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中編



       4



 明は翌朝、店長に急な用事が出来たからと仕事を休む旨を伝え、警察署の高田を訪ねた。

 突然の訪問にも快く出迎えてくれた高田に、

 明は馬鹿にされるのを覚悟で署の廊下に彼を連れ出し…全てを打ち明けた。

 部屋の鏡に見知らぬ女が見える事、管理人や他室の住民を巻き込み、鏡を処分しようとした事、

 それが叶わず、半年間鏡の女と同居している事。

 高田は難しい、感情の読み取れぬ顔で青白い髭の剃り跡を撫でていたが、

 不意に口を開き、明の肩に腕を回してきた。


 「宮柳さん、正直言って……そういう事を私に相談されてもね…」


 「馬鹿げているのは分かっています。俺の頭がどうかしているのかも知れません。

  だから高田さんに信じてくれとも言いません」


 「…ほぅ。じゃあ私にどうして欲しいんですかね」


 「あの25号室で自殺した男について、知りたいんです。

  俺はあの部屋で何があったのか知らないし、興味もなかった。

  だがあなたはかつてあの部屋でワルどもがたむろし、今も近くをうろついているかも知れないと言う」


 「……なるほど、それで不安になったと言われたら、そりゃ確かに私のせいだな」


 「誰の【せい】だなんて言わない。でも俺は知りたいんです。

  事実を知れば俺のおかしい頭も治るかも知れないでしょう?

  鏡に女なんか見なくなるかもしれないでしょう?」


 高田は目をギラつかせてそんな事を言う明に苦笑し、ゆっくりとその肩から手を離した。

 脇を過ぎてゆく強面の警官の視線を受けながら、明は、少し深く息をする。


 「…俺、鏡に映る彼女が前の住人だとばかり思ってたんです。だって越してきた時から居たし……

  漁師って、結構心霊話とか信じるんですよ。だから……」


 「てめぇの目に見えるモンを信じない方が、どうかしてるんですよ。

  その他大勢が事実に気付かないで、だまくらかされているなんてしょっちゅうだ」


 高田の言葉に目を丸くする明に、屈強な刑事は腕を組み、軽く首を捻って骨の音を立てる。


 「…何かを見ておきながら他人の目を気にして、自分の目や頭がどうかしていた、と思い込む。

  そいつぁ、出世はするかもしれんが刑事としては失格だ。

  ……あなたには関係の無い話ですがね」


 高田は短い髪を掻きながら、窓枠に肘を乗せ、明を見る。

 外ではびゅう、と強い風が吹き、湿った木の葉が蟲のように景色を舞っていた。

 それから数秒押し黙った後、高田は床に視線を落とし、

 黒い革靴の踵でこつこつと壁を叩きながら……

 話し始めた。


 「25号室に住んでたのは、五条春樹、享年31歳。

  皮のベルトを首に巻いて、端をベランダの柵に結び、身を投げるようにして首を吊った。

  発見したのは隣の26号室の住人ですよ」


 「自殺の理由は、分かりましたか?」


 「麻薬でイカれてた。調書にはただそう書いてあるが……実は遺書が残ってましてね。

  いや、遺書として扱っていいのか迷うような、意味不明の紙切れなんだが。

  コピー用紙に赤ペンで書きなぐってあって………なぁ、宮柳さん」


 顔を上げる高田が、少し不安そうな顔をした。


 「私は刑事だから、あくまで心霊とかそういうのは抜きで仕事をしなけりゃならん。

  だからあなたにこういう話をしたって事は、あまり人には知られたくないんですよ」


 「他言しませんよ、約束します。

  それで…何と書いてあったんです?」


 「……【あの女】…」


 高田は深く息を吸い、明から目をそらした。


 「【笑ってる】…【まだ、居る】……」



       5



 明は図書館からここ数年分の事件記事のスクラップを何冊も借り出し、

 コンビニで眠気覚ましのガムや缶コーヒーを1箱ずつ仕入れてきた。

 あの大鏡に映る女は、自殺した25号室の住人ではない。

 五条春樹という男の仲間か、あるいは彼に恨みでも持つ誰かか。

 明と同じく、恐らく五条にも鏡の中の彼女が見えたのだ。

 彼女が見える者と見えない者の違いは何だ?

 25号室に住む者。ただそれだけなのか?


 夕方、アパートの階段を駆け上がり自室の鍵を開けていると、

 隣の26号室に住む【駒城】という男が声をかけてきた。


 「宮柳さん、どうしたんすか?それ」


 明の抱えたガムやコーヒーの箱を指す彼。

 白いニット帽に、赤いジャンパーとだぶだぶのジーンズという、

 いかにも若者風の格好をした駒城に身体を向け。

 明はなるべく平常を装って、笑み返した。


 「ちょっと、真面目に本でも読もうと思って。ほら、俺中学しか出てないからさ」

 「あぁ〜そっすか……それじゃ俺、今日は静かにしますんで安心して下さいよ」

 「……今日は?」


 笑みを消す明に、駒城はニット帽を掻いて苦笑する。


 「反対側のババァにも文句言われてんすよ、ここ壁薄いっすからね。五月蝿かったでしょ?」

 「昨日、なんかやったの?」

 「…勘弁してくださいよ。今週はもうこれ、呼ばねっすから」


 これ、と小指を立てる駒城に、明は少し考えてから、数歩彼に歩み寄った。

 真剣な面持ちでやってくる明に一歩退く駒城。

 昨夜早知の部屋で聞いたのと同じバイクの走行音が、前の道路を過ぎていった。


 「…駒城君、ここ、壁薄いのか?」

 「薄いじゃないっすか。隣のババァの足音まで聞こえてくるしよ」

 「俺の足音聞いた事、ある?」

 「へっ……」


 そう言われて駒城は、はっとしたように目を見開いた。

 そうだ。明は自室の25号室で駒城や駒城の恋人の生活音を聞いた事はないし、

 駒城もまた26号室で、明の生活音を聞いた事が無い。

 更に言えば24号室に住んでいるのは独り身の中年男性で、

 此方は微かだが、壁際に居ればテレビの声が聞こえる事もある。

 …壁の厚みに、相当な差があるのだ。


 「なぁ駒城君、君、ここに住んでどのくらいになる?」

 「…えぇと、そう、2年とちょっとってトコすけど」

 「じゃあ俺の部屋に住んでた人の事、知ってるよな」


 駒城は途端に不機嫌そうな顔をした。

 このアパートの人々は25号室の自殺者について、極端と言えるほど口が重い。

 麻薬に手を出した人間と少しでも関わりがあったなどと、人に思われたくないのだろう。

 明はそんな駒城を普段は気遣って別の話題を選ぶのだが、今ばかりは詰め寄るように問い続ける。


 「その人が25号室に居た時は、どうだった?足音とか話し声は、聞こえたか?」


 「……聞こえましたよ。

  それでなくたってあの野郎、毎晩仲間呼んじゃ馬鹿みたいに騒ぎまくってたんすから」


 「それじゃ、彼がいなくなって俺が来るまでの間に、誰かが壁を厚くした事になる。

  ……何故だろう?」


 「知らねぇっすよ、寒いんで失礼します」


 折角機嫌の良かった駒城がつむじを曲げ、苛立ったように自室に入ってしまった。

 目の前で叩きつけるように閉められるドア。

 明は暫くその黒い面に刻まれた、26の金文字を見つめた後……

 駆け込むように、25号室のドアを開けた。





 一日空けた自室の鏡には、依然変わりなく黒髪の女が居た。

 厳しい顔をして明を睨む女はガムとコーヒーの箱を置き、そのまま駒城の部屋の方へ、振り向く。

 数人がかりでもびくともせず、

 いくら叩こうと蹴ろうと決してその場から動かせなかった大鏡の鏡面は、

 初めから、常にその壁を映し出していたのだ。

 25号室と26号室を区切る、白い壁。

 他より厚く、膨らんだ壁。

 この壁が厚みを増した理由は何だ?誰がこの壁を塗りなおしたのだ?

 明はそれからその壁の前に座り、鏡を背にしてコートさえ着たままスクラップブックを読みふけった。

 窓の外では風が、時が経つにつれますます強く、ごう、と吹き荒れている。

 スクラップブックを一冊読み終えた頃、明はぶるりと寒気を感じ、背後からの視線を感じた。

 午後8時、41分。

 もう4時間ほども床に座りつづけているのに、不思議と尿意も、尻の痛みも感じない。

 明はコーヒーの箱を開け缶をひとつ取り出しながら、

 背後で確かに自分を見つめている女に、口を開いた。


 「……馬鹿だよな。本当ならあんたなんか放って、出ていきゃいいんだ」


 缶のプルタブを起こし、甘いコーヒーを一口すすった。

 天井の照明に、蛾が一匹、張り付いている。


 「俺は……あんたと口きいた事もねぇし、生身の女も知ってる。

  あんたと違って触れて、抱けて、あったかい…

  ……こんな薄気味悪い部屋、見限りゃいいんだ。もっと早くにそうすべきだった」


 コーヒー缶を置く明は、そっと背後を振り返ってみる。

 大鏡の女はあぐらを掻き、いつもと変わらない鮮烈な笑みを浮かべているだけだ。

 明の声に、なんら表情を変える事も無い。


 「……分かってるのに………」


 うめく明は、また壁に向かい……二冊目のスクラップブックを、手に取った。



       6



 明はスクラップされた記事に若い女の名前を見つけては文面を読み漁っていたが、

 思えば実に無意味な行為だ。

 この部屋の自殺事件や鏡の女に少しでも関係のありそうな情報をと思ったのだが、

 事件など年がら年中起こっているし、顔写真も載っていない女の名前から何が分かろうものか。

 それでもひたすらに記事を読み続けるのは、

 鏡からの視線にただ晒されて時を待つのはあまりに苦痛だったからだ。

 時を待つ……そう、明は時を待っていた。

 鏡の女が自立する午後8時41分。

 明はその時が来るといつも布団に入り、毎晩遅くとも10時には眠りに落ちていた。

 鏡の女があぐらを掻いた後、その顛末を見届けた事は一度たりともない。

 朝が来ればまた独りでに明の模倣を始めるのか、或いは……

 明は時折鏡を振り返りながら一夜を明かし、それを確かめるつもりなのだ。


 「………?」


 目覚し時計の針が午前の2時を回った頃、明は新聞記事にある名前を見つけ、目を瞬いた。

 傍らには空のコーヒー缶やガムの包み紙が散乱している。


 「行方不明者……小畑…恵理………24歳……

  ……コバタ、エリ……【コバタ】………?」


 明確には思い出せないが、明はその響きを、どこかで確かに聞いていた。

 どこだったか…孤児院の誰かか?学校の同級生か?

 漁船の仲間か、テレビで聞いた名だったか……


 「小畑恵理……小畑、恵理……小畑……小畑……」


 繰り返しながら何となく背後を振り返った明の体が、一瞬にして怖気に震え上がり、強張った。

 鏡の女が……忽然と、消えていた。



       8:41



 いや、異常なのは鏡だけではない。

 ベランダに通じるガラス戸が、それまでは明の左に位置していたのに、今は右に変わっている。

 玄関への扉も、窓の位置も同様で、部屋の間取り全てが逆になっていた。

 震えながら立ち上がる明の足元にはあるはずの空き缶や包み紙がなく、

 よくよく見れば室内には目覚し時計や布団の代わりに、

 テレビやソファーなど、見慣れない家具が並んでいる。

 今の今まで手にしていたスクラップブックさえ、何時の間にか消えうせていた。


 「……【逆】…」


 思わず呟き、明は再び鏡を覗き込む。

 鏡面の端に、明の目覚し時計がほんの少しだけ、映っている。

 鏡を通して別の世界へでも来てしまったのか。明は混乱すまいと深呼吸を試みるが……


 「本当、勘弁してくださいよ…何も俺の部屋で……」


 不意に声が聞こえたかと思えば玄関への扉が開き、見知らぬ男達がなだれ込むように入ってきた。

 明は慌ててベランダ側にあとずさったが、男達は明に目もくれず、ソファーや机を壁際に押しやり、

 大きな黒カバンをそこらに下ろして上着を脱ぎ始める。

 眼鏡をかけた男が誰かを背負い、少し遅れて部屋に入ってきた。

 すると男達の中で最も背の高い男が、怒鳴り散らすように声を上げた。


 「鍵かけただろうな、春樹!」

 「かけましたよ、けど本当に何で俺の部屋で……他に場所なかったんですか?」


 春樹。眼鏡をかけた男がそう呼ばれるのを見て、明は眉を潜めた。

 男達は明などいないかのように振る舞っており、実際明が見えていないのか、

 明の足を踏みかけながらガラス戸の外を覗く者もいる。

 この男達は、高田の言っていた犯罪者のチームなのか?

 眼鏡をかけた男は以前この部屋に住んでいた、五条春樹なのか?

 今見ているのは、鏡を通した過去の出来事なのか?

 そんなわけは無い、と思いかけた明は、

 しかし午前中に会った高田の言葉を思い出して、唇を噛んだ。


 【てめぇの目に見えるモンを信じない方が、どうかしてるんですよ】


 そうだ、元々鏡に映る他人などという、馬鹿げたものに向き合っていたのだ。

 見えたからには、見極めなければならない。

 ごちゃごちゃと言い合いを続ける男達を、明は部屋の隅、大鏡の脇から見守る事にした。


 「おい、今何時だ?」

 「8時…3…いや、40分です」

 「よし、明日の4時にはここを出るぞ。春樹ィ!隣のガキは本当に留守なんだろうな!!」


 「大丈夫ですよ、女のとこに行ってます……けど壁薄いから、

  あまり大声出すと別の部屋に聞こえるかも知れませんよ」


 不満そうな顔の春樹は、背負った誰かを部屋のまんなかに下ろし、仰向けにした。

 黒い髪が顔にかかった、白いセーターと、タータンチェックのスカートを履いた女……

 ぐったりしている彼女に、唐突に背の高い男が覆い被さる。

 衣類の擦れる乾いた音と、肌を舐める湿った音。

 強姦……呟いた明の前に春樹がやって来て、カーテンを閉めつつ、眼鏡を指で押し上げた。


 「縞田さん、その子、どこで拾ったんです?」


 「どこでもいいだろ!?この女、俺の車にぶつかりやがったんだ。

  車凹むし、何か腕折れてるしよぉ……!」


 背の高い男は、縞田と言うらしい。

 縞田は女のセーターを脱がそうとして、たった今自分が折れていると言った右腕を無理に曲げさせた。

 途端に悲鳴を上げて覚醒する女のセーターを剥ぎ取り、床に押さえつける。

 髪の間から覗く顔は、いつも大鏡に映っていた……彼女だった。


 −午後8時、41分。彼女が覚醒する時間。


 楽しそうな6人の、男達。

 悲鳴を上げる女の口に、縞田が彼女のセーターを押し込み、眉間を拳骨で殴った。

 一切の手加減の無い暴力にごきりと酷い音がして、女の鼻から血が吹き出し、フローリングの床に滴る。


 「あー、汚ねぇな……縞田さん加減して下さいよ。俺この部屋気に入ってんですから」

 「遊びに何で加減が必要なのよ、いいからお前らも手伝え。こいつの服脱がすんだよ」


 女に群がる6人に、明はたまらず彼らを引き剥がそうとした。


 「……!」


 だが伸ばした手は男達の身体をすり抜け、それどころか家具や壁すらも掴めない。

 男達に明が見えないように……明もまた、男達に干渉する事が出来ないのだ。

 ただ…見守る事しか、出来ない。





 …それからの光景は、あまりに不幸で、陰惨だった。

 大勢の暴漢どもに押さえつけられ、いいように弄ばれ、

 殴られ、踏まれ、血を流して泣く女を、明はただ眺めていた。

 半年間、同じ部屋で顔を合わせ続けた女を物のように蹂躙する男達を、ただ眺めていた。

 そして彼らがこうも残酷な仕打ちをする動機が、

 自分が早知を抱いたのとさほど変わらぬものであると思うと……

 言葉どおり。反吐が出た。

 明は言いようも無い無力感に小一時間ほどうなだれていたのだが……

 彼が知ろうとした【鏡の女】の運命は、この程度の苦痛では、済まされなかったのだ。


 「…あー………そろそろこの女、ウザくなってきたな」

 「そうですねぇ、じゃ、捨てちまいますか」


 縞田と春樹の言葉に明が顔を上げると、素っ裸だった男達が服を着始めていた。

 彼らに囲まれ、ぼろぼろにされた女は未だ服を剥がれたまま、床に転がされている。

 縞田はベルトを締めながら、春樹に馬鹿野郎、と笑ってみせた。


 「捨てるって、そりゃぁ無理だ。だってこの女、俺の車凹ませたんだぜ」

 「は…?」

 「最高にムカつかねぇか、そういうの」


 笑ったまま言う縞田に、明だけでなく、他の5人の男全員が怪訝そうな顔をする。

 縞田は服を全て着ると、殴りすぎて青黒くなった女の顔を撫で、その身体に舌を這わせた。


 「こいつさ、処女じゃなかったよなぁ。それでよ、ちょっと腹が出てねぇか?」

 「あ…?いや、最近の女はこんなもんだぜ」

 「妊娠してると思うんだがな」


 唐突な台詞にまさか、と男達は笑う。

 だが縞田だけは笑みを消し、至極真剣な表情で、こう言ったのだ。


 「…針金、無ぇか?」



       9:56



 (人間じゃねぇ)


 呆然と立ち尽くす明の目は、いつしか空洞のように生気を無くしていた。

 視界が涙に滲み、目に痛みが走るのは、瞬きを忘れたせいだ。

 明の開ききった目は、四肢を全て……折れた腕さえ押さえ込まれ、

 くぐもった、長い長い叫びを上げる女を見た。

 黒カバンから白い粉を取り出し、浴びるように自らの顔に叩きつけ、笑う男達を見た。

 部屋が汚れる、面倒事はごめんだとぐちる、五条春樹を見た。

 針金に貫かれ、この世の何も知ることが出来ず……

 フローリングの床に引き出された、あまりに小さい胎児を、見た。

 そして、きっと何ヶ月後かに我が子が産声を上げるのを心待ちにしていたのだろう、女が。

 目の前でそれに山のように覚せい剤をまぶされ……

 血と涙を散らし、悶えるのを、見た。


 「人間じゃねぇよ………何で生きてんだよ、お前ら」


 明は幽鬼のように、縞田の背後に立っていた。

 車が凹んだ?ムカつく?

 そのどす黒い笑顔を見れば、誰にだって嘘だと分かる。この男はただ面白がっているだけだ。

 蟲を捕まえ、生きながらに足をもぎ取り遊ぶ悪ガキと同じだ。

 その残酷さは吸い込んだ麻薬のせいか?それとも自前の【歪み】なのか?

 明は腹が小さくなった女の獣のような、憤怒と悲哀と、絶望の混じった声を聞く。

 セーターを噛まされ昆虫の標本のように拘束された女の、低く、長い声。

 彼女を殴る男達の、声。死んだ胎児の、濁った産声。

 高田の落ち着いた声。早知の幸せそうなささやき声。

 店長の声。駒城の声。孤児院の大人達と、孤児達の声。世話になった漁師仲間の声。

 壊れて行く。明は感じた。

 耳に聞こえるはずの無い声が渦巻き、目の前の光景がビデオの早送りのように流れてゆく。

 女は苛め通され、あっという間に動かなくなり、それでも麻薬に狂ったけだものどもに嬲られ続け…

 やがて女の瞳孔が開いている事に気付いた男達が、揉め始める。

 男達は鈍くなった頭を叱咤して、女の処分を検討し、キッチンから包丁を持ってきて、

 五条春樹にそれを押し付けた。


 「少しずつ、少しずつ、こまぎれにして……トイレに流す。糞や、小便と一緒に。

  折れた腕が、少し小さくなった。骨が見え、ビビって、顔の方を先に削ぐ。

  頬を裂いて、歯が見えたから、また…」


 明は空洞の眼をしたまま、春樹の行為をいちいち口にした。

 死体をうかつに捨てに出て、誰かに発見されたり、死体が警察の手に渡るリスクを考えれば、

 この処分の仕方は正しいと言える。

 死体が下水の暗い闇の中に、ばらばらに飛び散るのだから、容易く証拠隠滅が叶う。

 …だが。


 「そんな上手い真似が、てめぇらなんぞに出来るかよ」


 作業の途中で、春樹がもう嫌だと包丁を取り落としていた。

 人間の身体を完全に切り刻むには、相当な慣れと精神力が要る。

 また暫く揉めていた男達は、やがて女の死体と、すがりつく春樹を残し、外に出て行った。

 見捨てられたか。笑う明に、春樹は暫く呆然とした後、同じように外に飛び出した。



       5:02



 「…よぉ、おかえり」


 数時間後。死人のような顔でドアを開ける春樹を、明は床にあぐらを掻いて迎えた。

 春樹には勿論明が見えない。春樹は大きな紙袋をいくつも抱えて、女の傍に座り込んだ。


 「何だ、そりゃ。おい春樹、どうする気なんだよ」


 明は笑みさえ浮かべて、首を傾けた。

 それは鏡の女が浮かべていた、裂傷のような笑み。到底真似できぬと思っていた、鮮烈な笑み。

 春樹は先ずは紙袋から消臭スプレーを取り出し、女の死体にまんべんなく、空になるまで吹きつけた。


 「へぇ、それで」


 春樹は買ってきたバスタオルで死体を幾重にも包み、ミイラのように固めてしまう。

 次に春樹がぶちまけた紙袋の中身を見て、明はひゃはは、と引きつったような声を上げて笑った。

 有孔ボード、グラスウール、発泡スチロールの塊、ベニヤ板、セメント袋、接着剤、

 工具箱に、白の壁紙。

 ド素人が知恵を絞ったような、壁の材料らしき物が詰まっていた。


 「お前が壁、作ってくれたのか!女入りの壁たぁ洒落た作品だぁ……

  警察も気付かねぇなんて大したもんだ!!」


 壁に向かう春樹に、明は笑顔のまま、怒声を上げた。



 大鏡は、全てを見ていたのだ。

 一人の女が殺され、切り刻まれ、壁の中に埋め込まれるのを、見届けていたのだ。

 鏡が微動だにしなかったのも、そこに女が映っていたのも。

 或いは明に、屍の眠る壁を見て欲しかったからなのか……

 鏡は、現実を映す。

 鏡面の向く先に無いものは、映さない。


 明は深く息を吐き、春樹に背を向け、大鏡に向き直った。

 そこには、やはり誰も映ってはいない。現実の、明の部屋が在るだけだ。

 明はそれでも鏡面に顔を寄せ、笑みを消す事無く……口を開く。


 「壁をブチ壊して、あんたを出してやる。

  それで、どっかの寺に供養を頼んでやるよ。

  ……だから、もういいだろ…?」


 帰してくれよ。


 そう、呟いた瞬間。鏡面から手が、伸びた。

 白く、細い、2本の手。青黒い、痣の浮いた、手。

 その手が。明の笑みを、掻き消した。

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