して、僕を指し示します。
「こいつはちょっと変わったマルタでね、栄養価がすごーく高いの。だから、ね?」
アトスはまだ納得がいってなさそうな様子でしたが、とにかく僕の腕を受け取りました。
「ん……」
短い声があがります。
ミルカが寝床で身を捩らせていました。病による睡眠から目を覚ましつつあるようです。
瞼がゆっくりと開き、ぼんやりした視線が兄の方へ向けられました。
正確には、彼の手にしている僕の腕へと。
僕の胸は、期待と不安で徐々に高鳴ってきました。
法則②――勇者の肉を食べた魔族は、不死身となり、いかなる傷もたちどころに治るようになる。
――なら、病気だって治るんじゃないか?
それが、僕の頭に閃いた予想でした。
もちろん確証はありませんが、僕の腕を眺めるミルカの顔には、はっきりと食欲が現れています。まるで本能的にそれが自分の命を救ってくれるものだと察しているかのように。
「ミルカ、大丈夫か?」
兄の問いかけに、こくんと頷く少女。
「これ、そっちのマルタのにいちゃんの腕なんだけど、食べれるか?」
切断された左腕を、妹の眼前に差し出すアトス。
ミルカはすぐに受け取りました。相変わらず、茫洋とした目をしているところを見ると、起き抜けで思考力が低下しているのかもしれません。
それがかえって幸いしたのか、彼女はためらいなく口を付けてくれました。
一口、二口。僕の肉が彼女の小さな口の中に消えてゆきます。
痛みは雅さんの魔法により消滅していますが、他の感覚は残っているため、少女が咀嚼するたびに、肉を磨り潰される感覚を感じます。
突然、頭痛が走りました。
泣いている女の子。それを慰める僕。
――僕を〇〇ていいよ
脳内に広がったのは、魔族の女王と対面したときと、同じ情景でした。
僕はほとんど無意識に右手を持ち上げ、今は存在しない頬の穴を掻きます。
なぜ、このタイミングで今の記憶が……。不思議に思ったものの、いくら考えても明確なこたえは見つかりません。
ほどなく、少女が食べ終わりました。
「……どうだ?」
アトスが尋ねます。
「え? どうって?」
「体の調子はどうだ? 少しは楽になったか?」
きょとんとした顔で、兄を見返すミルカ。
次いで、目を瞬かせて、自分の体を見下ろします。彼女は、すくりと立ち上がりました。
「おい! 寝てなきゃ駄目だって――」
「おにいちゃん、わたし、病気が治ったみたい。だって、全然苦しくないんだもん」
ぽかんとする少年の前で、ぴょんぴょん飛び跳ねてみせる少女。頬にはバラ色が差し、子供特有のはち切れんばかりの生気が、全身に漲っているように見えます。
雅さんが彼女に近付いて、亜麻色の髪をかき分けました。
「角の色が元に戻っています」
そう告げる雅さん。彼女にしては珍しく、声音にはっきりと驚愕が浮かんでいました。
「ミルカ…………おまえ、ほんとにもうなんともないのか?」
「うん!」
にっこり頷くミルカ。
瞬間、兄の顔がくしゃりと歪みました。彼は両手で力一杯妹を抱きしめます。
「ちょっと、おにいちゃん――」
「よかった……よかったよぉ……。にいちゃんな、おまえがいなくなるって聞いて……」
その先は、嗚咽で続きませんでした。
わんわんと泣く兄の背中を、妹が困ったような顔でさすってあげます。
月光が二人を照らし出しました。一つの奇跡を祝福するかのような青い光の中、兄弟はいつまでも抱き合っていたのでした。