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前編

主要登場人物


【明】主人公 【店長】すずやの店長

【早知】すずや店員  【高田】刑事

【えっちゃん】…

 一人の少女を、知っている。

 艶やかな髪と真っ黒な目、いつも痣だらけの少女。

 自分は彼女を【えっちゃん】と呼び、

 ひたすらに優しい彼女を慕い、どこにでもついて行った。


 幼少の頃、楽しい思い出と言えば、彼女と過ごした時間に他ならない。

 辛い思い出といえば、彼女を失ってからの時間に他ならない。


 彼女はある日、唐突に居なくなった。

 幸福な理由で、自分と路を違えたのだ。



       1



 午後5時過ぎ。1LDKの我が家に帰り、玄関扉をロックした後。

 靴を脱ぎ、キッチンを抜け、洋室の左手奥、クローゼットの前に立った宮柳明は、

 今日一日の全ての疲れを忘れ、ほっ、と息をついた。

 このアパートに越してきた時から少しも変わらずそこに在る大鏡は、

 明の期待を裏切る事無く、色白の女の姿を映し出している。

 明が黒いコートを脱ぐと鏡の中の女は当然同じ仕草でコートを脱ぎ、

 カッターシャツのボタンを外せば、コンマ1秒の遅れも無く、明の行為につき従う。

 常人には何の事は無い作業でも、明にとってこれは一番の至福の時だ。

 鏡の中の女はいわゆる綺麗な女ではなかったが、

 それは単に地味な服を着て、化粧をしていないからに他ならない。

 駅前の喫茶店【すずや】で8時間真面目に働いた後の顔は、綺麗でこそないが、良い顔だった。


 「腹が、減ったな。……ぺこぺこだ」


 肩に掛る黒髪を掻きながら、鏡の中の女は白いシャツの腹を、そっと捲ってみる。

 すずやが珍しく満席で昼食を取る間もなかった故、鏡に映る腹は肋骨の形が分かるほど、凹んでいた。

 …晩飯にしよう。

 ベルトを外しながらキッチンに戻って行く明は、その短く尖った髪を、日焼けした指で掻き揚げた。




 明がその女と出会ったのは、半年ほど前の話だ。

 16になり孤児院を追い出された明が、院長の紹介してくれた漁船の仕事を4年間死ぬ気でこなし、

 溜まった金でアパートの部屋を借りた、半年前。

 自殺者が出たとかで他の部屋より家賃の下がっていた、25号室のクローゼットの中に、それは在った。

 全長180cmはある、古い木枠の大鏡。

 それを覗き込む明を迎えたのは日に焼けた無精ひげの男ではなく、

 明と同じ服を着て、同じ姿勢、同じ表情をした、見知らぬ女だった。


 最初は驚いた。船乗りの例に漏れず、明もまた人並みに死後の世界や心霊の存在を信じる男だ。

 自殺者の部屋など借りなければ良かったと、嘆きもした。鏡を処分してくれと、管理人に訴えもした。

 だが大鏡は床に杭を打たれたように何人がかりで運び出そうとしてもびくともせず、

 いっそ叩き壊してしまおうと木槌を振り上げた事もあったが、どういうわけか明が全力で打ち据えても

 鏡にひびすら入らない。

 神社の神主を呼んでお祓いを頼みもしたが、未だ何の効果も無い。

 何より明以外の人間にはその鏡面に女の姿を見いだす事は出来ず、

 立ち会った誰もがいたって普通の鏡であると言う。

 気味が悪くとも明には他に寝る場所も無く、アパートを飛び出しても払った家賃は帰って来ない。

 そうして数週間も妥協している内、明は次第に……鏡が何の災厄ももたらさなかったせいか、

 この奇妙な現象にも、慣れていった。

 鏡自体に慣れれば、次はその中に居る女に興味が行く。

 若く、健康的な肌。

 髪は明のものより遥かに艶やかで、程度は知れないが、外見の研磨に余念が無いと言った風。

 彼女が何故こうまでしてこの部屋に留まりたいのか分からないが……

 明は彼女の外見自体は、嫌いではなかった。


 「…俺はどうも、小奇麗な料理が苦手だ」


 フライパンからぐしゃぐしゃに崩れた卵をケチャップライスにぶちまけて、明は苦い顔をする。

 明の得意な漁師的な大味料理は中年層には評判が良いが、

 彼の勤め先のすずやに来る客の大半は若者や、若い親子連れである。

 彼らは主に飲み物単品か、甘いデザート系の食べ物や、今失敗したオムライスのような物を注文する。

 よって居酒屋で出されるような明の料理は何の需要も無く、

 たとえ戦場のような繁盛時でも明が食べ物を作ることは滅多に無い。

 コーヒーや茶の淹れ方も断然店長の方が上手く、明はひたすら注文取りと運び役に徹し、

 盛りが過ぎてからせめて食器でも洗うのが関の山だ。

 すずやの人員は店長を含めてたった3人。小さな喫茶店だが、それゆえに最も忙しい時間帯に限り、

 明の不甲斐なさがモロに浮き彫りになる。

 自力でコーヒーの淹れ方やデザートの盛り付け方を研究するも、

 その腕前はまだまだ戦力と呼ぶには心許ない。

 そんな半人前の明はただ【真面目で素直なヒヨッコ】でいる事でクビを繋げ、

 スキルアップに励む日々を送っていた。


 ぐちゃぐちゃのオムライスと缶ビールを手に、明は再び洋室のクローゼットの前に戻ってくる。

 ミント色のクッションをフローリングの床に置き、

 鏡の前で胡座を掻くと、鏡の向こうの女と目が合った。

 明と体格は違えど同程度の身長の彼女は、鏡の中で明と同じ表情を浮かべ、同じ夕食を手にしている。


 ……無様でも良い。この触れる事も会話する事も出来ない女が、明にとっての家族であり、パートナーだ。

 自分に名字だけを残して消えうせた親と違い、彼女は常にそこに居てくれる。

 明はオムライスの皿と缶ビールを床に置き、女と一緒に合掌して、薄く微笑んだ。


 「不細工な飯だが、まぁその内綺麗にもなるだろうさ」


 いただきます、とひとこと言うや、明と女はオムライスをスプーンで掻き込み、がつがつと咀嚼する。

 味は、オムライスとは、程遠い。





 夕食後明は風呂に入り、7時にもなっていないうちからグレーの寝巻きに着替え、

 洋室のテレビをつけた。

 洋室には大鏡の入ったクローゼットと、床に直に置いたテレビ、目覚し時計しかなく、

 寝具やクッションは部屋の隅に出しっぱなしにされている。

 ただただ白い壁紙に囲まれた洋室で、明は開きっぱなしのクローゼットにわきばらをむけて寝転がった。

 明は床に寝そべったり鏡の前で何かを運ぶ時、何よりも鏡の女の胸元に注意して動く。

 鍛えた明の胸板など問題にならぬ程盛り上がったそこを無思慮に圧迫する事が、

 とても罪深い事に思えたからだ。

 罪深いといえば、明は大鏡の前で脱衣をしているが、それとて越えてはならない一線を引いている。

 即ちシャツと、ズボンだ。

 世の健康な男性諸君に言わせれば情けない、意気地の無いヤツであろう。

 明は実際女性関係においてはその通りの男であったが……特に鏡の彼女に対してだけは、

 何故だかそういった色欲を抱けないのだ。


 「………」


 2時間ほど経った頃、不意に明は怖気を感じ、肩をぶるりと震わせた。

 11月の事、夜は勿論冷えるが、その震えは外気のせいなどではない。

 テレビから流れる古い洋画の曲を聞きながら、明はそっとテレビの横の目覚し時計を盗み見た。

 針が刺すのは、午後8時、41分……明は毎晩この時間に、怖気を感じて震え上がる。

 半年間、毎日だ。

 明は床に寝そべったまま、ゆっくりと、顔を大鏡に向ける。


 女が明に向かって胡座を掻き、鮮烈な笑みを浮かべていた。


 午後8時、41分。明の知る限り一日で唯一彼女が自立し、動き出す時間。

 だがその時彼女が何をするかと言えば、ただ床に座って、明の顔を見つめ続けるだけ。

 ぐりぐりと動く瞳は普段よりも小さく見え、

 明にはとうてい真似できない、深い裂傷のような笑みを浮かべている。


 「……何故、この時間なんだ?」


 問う明に彼女は何も返さず、両手を腿の間についたまま。

 明は自分が眠らぬ限り彼女が元に戻らぬ事を知っていたから…

 布団を敷きに、立ち上がった。



       2



 「店長、豆の袋出してきました」

 「ご苦労さん、カウンターの奥に突っ込んどいて下さい」


 午前8時。

 駅前商店街の入り口にあるすずやには、冷えた空気を裂くような陽光がさんさんと差し込んでいる。

 業務用コーヒー豆の大袋を運ぶ明はカッターシャツにレモン色のエプロンを着けていて、

 床をモップがけしている店長もまた、彼と同じ服装だ。

 明のアパートの部屋よりほんの少し広い程度の喫茶店には、テーブルが5つとカウンター席が6つ。

 店長の趣味で照明から椅子まで全てアンティーク調で統一された店内では、

 なんとレコードが曲を奏でていて、

 カウンター脇の小さな本棚には上段に演劇やワインの小難しい本が並び、

 中段に翻訳された外国の童話集が、

 そして下段に泣く泣く妥協したと見える、新刊の少年漫画と雑誌が並んでいる。


 駅前の喫茶店でここまで趣味的な内装が出来るのも、一重に店長個人のステータスと、

 それに惹かれる常連客達の存在故だ。

 今年で35になる気の良い中年親父、道田弘介店長は、マニアックなグルメ番組や雑誌に青春を捧げた…

 正直知った事じゃないが、そこそこ有名なコック兼タレントであったらしい。

 話によればフォアグラに蜂蜜を入れたどこぞの人気シェフと衝突して、

 あえなくテレビモニターから退場したと聞くが、

 本人はいまだに甘いフォアグラの存在を邪道だと断じ、はばからない。


 明が豆袋を置いてカウンターから出てくるとカウベルが鳴り、

 この店の3人目の店員がドアをくぐって来た。


 「うぃっす。おはよう宮柳!」

 「おはようございます。エプロン、休憩室に出してありますから」

 「おはよう、大南君」


 明や店長の挨拶を受ける大南早知は、薄い茶髪を極端に短くカットした、26歳の小柄な女性。

 彼女には先日まで旦那が居たが、今は違う。店長は過去2回、明は1回、早知の結婚式を経験していた。

 飽きっぽい性格の早知の髪形は月毎に変わるし、舌にピアスを入れると言った時は

 店長と2人で必死に舌ピアスの危険性や、飲食店店員としての不適切さを説いたものだ。


 明はそんな2人と8時半から店を開け、いつも通りに客を迎え、働いた。

 午前中に9人、正午からの1時間で更に13人。

 この喫茶店、すずやでは一部の食べ物を包んで持ち帰る事も出来るから、時には席の数以上に客が入る。

 午後3時を過ぎようやく店内に客の姿が見えなくなった頃、

 コンビニに弁当を買いに行った店長が、1人の男を連れてきた。


 「宮柳君、大南君、こちら僕の高校時代の友人で、高田君って言うんですけどね」


 屈強な中年男を紹介する店長に、カウンター内の明と早知はほぼ同時に【どうも】と頭を下げる。


 「さっきそこでばったりと会いまして……それで、ね。宮柳君」

 「はい?」

 「高田君が君に、少し訊きたい事があるそうで……彼、刑事さんなんですよ」


 きょとんとする明の袖を、何故だか早知がとっさに掴んでいた。

 それは明を捕まえているようであり、不安を感じて寄り添っているようでもある。

 背の高い高田はその様子に軽く笑いながら、失礼、と明の目の前の席に腰掛けた。


 「どうも、宮柳さん。驚かせてしまったようで申し訳ない」

 「…いえ……何のお話でしょう?」

 「その前に、オレンジジュース。頂けますか」


 メニューを手に言う高田に、明は手元のガラスコップを取り、後ろの冷蔵庫に向かう。

 何となく重苦しい空気の中、店長がコンビニ弁当を置きに休憩室のドアを開け、

 早知はと言えば、明を見つめてただもじもじしている。

 瓶からトクトクと音を立てて注がれるオレンジジュースが高田の前に出される頃には、

 店長もまたカウンターの傍に戻ってきていた。


 「どうぞ、高田さん」

 「ありがとう…精悍だな、あなたは。武道とかやってます?」

 「いえ、特には…」


 「へぇ、でも良い身体してる。

  最近の新入りは…新入り警官は、本当に警察学校出たのか疑わしくなるような連中が多くて。

  人柄はともかく、根性ってのは顔に出ますからね」


 「……それが、訊きたい事ですか?」


 小さく笑う明に、高田はまさかと首を振ってジュースを一口飲む。

 甘いオレンジジュースをごくりと美味そうに飲んだ高田は、コップを持ち上げたまま再び明を見、

 切り出した。


 「あなたの住んでいるアパート……えぇと、確かリル…」

 「リール・ジューン」


 「そう、それ。25号室に住んでいらっしゃる……

  当然ご存知かと思うが、そこで前の住人が首を吊っていますね」


 明は勝手に高鳴る心臓にエプロンの前で両手を組み、なるべく冷静を装って高田に答えた。


 「勿論知っています。でも他の部屋より家賃が安いので………」


 「えぇ。借り手がつかなくて管理人も頭を抱えていたらしい……

  ではこれもご存知ですね?前の住人は麻薬の売人だった」


 「…!い、いえ、初耳です…」


 「…まぁ売人といっても組織的なヤツではなく、

  個人で覚せい剤やシンナーを街角で売りさばく小悪党なんですがね。

  新聞やニュースにも出てましたよ、去年の話ですけど」


 「あの、彼、去年は漁船に乗ってて……」


 たすけ舟を出す早知に笑顔を向けてから、高田はまた一口、ジュースを口に含む。

 明は自室の鏡に映る女が麻薬の売人だったのかと唇を噛み、少し黙った後…それで、と高田を見た。


 「何故俺にそんな話を聞かせるんです?去年の事件でしょう」


 「えぇ、そうです。ただ……自殺した売人には余罪があるらしいんですよ。

  先日別の売人が暴力沙汰を起こして逮捕されましてね。まぁこいつ自身、重度の麻薬中毒でして…

  取り調べでは薬が欲しい一心で、色々吐きました」


 「…はぁ」


 神妙な顔で話す刑事に、明は思わずひきつった薄笑みを浮かべていた。

 麻薬、売人、出来れば死ぬまで関わりたくなかった社会の毒だ。

 鏡の女は健康的だったが、それが余計に死の売人としての彼女の心根の歪みを強調しているようで、

 明は小さく奥歯を軋ませる。

 高田のコップは、何時の間にか空になっていた。


 「それでね、宮柳さん……奴らは当時計6名でチームを組んでいまして。

  麻薬の他にも窃盗とか、強姦とか、いい気になって繰り返していたそうなんですよ。

  あなたの部屋に以前住んでいた人物も、その一員です。

  しかもあなたの25号室によく集まっていたとも言っている。

  覚せい剤を保管していた事もあると…ね」


 「………」


 「…宮柳さん、心中お察ししますが是非お訊きしたい。

  あなたの部屋や周辺で、何か変わったことはありませんか?

  不審な人物を見かけませんでしたか?」


 鏡の中に知らない女が居る、などと言う訳にも行かず、明はただ首を横に振るしかなかった。



       3



 その日明は仕事が終わった後もアパートに帰る気にはなれず、商店街の外れの居酒屋に、初めて訪れた。

 2人のサラリーマン風の男が入り口正面のカウンターで肩を並べ、3人の若者達がテーブル席で騒ぐ中、

 明は店の一番奥のカウンター席に一人腰掛ける。

 愛用のコートを膝にかけ、眉間に何本も皺を寄せた女将に焼き鳥と、飲んだことも無い日本酒を注文した。


 (ざまぁねぇなァ……そりゃ、うすうす悪霊なんじゃねぇかとは思っていたけどよ……)


 出された鶏肉を齧りながら、明は数年ぶりに、泣きたいほど惨めな心地を味わっていた。

 手の届かない女を勝手に好いて、勝手に幻滅して、勝手に泣き酒を啜る。

 いや、今は酒に逃げる金があるから、孤児院にいた頃よりはまだマシと言えるか。

 明は押入れの隅に鼠のように身を縮め隠れる幼い自分を思い出し、危うく舌打をしそうになった。

 あの孤児院の大人どもは、親身になっているつもりでよく明を叩いた。

 一番の仲良しだった【えっちゃん】だけが明を常に優しく撫でてくれていたが、

 そのえっちゃんも結局は小畑と言う裕福な家の養子になり、明を置いて去って行ったのだ。


 「宮柳」


 不意に名を呼ばれ、声のほうを見る明。

 まだ熱すら宿っていない目の先に、薄青い外套を着た早知が立っていた。

 にっと笑って隣の席にやってくる彼女を、明はただ無表情に迎える。


 「ここ、入ってくの見えたからさ。あたしの家すぐそこなの、知ってるでしょ?」

 「あぁ、そう…」

 「……暗い声〜、ま、気持ちも分かるけどさ…あんな話されちゃぁね」

 「…最悪だよ」


 明は自分では気付いていなかったが、普段常に敬語で接する早知に対し、

 無意識に自前の口調に戻っていた。

 早知は女将にビールとから揚げを頼み、外套を脱ぎながらそんな明に頬杖をつく。


 「ま、所詮は一年前の話なんだし、深く考えない事だね。戸締りだけきちっとしてさ。

  犯罪者はその内警察が捕まえてくれるだろうし……」


 「……」

 「………でも、びっくりしたなぁ。あの自殺部屋借りたの宮柳だったんだ。結構勇気あるじゃん?ねぇ?」

 「大南さん」


 少し黙ってくれ、と言おうとしたのに、早知は顔を向けた明になぁに、と微笑んで見せた。


 …猫のような顔つきの早知は、孤児院で育った明と比べれば天国と地獄ほど差がある、

 恵まれた家庭で育った女だ。

 両親と妹がいる実家をもち、毎月仕送りを受け、外車を乗り回し、

 遊びすぎたせいで大学を3年も多く通い、男に飽きれば即離婚、そして再婚。

 普段は別段気にしないその落差が、今は無性に悔しくて仕方が無い。

 嫉妬など醜い事だと分かっている。分かっているから、明はから揚げを頬張る彼女の横で、

 こめかみを強く押さえて焼き鳥の皿を睨んでいた。


 「……大南さん……心配して、来てくれたんですか?」


 「うん。この大南さんが凹んでる後輩を放置するなんて、そんな事出来るもんですか!

  ……だから…」


 「……」


 そっと耳元に顔を寄せてくる早知に、眉を寄せる明。

 低目の猫なで声が、直後にそれを囁いた。


 「今日、泊めて上げてもいいよ」





 ……それから1時間後には、明は早知のマンションに上がりこんでいた。

 ベージュ色の壁紙に、緑色のカーテン。

 小奇麗な家具やパソコンの上にはぬいぐるみが山のように群をなし、

 壁にはバンドグループのポスターが貼られ、卓の上にはゲーム機とCDが散乱している。

 夜中にのこのこ女性の部屋にやって来た明は、早知にコートを脱がされながらほぅ、と息をついた。


 「…」

 「あ、今【年を考えろ】って思ったでしょ」


 顔を覗き込んでくる早知に、明は苦笑いをして肩をすくめて見せた。


 「分かるんだよね〜、初めて部屋を見た母さんと同じ顔してるんだから、嫌ンなるなぁ」

 「すいません。……大南さん、あの…」

 「楽にしてよ。冷蔵庫に飲み物あるし、シャワー使えるし……ベッドはひとつしかないけどね」

 「…じゃあ、床で結構ですよ」


 早知はクローゼットにコートや外套をしまいながら、明のそんな返事に初めて不満そうな顔をした。

 木戸がバタンと音を立てて閉められるのを見て、明はすぐに言い直す。


 「大南さんの仰る場所で寝ます」

 「……【仰る場所】じゃなくて。宮柳、あんた何のつもりであたしについて来たの?」

 「…宿泊のつもりで」


 明は早知がそんな答えを望んでいないのを分かっていて、わざとそう言う。

 嘘ではない。そう続けようとした明を、早知が情け容赦もなく、ベッドに突き飛ばした。





 …鏡の女に対し、明は目に見える以上の事を求めたわけではなかった。

 独り身の自分を模倣し…たとえ一言も喋れずとも、ともに飯を喰い、テレビを見る。

 ただそれだけの事だ。仕事から帰った時、朝目が覚めた時、そこに居るという事。

 それだけで嬉しかった。孤独を忘れる事が出来た。

 ならば。それならば、今更彼女の正体が何であろうと構わぬはずだ。

 彼女の過去は問題ではない。そのはずだった。

 なのに明は、麻薬の売人というゲスな肩書きが彼女に付与された途端、

 鏡の女を見捨てて早知の寝床に入っている。

 …いや、鏡の女にとって、明などどうでもいい存在なのかも知れない。

 そもそも明が一方的に親しみを覚えているだけの事だ。


 明は早知が満足し自分の腕を枕に欲しがると、左腕を差し出して、彼女の肩に手を置いた。


 「宮柳ぃ、あたし達、結婚しちゃおっか?」

 「俺は離婚するのはごめんですよ」


 さらりと口から、無意識に毒が出た。

 幸い早知は軽く笑って流し、明の頬を軽くつねるに留めてくれる。

 2人して深く息を吐き、照明がついたままの天井を眺めた。

 窓の外をバイクが数台、五月蝿い音を立てて走り抜けて行く。


 「……それで、どう?少しは気が晴れた?」

 「ん…えぇ、晴れましたね」


 その点は、早知に感謝しなければならない。

 単純な話だが、早知のお相手をした事で明の気分自体は随分と落ち着いていた。

 明は腕枕を崩す事無く、明の顔を自分の方へ向けて、酷薄な笑みを見せた。


 「彼女の自殺は、やはり過去の話ですから」

 「……自殺?」


 不意に笑みを消し、早知が声を潜めた。

 怪訝そうな顔をする明に、早知はその腕から頭を浮かし、声を潜めたまま問い掛ける。


 「それ……その、いつの話?」

 「…去年、でしょう?」

 「あたしが知るわけ無いじゃない。初めて聞いたよ、そんな事……【彼女】が自殺したなんて…」


 不思議な事を言う早知。明は相手と共に身を起こし、こめかみに浮いた汗を拭いつつ、首を振った。

 早知の発音した【彼女】は、明らかに【恋人】の意を指していた。


 「違いますよ、そうじゃなくて……

  高田さんの話を聞いたでしょう、俺の部屋を借りていた女が、首を吊ったって」


 「…………高田さんはそんな事、言ってないよ」


 困惑する明を見つめ、早知は毛布を胸元に引き上げながら……

 決定的なそれを、口にした。


 「あの部屋で死んだの……男の人だよ?」

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