第一話 朝の鐘、まだ鳴らず
四月の朝は、まだ少し冷たい。
新しい学年が始まって、教室の空気も、通学路の景色も、どこか少しずつ変わっていく。でも、僕と望みの間にあるものは、たぶん何も変わらない。望みは今日も何かを忘れて、僕は今日もそれを届けに行く。それだけの朝。それだけの毎日。
でも、その「それだけ」の中に、僕はいつも少しだけ、余計なものを忍ばせている。望みは気づいているのか、いないのか。たぶん、気づいている。あの男の子は、そういうところだけ妙に鋭いから。それでもお互いに、気づかないふりをして、いつもの朝をやり過ごす。
これは、そんな二人の、いつも通りの、ちょっとだけ特別な朝の話。
玄関の扉を開けた瞬間、四月の朝の冷たい空気が頬に当たった。まだ夜の名残が残る空は、東の端だけがうっすらと白み始めている。僕は半分食べかけのパンをくわえたまま、肩に鞄を引っかけて、家を出た。
今日はなぜか、いつもより十分早く家を出た。理由は自分でもよく分からない。ただ、昨夜お袋が望 みの母親と電話でしばらく話し込んで、切ったあとで何気なく「望み、明日の朝読で国語の教科書使うんやって。ちゃんと見といたげてな」と言った。僕はその時「僕ちゃうわ、あいつ自分で持ってくやろ」と口では答えたけれど、今朝出る前に、机の上にあった国語の教科書を鞄に詰めていた。望みに勉強を教えるために僕がわざわざ買い足した、二冊目の教科書だった。家と家は壁一枚隔てただけの隣同士で、望みは小さい頃からうちに出入りしていた。お袋も望みのことを半分子どもみたいに思っていて、何かあればすぐ気にかける。あの教科書だって、買ったときにお袋が「二冊買っとき。望みにも絶対必要になるから」と言ったのだ。
なぜ入れたのか。聞かれても困る。手が勝手に動いたとしか言いようがない。
通い慣れた道を歩きながら、僕はパンをかじる。曲がり角を曲がれば、望みの家が見えるはずだった。でも今日は、その前を素通りする。望みはきっと、まだ家の中だ。あいつのことだから、今頃慌てて朝食を詰め込んでいるか、それとも忘れ物に気づいて部屋をひっくり返しているか——どっちにしても、僕がわざわざ寄る必要はない。そういうことにしておいた。
教室の手前まで来たとき、ふと足が止まった。
「……そうや。」
今日の朝読は国語だ。望みのやつ、昨夜十一時まで宿題をやっていた。「あと少しで終わる」と送ってきたメッセージに、僕は「早く寝ろや」とだけ返した。あいつのことだ。今朝はきっと、慌てて宿題だけを掴んで家を飛び出したに違いない。教科書は机の上に置き去りにしたまま——そんな予感がした。
僕は廊下の真ん中で、パンをくわえたまま考える。朝読のチャイムまで、あと五分。望みの教室は、中学二年の校舎の三階だ。
「アホか、ほんまに。」
僕は振り返って階段へ走った。鞄が背中で揺れ、中で教科書が小さく鳴る。廊下ですれ違った誰かに「江林、何走っとんねん」と声をかけられても、振り返らずに手を振った。「ちょっと用事」——そう言って、二段飛ばしで階段を駆け下りる。中庭を突っ切り、中学二年の校舎へ飛び込んだ。
走りながら、僕は思っていた。なんで僕はこんなに急いでいるんだろう。あいつの忘れ物だ。僕には関係ない。先生に少し叱られて、次から気をつけるようになれば、それでいい。
……頭ではそう思うのに、足はちっとも緩まなかった。
三階に着いて、息を切らしながら後ろのドアから中を覗く。案の定だった。望みは窓側の三列目に座っていて、机の上には連絡帳、筆箱、数学の宿題、弁当袋、傘——全部が散らばっているのに、国語の教科書だけがない。下を向いて、耳の先が真っ赤だった。エビみたいに赤い、その小さな耳。背中が、いつもよりずっと小さく見えた。
先生はもう教壇に立っていて、出席簿を持ったまま望みを見ていた。
「渡辺、教科書は?」
望みは一瞬、息を止めたように固まって、それから唇を震わせて、蚊のような声で言った。「……すみません、忘れました。」
後ろのドアの外からそれを見ていた僕は、思わず笑いそうになった。耳をあんなに赤くしておきながら、平気な顔を必死に装っていて、制服の裾を握りしめた指の関節は白くなっているのに、口だけはいい生徒の体裁を保とうとしている。あいつのこういうところ、毎回同じだ。目を閉じていても描ける。
でも、笑ったのは一瞬だけだった。先生に叱らせるつもりはなかった。僕は「ガラッ」と後ろのドアを開けた。
教室中の全員が、一斉にこちらを見た。僕はドアのところに立って、息は上がっているわ、髪は風で乱れているわ、シャツの襟は曲がっているわ、手には国語の教科書を掲げていた。
「望み!」
あいつが顔を上げた。その瞬間の表情を、僕はきっと忘れない。ぼんやりした顔から、目を見開いて、それから顔じゅうが耳まで真っ赤に染まっていく——その流れが、一秒にも満たない時間だった。さっきより、ずっと赤かった。正直、ちょっとおもろかった。でも、笑うのは我慢した。
「はい、これ。」僕は教科書を一番近くの生徒に押しつけて、望みの方向へ顎をしゃくった。「回してやって。」
それから、あいつをちらりと見た。口をぱくぱくさせて、何か言いたそうなのに言えない顔。僕は顎を上げて、声を出さずに口の形だけで「アホやなぁ〜」と言ってやった。それから、我慢できなくて、もう一つ付け足した。「確認、しろよ。」
望みの口が、さらに大きく開いた。顔も、もっと赤くなった。机の上で指がぎゅっと丸まって、何か投げつけたいものでも探しているようだった。でも、机の上には筆箱と連絡帳しかなくて、どちらも投げるわけにはいかないだろう。あの小さな手で何かを投げようとしている姿が、妙におかしかった。
僕はあいつに眉を上げてみせて、先生に向かって軽く頭を下げた。
「すみません、忘れ物を届けに来ただけです。」
言い終わると「パタン」と後ろのドアを閉めて、振り返って歩き出した。
廊下は静かで、自分の足音だけが聞こえた。数歩歩いて、僕は自分の耳を触った。……ちょっと熱い。きっと、走りすぎたせいだ。
あの教科書の扉ページに、僕はメモを挟んでいた。さっき廊下で適当に破ったやつで、紙の端はぎざぎざだ。字はめっちゃ速く書いたから、文字と文字が繋がって飛んでいるみたいになっている。急いでいたから仕方ない。でも、望みはいつも僕の急いでいるときの字を見て笑うけれど、僕だってちゃんと書けば読める。
メモに書いたのは、これだ。
次からはちゃんと自分で確認しろや
あと、昨日の宿題の数学、問3間違ってたぞ アホ
書き終わって、少し考えて、裏返して一行付け足した。
ちゃんと見直せよ
本当は「次は忘れんなよ」と書こうと思った。でも、優しすぎる気がして、僕らしくない。やっぱり「ちゃんと見直せよ」がいい。「アホ」の二文字は、わざと大きく書いておいた。あいつが最初に目をやるように。
望みがあの裏の一行に気づくかどうかは、僕の知ったことではない。……たぶん、気づくだろうな。あの男の子は、そういうところだけ妙に鋭いから。うっとうしい。
中学三年の教室に戻ったとき、朝読のチャイムがちょうど鳴り終わったところだった。先生が僕をちらりと見て、僕は「すみません」とジェスチャーして、席に滑り込んだ。パンはまだ半分残っていて、もう冷めていた。
冷めたパンをかじりながら、僕は携帯を取り出して、望みにメッセージを送った。
「無事に届いたか?」
送ってすぐポケットに戻した。返事は待たない。あいつは絶対に返してくるから。ただ、待っているように見えるのが嫌なだけだ。
一分くらいして、ポケットが震えた。取り出して見ると、望みからの返事だった。
「……うん。ありがとう、縁真兄ちゃん」
望みは小さい頃からそう呼ぶ。ただの隣の家の子なのに、いつからか「ゆうまお兄ちゃん」という呼び方が定着して、今に至るまでずっとそうだ。僕も直そうとしたことはない。あいつが呼ぶから、僕が返す。それだけのことだ。
その後にもう一通。
「でも、メモの字、汚すぎ」
僕はそのメッセージを三秒くらい見つめて、口元が緩むのを感じた。すぐに引き締めて、打った。
「急いで書いたからや。ちゃんと書いたら読めるわ」
望みはすぐに返してきた。
「アホって書く暇あったら、もうちょっと丁寧に書いてほしかった」
画面を見つめて、思わず笑い声が出た。隣の席のやつがこちらを見たから、すぐに真顔に戻して咳を一つした。それから打った。
「アホやなぁ〜」
送ってから少し考えて、もう一通付け足した。
「見直せよ、って書いたろ。ちゃんと見たか」
今度は望み、なかなか返してこなかった。
「……見た」
その後にもう一通。
「ちゃんと見直す。次は忘れへん」
僕は「次は忘れへん」の文字を見つめて、また口元が緩んだ。今度は抑えきれなかった。隣のやつに「江林、何笑ってんねん」と聞かれて、僕は真顔で「別に」と言った。
朝読が始まって、僕は教科書を開いた。中に、きちんと折りたたまれたメモ用紙が挟まっている。昨日僕が何気なく入れたやつで、僕の字で数学の公式が書いてある。字はきれいに、一画一画丁寧に。
僕はその数行を二秒ほど見つめた。次、望みにメモを書くときは、ちゃんと書こう。そうしないと、また字が汚いと言われる。
……でも、「アホ」の二文字で耳まで真っ赤にしているあの男の子の顔を見るのも、なかなか悪くない。まあ、次考えよう。
この第一話は、二人の「いつもの朝」をそのまま描いてみました。望みが忘れ物をして、緣真が文句を言いながらも走って届ける。それだけの話です。でも、その「それだけ」の中に、緣真の不器用な優しさと、望みの素直じゃない甘え方をぎゅっと詰め込んだつもりです。
メモの裏に書いた「ちゃんと見直せよ」——あの一行は、緣真がどれだけ迷って書いたか、想像していただけたら嬉しいです。「アホ」と書くのは簡単なのに、本当に伝えたいことはなかなか書けない。そんな哥哥の不器用さが、この話の核です。
望みが「メモの字、汚すぎ」と返してくるあたり、二人の関係性がよく出ているなあと、書きながら笑っていました。緣真は絶対に認めませんが、望みが笑ってくれるなら字が汚くてもいいと思っている節があります。まあ、次はちゃんと書くと思います。たぶん。
それでは、また次の朝に。




