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後編


       0



 「あっちゃん。わたし、コバタって人の家に行くの」


 痣だらけの少女が、それでもにっこり笑って言った。

 脂が染み込んだ、汚い畳の上。まだ5つか6つの明は、そんな少女に鼻声を返す。


 「いつ、かえってくるの?」

 「帰ってこない。ずっと、その家にいるの」

 「……いんちょうせんせいが、おこるよ」

 「おこられないの。院長先生が決めたことだから」


 嗚呼、明は一瞬きょとんとしてから、静かに顔をゆがめ、泣き出した。

 少女はそんな明を見て、明の頭を小さな手で、ぽんぽんと、撫でてくれる。


 「また、会えるから。きっと会えるから」

 「えっちゃん……ひとりは、こわいよぉ………ひとりじゃ……」


 「ごめんね…でも、行かなきゃだめなの。

  ぜったい、また会えるから」


 「……ぜったい…?」


 「うん、やくそくする。

  大人になったら、ぜったい、あっちゃんに会うから…」





 コートを着た明は、白く細い手に顔を挟まれたまま、再び嗚呼、と声を上げた。

 鏡面から突き出た手の狭間。映し出されるのは、遠い、更なる過去の光景。

 笑みを消し、ぼうっとそれを眺めていた明は、自分を捕らえた白い手に…軽く、接吻した。


 「………小畑……恵理…………」

 『ミヤナギ アキラ』


 見つめる鏡面から、ぽこりと、彼女が顔を出した。

 鮮烈な笑みではない、穏やかな……血塗れの顔。

 殴られ、踏まれ、殺された彼女の…デスマスク。

 明は何の躊躇も無く鏡面に指を伸ばし、その奥から、彼女を抱き寄せた。

 指が沈む鏡には、銀色の波紋が広がり…

 上体を引き出される彼女は、変わらぬ艶やかな、黒い髪を引いて。

 肉を削がれた腕を抱き、歯の覗く頬に顔を寄せて。

 明はまた、嗚呼、と鳴いた。


 「…えっちゃん……そうか…えっちゃんか……」

 『……』


 「…えっちゃんが大人になった年に………俺…海に出ちまったんだな………

  ……約束…ちゃんと覚えてたら………会えたのに……」



 鏡は、そこに無いものは映さない。

 狂った世界の中でも、明は分かったような気がした。春樹に彼女が見え、自分にも彼女が見えた理由。

 彼女の屍、彼女の人生、春樹の業、明の記憶。今まで鏡に映った全てのものが、ここには在る。

 明は彼女の露出した腕骨をも抱き締めながら、歯を食いしばり、うめいた。

 彼女は、えっちゃんは、明をいつも撫でてくれた。

 甘い菓子を手に入れたら、自分も食べたいに違いないのに、いつもいつも明に寄越してくれた。

 明が誰かに殴られたり、泣かされたら、いつもいつも、いつも……

 自分も痣だらけなのに…笑ってくれた。

 …それは、この25号室でも、同じ事だったのか。

 彼女はもう、生きてすらいないのに…

 明の、傍に居てくれた。


 「あんたは、まともな夫婦に貰われて……幸せになったって、ずっと思ってた……

  あんたに何も恩返し出来なかったけど………あんたが…あんたさえ、幸せなら……」


 『……』


 「……何で……みんな、あんたを殴るんだよ……あんたには、糞野郎ばかり群がってくる……

  院長も、こいつらも……俺もだ……寄ってたかってあんたを食い潰した!!」


 今更ながら、明は彼女の身に起こった出来事に、嗚咽した。

 車で撥ねられた相手にさらわれ、強姦され、身ごもった子を抉り出され、命をも奪われ…

 死体を切り刻まれ、挙句暗く狭い壁の中に放り込まれた。

 明はもう…帰してくれなどとは、言わない。


 『アキラ』


 腕の中で、彼女が、掠れ声を。


 『……悔シイ…ヨ……』

 『…生キ……タイ……わたしハ……生キタイ…』

 「どうすればいい」


 明の唇が、流れるように動いた。



 「あんたに全部、くれてやる」



       7



 …2日後、高田は25号室の洋室に立ち、血に染まったゴミの散らばる床を見下ろしていた。

 鑑識達が現場を調べている中、若い刑事が高田に近づき、そっと告げる。


 「通報したのは、去年の時と同じで26号室の駒城という男です。

  ガイシャと最後に会ったのも彼で、その日の深夜に大きな物音を聞いています。多分…」


 若い刑事が見る先には、大きな穴が空いた壁があった。

 壁紙が剥がれ、木材やセメントが砕け散り、

 橙色に変色したバスタオルが剥けた皮膚のように垂れている。


 「……やはり麻薬か何かが、まだこの部屋に隠されていたんでしょうか。

  それを掘り出しに来た奴に襲われて………」


 「死因は何だ?」


 血痕にしゃがみ込む高田に、若い刑事は同じく膝を曲げながら、答える。


 「……右腕を切り取られた事による、出血死です。他に左の頬の肉も無くなっていました」


 「もみ合いになってグサリ……じゃないな。初めから殺す気だったんだ…

  切られた右腕はどうした?」


 「見当たりません。頬の肉もです。

  …犯人が持ち去ったのでしょうか」


 「死体を残して、腕と頬肉だけをか?」


 高田は血痕を見つめていた目を、不意にクローゼットへと向けた。

 そこに在る大鏡は粉々に砕け散り、木枠も折れて床に散乱している。

 ハンマーで叩き壊したような様相に、若い刑事が顔をしかめた。


 「…あの鏡も妙です。他の家具は全て無事なのに、鏡だけが執拗に壊されている。

  まるで何度も何度も打ち付けたような……」


 「女でも、映っていたかな」


 突然妙な事を言う高田に、若い刑事は目を見開く。

 高田は膝を伸ばして立ち上がり……天井を見上げて、深く、息をついた。





 「…コーヒー豆の袋って、こんなに重たいんですね」


 朝の日差しの中、すずやのカウンター内に豆袋を置いた早知が、肩で息をしながら言った。

 同じく豆袋を必死に引きずる店長も、途中で息継ぎをしながら首を縦に振る。


 「宮柳君が、平気な顔を、してたから………一番…大きな、袋を、仕入れて、たんです……!!」


 「あいつどうしたんでしょうね。今日も休みの電話、ないんでしょ?」


 「はぁ、はーっ……もうダメだ!大南君、代わって下さい!」


 えぇ、と早知が嫌な顔をする前に、がらんとカウベルが鳴った。


 「あっ!宮柳ぃ、遅いじゃな……」


 言いかけた早知は、入店してきたのが女性だと知り、はっと口をつぐんだ。

 明と見間違えたのは、真新しいジーンズとタータンチェックのシャツを着た女が、明と同程度の背丈で…

 彼愛用の黒いコートと、そっくりのコートを着ていたからだ。

 黒い髪を肩に垂らした女は早知を見て、軽く会釈をする。

 白い顔に左の頬だけが小麦色で、くっきりと縫い跡がついていた。


 「あぁ、すいません。すぐに準備しますから少々お待ちを……」


 慌てて豆袋をカウンターに引きずりこむ、店長。

 早知は目の前の女の視線を受けながら、暫く硬直していた。

 女の、コートの袖から覗く右手……日焼けしたそれはまるで男の手のように、大きく……

 コートと同じく、見知った男性のそれとそっくりなのだ。

 女が早知にまっすぐ歩み寄り、カウンターに手をかける。

 その左手は白く、細く、桃色のマニキュアが塗られていた。


 どくんと、早知の胸が高鳴る。


 怖気でも、危機感でもない。何か決定的なものを知ってしまったような、衝撃だけがそこにあった。

 女は早知の目の前に座り、その顔を根目上げてくる。

 ぱっちりとした、しかし僅かな鋭さのある眼。

 無意識に唾を呑む早知に、その目がく、と弧を描き、僅かに緩んだ。


 「オレンジジュース。頂けます?」

 「……承知、しました」


 早知は、後ろの棚に振り向き、ガラスコップに手を伸ばす。

 窓の外を、高田を乗せたパトカーが通り過ぎて行った。

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