追憶 ~春風に吹かれて~
パソコンに打ち込んだ引継ぎ内容をまとめると、横に座る後任の女性相談員にチャットでファイルを送った。
「各店舗で実施する内容は今送りました。でも、あくまでも私がやっていた事です。佐々木さんとお店で話し合って、必要があれば続けてくださいね」
笑顔を向けると、緊張で強張った表情の新人は何度も頷いた。眼鏡をかけた真面目な女の子で、担当店舗の第一印象も良さそうだ。
これから沢山の困難があるけど、くじけないでね。
「あと何かありますか」
気持ちとは裏腹に、淡々とした口調で言葉を続ける。こういった場面でもう少し気さくな表情を作れたら、人望も得られたに違いない。最大限の笑顔を無理やり作った。
「いえ・・・でも、憧れの中塚さんのエリアをそのまま引き継ぐのは緊張します。もしも、ですけど、わからないことあれば聞いてもいいですか」
拙い言葉をつなぐように、彼女はゆっくりと吐き出した。後任の佐々木はこの春に経営相談員となり、私の担当店舗を引き継ぐことになった。
この仕事はコンビニ本部社員と一般に呼ばれる職業で、基本的には担当しているコンビニ店舗を巡回して店舗の経営者であるオーナーへ経営の提案や困ったことへの相談を受けるのが主な役割だ。
入社をしてからすぐになるわけではない。まずは直営店舗で店長や副店長を経験して、判断を頂くと昇格して最終の試験を受ける。私も数年前には同じようにドキドキしながら、こうやって引継ぎを受けていた。
「いいですよ。でも、段々と私も現場のことが分からなくなるから、まずは聞きやすい先輩を見つけるのがいいかな」
ルート営業が主な仕事のため、経営相談員同士の仲は悪くない。自分の担当店舗で成果を出せばいいので、抜け駆けや顧客の奪い合いはなく、技術の相談にも乗ってもらえる。しかし、個々でこなす仕事も多いので、悩んでいても相談できなければ気付かれることがないのだ。
相談なんて、社会人としては当たり前にできること。言ってしまえばそこまでだが、相談の内容も具体的にできないで崩れてしまうことは、この仕事に限らずどこにでもある話だ。気軽に話せる先輩がいるかいないかは重要なのだとこの役職になってから嫌というほど気付かされた。
「すみません。中塚さんも新しい部署ですものね」
私の言い方を、悪い方向に受け取ってしまったようだ。暗い表情で謝った。
「そうじゃないよ。ためらわないで相談はしてほしい。でも、私も離れれば見えなくなるものがあるので不安になっただけ。ねえ、お互い落ち着いたら、引継ぎ中に話していたスイーツ専門店に一緒に行かない」
「もちろんです。いいのですか」
佐々木は大きく目を開いた。嘘ではなさそうには喜んでくれている。
「もちろん。佐々木さんが嫌でなければ」
「嬉しいです。それを励みに仕事頑張ります」
身長が高く、高校ではバレーボール部だったというだけに動きがキビキビしている。細かい気遣いも出来ているので、仕事も問題なくこなすだろう。
「絶対連絡する。あと、最後までわがまま言ってごめんね」
目の前で手を合わせた。彼女は慌てたように手を横に振った。
「いいえ、むしろ、取りに伺いますよ」
「いや、大丈夫。明日必ず持っていくから」
社用車は基本的には各相談員に一台貸与されており、引継ぎで渡す約束になっている。本来なら、金曜日の夕方に後任に渡すのだが、上司と佐々木に許可を取って、明日彼女の自宅の駐車場へ持っていくことにしている。
「気にしないでください。明日は一日家にいますので」
目を細めて手を横に振った。引継ぎではなく、一緒に働きたい存在だな。それは口にしないことにした。
「ありがとう」
「では、私は失礼します。引継ぎ期間、中塚さんと一緒に働けてよかったです。今後とも、よろしくお願い致します」
パソコンの入った鞄を持つと、彼女は車を出て駅に向かって歩き出した。しばらく背中を見送った。来週から、彼女はこの車に乗って一人で担当店舗に通うのだ。
憧れなんて、持っているわけがない。一緒に働いた時間も短いのに、何がわかるのだろうか。
佐々木に対しての話ではなく、数えられない程度には頂いた意味のない誉め言葉に辟易する。私のことを見た目だけで評価されても、私の心には何も響かない。
パソコンの画面に小さく表示されている時間は十九時。約束通り、十九時半には行けそうだ。一度車を出ると、コインパーキングの精算を済ませて車内へ戻った。春の暖かい風が吹き抜けて、視線に映る駅前の風景は変わらないので数年前に戻ったような懐かしい気持ちが蘇ってくる。
ここは地元ではなかったので、まだ着任時はホテル住まいから始めた。ご飯を食べる場所も分からなかったので困っていたら、当時先輩だった女性の相談員に誘われて、この駐車場に車を停めてご飯を一緒に食べた記憶は今も鮮明だ。
車で慣れた道を進んでいく。最初は慣れない運転も、三年間ほぼ毎日運転に関わることで体に染みついていた。人の多い駅前を抜けて、なんとなくラジオを流しながら郊外へ車を走らせる。
普段感じない心臓の鼓動。嫌なことも多い仕事で、なんども逃げたいと思っていた。それなのに、今日が最後だと言われると名残惜しい気持ちが先に立つ。
本社の他部署への辞令は突然だった。担当店舗の交替はあると思っていたが、経営相談員を外れるのは想定外。上司にもこの仕事を続けたいと話していたので、今回の人事異動は希望ではないのは確かだ。
希望者の多い人事部への異動。先輩も後輩も、上司だってみんなでおめでとうと言ってくれた。
中塚なら、そうなると思っていたよ。
褒めてくれているのはわかる。しかし、私の意思は受け入れていない。
父は普通の会社員で母は若いころウエディングプランナ―をしていた。母の仕事の話を聞いて、引っ込み思案の私は主役を裏で支える仕事に憧れを持った。何年も前に担当した夫婦からの手紙を嬉しそうに読む母の姿に胸を弾ませていた。誰かの人生に裏方として光を当てる仕事。そして、それを感謝されることに強い関心があったのだ。
しかし、相反して私は常に真ん中に出されてきた。周りに人が来ては、私を中心に運んでくる。文化祭でもお姫様。修学旅行でもクラスの人気者から公開告白。私にとっては面倒なことしかなかった。
自分の容姿が優れている。本人は絶対に口に出さない、出してはいけない言葉。わかっていないふりを演じていたって、馬鹿でなければ当たり前に気が付く事実。私自身は小学校の高学年になったあたりで、周りの反応から気付かされた。
常に浴びる視線。私のキャラクターを勝手に決めて、違えば勝手に落胆する。明るく笑うのが大好きだったのに、好意があると男子に勘違いされてから人前で笑うのも遠慮するようになった。
お店を支える仕事。そう聞いて入社したこの会社でもあまり変わらなかった。常に周りが変に手を差し伸べてきて、泥臭い仕事はしなくていいと引き離される。他の社員にはない、先輩社員としての就活相談会も数年間連続で担当した。その縁で、今回の異動もあった気がする。
でも、したかったのは違う。店舗の悩みを一緒に解決するために汗をかいて走り回りたかった。あなたにとってこの役職は経験だから。一度上司から言われて、未だに消えない言葉。みんなは真剣。私は経験。私は腰掛でこの仕事をしたかったわけではない。
放っておけばいい。本当のあなたをみんなは知らない。みんなのイメージに合わせているなんて、それこそ言い訳じゃないの。
悩んだ時に、ラーメン屋で真剣に目を見て話してくれた先輩の言葉。行き違いからいなくなってしまった先輩の言葉に何度も救われた。
いつも落ち着いている綺麗な先輩だった。みんなでいる時は静かで、淡々と業務をこなす。ただ、意見が割れた時はきちんと自分の気持ちを率直に口にする意思の強さも好きだった。そして、私の小さな変化によく気が付いてくれた。
沢山のことを教えてもらった。今までさせてもらえなかった地味な仕事も親身に教えてくれた。お互いの店舗の力仕事も、時間を見つけて一緒に片づけた日も何度もあった。辛かったが、広いお店の草むしりを二人で終わらせた日の夕方の風は心地よかった。
じゃあ、いつも通り行こうか。
彼女の言葉が蘇ったあたりで、ちょうどよく店舗へ着いた。一番奥の駐車場に車を停車させると、何も持たずに歩き出した。
「おはようございます」
いつも通り、努めて明るい声で挨拶をする。夜には不適切な挨拶だが、内部事情はこれで合っている。今後は注意しないといけないと思いつつ、売場にいる従業員に声をかけた。
売場をぐるりと回って、そのままバックヤードへ足を進めた。事務所とは逆の場所にあるが、ここにいるはずだ。
「おはようございます」
「あれ、翼ちゃん。来てくれたの」
高齢の小柄な女性は声を弾ませた。オーナーの奥さんで肩書は店長。気難しいオーナーを陰で支えてくれる大切な存在だ。担当直後は私も沢山相談したものだ。
「ディスプレイが気になって」
売り方を教えてほしいと言われて大きな商品のディスプレイを作ってから、いつも一緒に作るようになった。商品以外何もなかった売場が華やかになり、一緒に作ってくれるパートやアルバイトも増えてきたところだ。
「増田君が深夜に付けてくれるようになったから、随分楽になったよ。今日のやつもいいでしょう」
大きな揚げ物を段ボールで作り、セールの告知をしているものだ。
「すごい。これは目立ちますね」
「みんなも声をかけてくれるようになったから。これも翼ちゃんのおかげだよ」
「そんなことありません。みんなが頑張ってくれることがすべてですよ」
仕事で褒められるのは苦手で、目を逸らしてしまった。嬉しくなると、どうしても涙腺が緩んでしまう。
「いいえ、担当をしてくれてありがとう。みんなオーナーに負けて何も言わなくなってしまうのに、翼ちゃんだけは全力で対応をしてくれたのは感謝しています」
「そんな・・・私は・・・」
「また遊びにきてね。みんな待っているから」
暖かく柔らかい手で、私の手を握ってくれた。そのまま俯いて頷いた。あまり経験がないせいか、こういった時の表情が難しい。泣いたらわざとらしく思われないか、雑念が入ってくる。
また気に入られようとしている。同級生の笑い声が勝手に入ってくる。それが怖くて、表情を表に出せなくなった。私は自分らしく振舞えば、勝手に嫌われる。疑心暗鬼が更に感情を奪っていく。
「絶対行きます。未熟で足りない部分がたくさんあったと思います。それなのにこんな私の話を聞いてくれて、本当にありがとうございました」
まっすぐな視線を店長へ向けた。私は泣いてはいけない。言い聞かせた。
バックヤードをゆっくり出ると、今度は事務所へ向かった。担当した店舗は、いいお店だったと思える。店長に言った通り、未熟でうまく対応を出来たとは思えないことも多い。これからやりたいことなんて、いくつもあった。
ノックをして、事務所の扉を開く。オーナーは古い椅子にいつも通り座って発注をしている。
「おはようございます」
「なんだ、もう来ないかと思った」
視線を変えずに静かに話す。歴代の経営相談員が苦戦するお店と引継ぎを受けた。確かに、このオーナーは気難しい。
「最後に商品のディスプレイが気になったもので」
「余計なものをあいつに教えるから、売場がうるさくて仕方ない」
迷惑そうに眉間に皺を寄せる。どんな提案をしても、こうやって文句しか言わない。何度も喧嘩もして、時には怒鳴られて追い出されたこともある。
しかし、このオーナーだけは私を甘やかさなかった。
「商品の販売数が伸びているのだから、結果としてはよかったはずですが」
「生意気な言い回しを覚えやがって」
甘やかされると言っておきながら、私の心の奥にはどうせ強い事なんて言われないという慢心があった。少し抜けていても、許してもらえるという甘え。それを見抜いたのは、あの先輩の他にはこのオーナーだけだった。
やる気がないなら、出て行ってくれ。
何度も言われたセリフ。嫌な気持ちが無かったわけではないが、提案を持っていく前に甘えや綻びがあったものをことごとく指摘された。泣きながら運転して家に帰った日なんて数え切れず、何時間も悩みながら資料を作り直して寝落ちした日もあった。
「最後まで生意気ですみませんね」
遠慮なく吐き捨てて、勝手に目の前の椅子に腰を下ろした。
何度もくじけそうになった日に、このお店では自分を演じるのをやめた。はっきりと物を言った日に、オーナーが提案を受け入れてくれたのが鮮明な記憶に刻まれている。
それ以来、こうやって自分の気持ちをはっきりと発言することにした。その後も追い出される機会はあったが、こちらも気持ちは楽になった。
「まあ、それも今日までか」
「はい・・・」
発注を決める際のボタンを押すピッピッという音を聞きながら、オーナーに視線を置いた。疲れた白髪頭を掻きながら、画面から目を離さない。
「あの・・・ありがとうございました」
他のお店ではすらすらと出てきた言葉がなぜか詰まる。一番いやな相手のはずなのに、このお店から離れてしまうのを残念に思う自分がいる。それが原因なのか、うまい言葉が出ない。
もしかしたら、それが本来の感情なのかもしれない。
いい言葉を探して、各店舗で言葉を並べた。泣いてくれる従業員もいて、感情が動かなかったわけではない。でも、その中に正しい姿を演じようとする『中塚翼』がいたのは事実だ。みんなの描く私を演じないといけない。そこに本心を考えることはなかった。
「もう満足か」
目を合わせないが、突き放すわけではない落ち着いた口調。私は目を切った。
「わかっていますよね。意地悪ですよ」
発注の音はやまない。あくまでもいつも通り。作業をしながら私の話を聞いているのかいないのか。そんなやり取りでここまでやってきた。
「いや、わからんね」
「本当に嫌な人・・・」
このタイミングでのぶっきらぼうな突き放しに我慢は限界だった。
「満足なんてできませんよね。一緒にこれからも取り組みたかったのに」
上を向いたまま答えた。ボロボロと、涙がこぼれてくる。店で泣いたのは初めての経験。あざといと思われたくない気持ちから、絶対に泣かないようにしていた。
「・・・」
オーナーは私の言葉に答えなかった。勝手な気持ちの押し付けで構わない。ここでは私は自分の意思で働いてきたのだから、相手が違っていても問題はない。
「みんなからはおめでとうと言われています。そうですよね。希望者も多い部門での仕事を頂いたので、感謝だってしなければならないのもわかっています。でも・・・」
はっきりと言葉は出るものの、涙が止まらない。一番泣きたくないお店だった。全力でぶつかった店で、弱い自分をさらけ出すのは違う。
「泣きたくなかったなあ。もう行きます。お邪魔しました」
砕けた話し方で、私は立ち上がった。出ていけと言われたくなかったので、先に切り出す。最後に台無しにしてしまった。こんな羽目になるのであれば、車の引継ぎを伸ばさなければなかった。
「おい」
今日初めて、オーナーが私を見た。少し目が腫れている。
「見ないでください。メイクも崩れていますので」
「うるさい。これ、持っていけ」
机に置かれた紙袋を指さした。
「ありがとうございます」
「餞別だ。うちの店長や従業員の意識を変えておきながら、勝手にいなくなる。だから、経営相談員なんて信じたくなかった」
担当したばかりに言われた言葉。結局私も同じだったか。
「すみません。あの、これ開けていいですか」
わざと話を逸らしてみた。ここまでくると、変に謝って暗いまま終わりたくない。
「家で開けてくれ」
「わかりました」
紙袋を受け取ると、もう一度頭を下げた。
「中途半端だったのは認めます。でも、一度区切りですから」
オーナーは表情を変えず、私をしっかりと見ていた。
「ただ、あんたのおかげでもう少しは商売を続ける気になった」
ありがとうは言わなくていい。この言葉で充分だ。
もうやめる。お前で最後だ。
担当した初日にここで吐き捨てられた言葉が蘇る。ここでは前を向いた。
「じゃあ、お酒を飲み過ぎないようになさってください。店長も心配していますから」
「なんだよ、せっかくの言葉に生意気な言い方しやがって」
「お互い様です」
私は足を踏み出した。
「では、お時間頂きありがとうございました。またよろしくお願い致します」
最後とは言いたくないので、いつもの挨拶で締めた。こんな会話をしたのだから、今日を最後とはしたくなかった。しかし、次に来るときには私はこの店舗の経営相談員ではない。寂しさを消すことはできなかったので、オーナーの顔は見られなかった。
働いている従業員と店長に最後の挨拶をすると、お店を出てきた。紙袋を揺らしながらも、ゆっくりとした歩調で車まで進んだ。
会社貸与のスマートフォンを出すと、後輩の相談員に電話を掛ける。彼女は大学からの後輩で、入社を誘ったのは私だった。
大学の野球サークルで同じマネージャーをしていたが、常に周りに気を配り、私の気持ちを察してくれる貴重な存在だった。私はいつも一緒にいたかったのに、随分距離を取られて困ったものだ。
「中西です」
「電話大丈夫」
「はい」
後輩なので、もう少し甘えるくらいでもいいが、会社の後輩としてしか電話に出ない。
「すべての引継ぎが終わったので、電話しただけ」
「そうですか。お疲れさまです」
パソコンで報告書を作成している時間なので、いつもこうやって片手間で話をしてくる。礼儀正しいのか、失礼なのかわからない。ただ、今はオーナーに涙腺をやられたので、気晴らしにはちょうどいい。
「こうやって相談員同士でかける電話も、これが最後かな」
「そうですね」
淡々とした回答もいつも通り。最後なのだから、少しは寂しがる様子を見せてもいい気がする。
「忙しかったかな。かけ直そうか」
「いえ」
タイピング音が止まった。
「中塚さん、残念でしたね」
「どういうこと」
「話せていなかったですが、随分担当店舗と取り組みを進めていた所でしたので、残念に思っているのかと予想したまでです。違いましたか」
「うーん・・・」
誰も言わなかった言葉に、回答できずにいた。皆が皆、私の異動を栄転と言って喜んでくれた。
「中塚さんがやりたかったのは経営相談員と思っていたので、間違っていたらすみませんでした」
淡々とした態度は、故意的なものだったか。
「まあ、嫌なことも多かったけどね」
「私も同じくです。嫌なことだらけで、辞めたくなるような出来事だらけです。でも、こうやって話した後はまた頑張ろうかなって思えるのは、中塚さんが同じ気持ちだからなのかなって。ぶつかって、また考えて、失敗しての繰り返し。泥臭いですが、中塚さんのやりたいことって、本当はそっちじゃないですか」
愚痴を吐くような電話をしながらも、最後はお互い頑張ろうと言って締めていた。それが、彼女を支えていたのか。
「うん・・・本当は悔しい。もっと、ここにいたかった・・・」
「素直じゃないですね。これからも泥臭くいればいいじゃないですか。私は少なくとも、その方が好きですよ」
馬鹿な後輩。気分転換に電話したのだから、気軽な話にしてくれればいいのに。
「・・・うるさい。もう切るね。いつものお店で最後のラーメン食べて帰るから」
「最後ですか。一緒に行く約束を忘れていないですよね。今度連れて行ってくださいね」
からかってきているな。途中で電話を切った。もういい。また後で掛ける。
エンジンをかけて、しばらく車を走らせる。涙が止まらないが、視界は確保できているので問題はない。でも、涙が止まらなかった。
なんだろう。隠している私の本音をさらけ出してしまった気分だ。悔しかった自分が顔を出したせいか、涙が止まらない。
最後に向かうラーメン屋は、仲良くしてもらった先輩ときた思い出の場所だった。悩んでいる時に相談をためらっていた私を無理やり連れだしてくれた。
他の人間がイメージする中塚よりも、私はそうやって失敗しながらも必死な中塚が好きだな。
大盛で注文したラーメンをすすりながら、いつも先輩は笑ってくれた。いつしか距離が生まれて、話せないまま先輩はいなくなってしまった。もっと私が先輩を欲している話ができていれば。思ったところで失ったものは帰って来ない。ぽっかりと空いた穴は一生消える事なんてないだろう。
悩んだ時も大きな仕事をこなした時も、いつも誘ってくれて食べるラーメンが好きだった。それに、先輩との時間も好きだった。
願いが叶うのであれば、もう一度だけ、もう一度だけでいいからラーメンを食べに行けないかな。その時には感謝を伝えて、素直に甘えられなかった私の本心を詫びたかった。
結局ここでは私は私の好きな『中塚翼』でいられたのだ。泥にまみれても、一緒に笑ってくれる後輩がいて、理解してくれる先輩がいた。そして、そんな私を受け入れてくれたオーナーがいた。
駐車場に車を停めると、両手で顔を覆った。嗚咽が漏れて、そのまま大きな声で泣いた。悔しいのか、名残惜しいのか。
いや違う。この日々が掛け替えの無かったものだったからだ。小さな頃に閉じ込めた本当になりたかった自分がここにはいた。日々に忙殺されて、不本意な別れを経験して逸らしていた事実をやっと認識したのだ。
甘ったれんな、中塚翼。私を決めるのは、私なのだよ。
しばらく泣いて、落ち着いたらメイクを直した。目は腫れてしまったが、ラーメンは食べていきたい。
充実していたかなんてわからない。でも、いつかはもう少し笑って話せる日が来る気がする。そして、それはみんなに対して感謝を伝えるような自分になっていたいと強く願っている。
新しい部署は、決してつまらない場所ではない。私の気持ちが燃えていれば、どの場所でもこうやって壁にぶつかりながら邁進していけるのだから。
これからは、みんなの手を借りずに本当の私でぶつかっていこう。
車を出ると、背中を押すように強い風が吹いた。そろそろ、この近くの並木道は満開かな。この風が静かに私の経営相談員生活の終わりを告げてくれたようで、私は微笑みながらお店へ足を進めた。




