悪役令嬢になったのは、ずっと受け入れていたから
大広間の空気は、妙に乾いていた。
磨き上げられた石床は燭台の火を冷たく跳ね返し、壁一面を飾る織物は豊穣と武勲の歴史を誇るはずなのに、今この場に満ちているのは華やぎではなく、誰かひとりを切り離すために整えられた静かな悪意だった。
高い天井から吊るされた銀の燭台が、わずかな風もないはずの空間で揺れる。火が震えるたび、広間に集まった貴族たちの顔が、明るくなったり暗くなったりを繰り返した。
好奇の色を隠さない者。
気まずそうに目を伏せる者。
誰かの破滅を見ることで、自分ではないことに安堵している者。
そして、王家の前で安全な側に立っていると信じている者。
そのすべての視線の中心に、マリアベルデ・クランツェルは立っていた。
淡い灰青のドレスは、本来なら彼女の白い肌と落ち着いた美貌を引き立てるはずの色だった。だが今夜は、ひどく場違いなものに思えた。場に合わせて選んだ装いではない。ここへ呼ばれた時点では、まさかこのような場になるとは、最後までは告げられていなかったからだ。
背筋は伸びている。
顎も落ちていない。
指先は手袋の中で冷え切っているのに、震えだけは見せていなかった。
立っているだけで注目を集める体つきだった。二十歳という若さにしては完成された女の線があり、長身ではないがすらりとした肢体に、豊かな胸元がどうしても視線を引く。本人の意思に関係なく、人に見られやすい身体だった。そこに伯爵令嬢としての品のある所作が加わるせいで、なおさら厄介だった。
守られるべき女に見える時もあれば、男の勝手な欲を刺激する女に見える時もある。
そして王都の男たちは、都合よく後者だけを選び取った。
正面には第一王子アルニードが立っていた。
整った顔立ち。節度を失わぬ物腰。濃い金髪は乱れなく撫でつけられ、立ち姿には隙がない。誰が見ても「王族らしい」と思う男だった。穏やかで、理性的で、公正そうに見える。少なくとも、表向きは。
その半歩後ろに第二王子セオバルがいる。
アルニードより少し柔らかい顔立ちで、感情がにじみやすい目をしていた。彼はいつもそうだった。傷ついているように見せるのが上手い。自分が誰かを追い詰めている時でさえ、なぜか自分の方が苦しんでいるような顔をする男だった。
さらにその横には第三王子ユドリック。
口元には薄く笑みが浮かんでいる。軽い男だった。だがただ軽いだけではない。自分が何をしても許されると、骨の髄まで信じている者だけが持つ無遠慮さが、その笑みにあった。
そして、一段高い位置には王フェルモンド。
玉座には座っていない。
それでも、彼がそこに立っているだけで、この場が王権の許容のもとにあることは明らかだった。
王妃ベアトリクスもいる。
姉王女クラウディアもいる。
侯爵、公爵、伯爵、女官長、侍従長、聖堂関係者。
逃げ場のない場だった。
マリアベルデは、自分がどこにも逃げられないことを知っていた。
けれど、逃げる気もなかった。
もう遅いからだ。
逃げたところで、何も守れない。
領地も、家も、あの子も。
「マリアベルデ・クランツェル伯爵令嬢」
アルニードの声は、よく通った。
高すぎも低すぎもしない、聞き取りやすい声。人を安心させる種類の声だった。こういう場においてさえ、その声はあくまで冷静で、私情ではなく秩序のために話しているように聞こえるよう作られていた。
「そなたには、いくつもの疑義が向けられている」
広間の奥で誰かが息を呑む。
マリアベルデは瞬きひとつしなかった。
「災害に苦しむ領地を理由に王都へ度重なる出入りを行いながら、その実、王家との関係を笠に着て他家へ圧をかけ、不当な便宜を求めたこと」 「複数の王族へ過度に近づき、節度を欠く振る舞いを繰り返したこと」 「社交界において他家の令嬢へ害意ある言動を行い、混乱を招いたこと」 「そして何より、王家への忠誠と領地救済を口実に、情と身体を利用して私欲を満たしたこと」
最後の一文だけ、わずかに間が置かれた。
それが何を意味するかくらい、ここにいる誰もが理解していた。
ざわめきが広がる。
だがそのざわめきは、まだ大きくはならない。
誰もが王家の出方を見ている。
マリアベルデは、その音を聞きながら思う。
綺麗に整えたものだ、と。
彼らは最初からこうするつもりだったのだろう。
ただの痴話のもつれではない。
王子と令嬢の私的な問題でもない。
「王家の名誉と秩序を乱した悪役令嬢」という、もっとも聞こえのいい形に仕立て上げて、自分ひとりに泥を集中させる。
ずいぶん丁寧なことだ。
ずいぶん時間をかけたことだ。
もっと早く切られるかと思っていた。
むしろここまで引き延ばされたのは、彼らにとってまだ利用価値が残っていたからなのだろう。
「弁明はあるか」
アルニードは言った。
その問いには、形だけの寛大さがあった。
王族は弁明の機会を与えた。
それでもなお本人に潔白を立てる術がなかった。
そういう筋書きを完成させるための問いだった。
マリアベルデは口を開かなかった。
今ここで慌てて否定しても、見苦しい。
泣いても、都合がいい。
怒鳴っても、「感情的な女」で終わる。
だから黙っていた。
その沈黙を、彼らがどう解釈するかも分かっていた。
怯え。
罪悪感。
観念。
どうとでも取るだろう。
それでもまだ、黙っていた。
沈黙が広間いっぱいに満ちていく。
ユドリックが鼻で笑った。
「何とか言ったらどうだ。いつもはもっと上手く立ち回っていたくせに」
その軽い声音に、あちこちで視線が揺れた。
親しさの匂いがある。
それだけで、王子とこの女の間に何かあったのだろうと、勝手に思わせるには十分な言い方だった。
マリアベルデはそこで、ようやく息を吐いた。
細く、長く。
そして、顔を上げた。
「……演技すら見分けられないくせに」
小さな声だった。
それでも、不思議なほどはっきりと広間の隅まで届いた。
ユドリックの笑みが止まる。
セオバルが目を見開く。
アルニードの眉がわずかに寄った。
マリアベルデは彼らを見た。
泣いてはいない。
怒鳴ってもいない。
ただ、長く押し殺してきたものがあまりにも積もりすぎて、かえって静かになってしまった人間の目をしていた。
「演技すら見分けられないくせに、何を言っているのですか」
ぴしり、と場が張る。
「私が悦んでいるように見えましたか。嬉しそうに見えましたか。なら、それは見事なお目の節穴ですわね」 「あなたがたは、私を一度たりとも悦ばせたことなどございませんのに」
扇が落ちる音がした。
乾いた、細い音だった。
その音のせいで、逆に場の静けさが際立つ。
誰もすぐには動けなかった。
王族に向かって。
それも三人まとめて。
しかも、これ以上ないほどに男としての自負を切り裂く形で、そんな言葉を返すとは、想定していなかったからだ。
「……言葉を慎め、マリアベルデ」
アルニードの声音が一段低くなる。
「慎んできたではありませんか」
即答だった。
「ずっと。ずっと慎んで、黙って、受け入れてまいりました。皆様のお望みのままに」 「それで今さら私だけをふしだらだの、悪しざまだのと。よくもまあ、そのようなことを口にできますのね」
「黙れ」
ユドリックが一歩前へ出る。
軽さは消えていた。顔に出る男だ。怒りも、苛立ちも、羞恥も。
「その口を閉じろ。どこまで恥知らずなんだ」
「恥」
マリアベルデは、その語をなぞるように繰り返した。
「恥を知らないのは、どなたでしょう」
声は静かだった。
けれどその静けさが、かえって広間の者たちの神経を逆撫でする。
王が口を開く前に、マリアベルデは続けた。
「第一王子アルニード殿下。予算の裁可は春まで待てば動かせるとおっしゃいましたわね」 「第二王子セオバル殿下。教会筋にはもう話してある、君は安心してよいとおっしゃいました」 「第三王子ユドリック殿下。次の船で穀物を回してやると笑っておいででした」
ひとつずつ。
言葉を、机の上に証拠書類を並べるように置いていく。
それは愛の言葉ではない。
約束ですらない。
だが希望だけは残す、もっとも質の悪い言葉だった。
「そして陛下は」
そこで初めて、彼女は王フェルモンドを見た。
「国家には順序がある、と。伯爵領ひとつに偏るわけにはいかぬ、と。そうおっしゃいました」
フェルモンドは答えない。
答えず、ただ見下ろしている。
その無言を見つめながら、マリアベルデは口元だけでわずかに笑った。
そこには愉悦も皮肉もなく、ただ乾いた諦念だけがあった。
「ええ。その通りなのでしょう。国家には順序がありましょう。王家には事情もございましょう」 「ですが不思議ですこと」 「私がお呼ばれする順序だけは、朝も昼も夜も深夜も、ひどく滑らかに回っておりましたのに」
ざわめきが、今度ははっきりと波になる。
この言葉はもう、男女の醜聞では済まない。
王族がひとりの伯爵令嬢を昼夜問わず呼びつけていた、と彼女自身の口から公にされたのだ。
「虚言だ」
セオバルが言った。
顔色は青く、声は乾いていた。
「お前は混乱している。自分が何を言っているのか分かっていない」
「そうでしょうか」
マリアベルデは彼を見る。
セオバル。
いつだって、自分の方が傷ついているような顔をした男。
彼女しか自分を受け止められないのだと、夜更けに泣きそうな声で言った男。
その翌朝には、救護院への薬剤追加について「もう少し時間が必要だ」と優しく告げた男。
あの優しさは、何のための優しさだったのだろう。
今となっては、よく分かる。
断らせないためだ。
「混乱していたのは、私ではありませんでしたわ」
言いながら、マリアベルデは自分の両手を見る。
白い手袋の中で、指先だけが冷え切っている。
いつからだっただろう。
自分の時間が自分のものでなくなったのは。
いつから、領地救済の相談と男たちの気まぐれな欲が、同じ導線で彼女のもとへ届くようになったのは。
最初はこんなふうではなかった。
最初はまだ、王都には制度があると信じていた。
正しく陳情し、数字を揃え、必要を訴えれば、助けが来るのだと。
そう信じていた頃のことを、彼女は思い出す。
冷たい雨の朝だった。
クランツェル伯爵領を出る日、空は朝から重く垂れ込めていた。石畳に落ちる雨は細かく見えて、衣服に染みるとひどく冷たかった。春先だというのに空気は冬の名残を引きずっていて、地面の湿り気は不吉なほど濃い色をしていた。
領地は、ひどい有様だった。
秋の長雨で川が膨らみ、堤の一部が崩れた。冬前に応急処置はしたが、雪解け水に耐えられる保証はない。倉のひとつは床下から湿気を食い、穀物の一部は売り物にならなくなった。流された畑では春の播種が怪しく、村では咳と熱が長引く者が増えていた。
飢えが一気に来ているわけではない。
死人が何十も出たわけでもない。
だからこそ厄介だった。
いますぐ国を挙げて救済せねばならぬほどの大惨事ではない。
だが放っておけば、確実に人が削られていく。
そういう種類の災害だった。
出立の朝、父アルドリヒは執務椅子に座っていた。
立てないわけではない。
だが立ち続けるには体力が足りない。話している途中で咳が出るたび、胸元を押さえる癖がついていた。伯爵としての責任感は強い。弱音を吐く人でもなかった。だが災害対応が始まってからの数か月で、その身体が少しずつもたなくなっていることは誰の目にも明らかだった。
「本来なら私が行くべきだ」
低い声だった。
悔しさと自責を飲み込んだ声だった。
マリアベルデは首を振る。
「お父様が今無理をなさって、倒れられたら終わりです」 「王都に留まり続けて折衝するには、今のお身体ではもちません」
「しかし」
「私が参ります」
即答だった。
そうするしかないと、もう決めていた。
アルドリヒは唇を引き結び、何も言えなくなる。
その目にあるのは、娘を頼るしかない情けなさではなく、娘に頼らねばならない現実への悔しさだった。そこが余計に、マリアベルデには痛かった。
母ヘレーヌは、その隣で両手をきつく重ねていた。
細く白い指。少し力を入れるだけですぐに血の気が引く。昔から、強くものを言う人ではない。優しい人だった。家族の痛みには人一倍敏い。けれど、王都や上位貴族といった“大きなもの”に向かって押し返す胆力は持てなかった。
「無理をしないで」
ヘレーヌが言ったのは、それだけだった。
無理をしないで。
その言葉がどれほど無力であるかを、ヘレーヌ自身が一番分かっていたろう。
マリアベルデが行かなければならないことも。
アルドリヒには王都で戦い続ける体力がないことも。
まだ十二歳のイシュレイに、この家の泥を背負わせるには早すぎることも。
分かっていて、それでも他の言葉が出なかったのだ。
「ええ」
マリアベルデは微笑んだ。
「必要なものをきちんと揃えて戻ります」
その時点では、まだ本気でそう思っていた。
王都には制度がある。
国庫がある。
備蓄がある。
救済のための手続きがある。
伯爵家としての筋を通し、被害を数字で示し、必要を訴えれば、必ず何かは動く。
そう信じていた。
玄関には弟イシュレイがいた。
まだ幼さの残る顔立ちだった。けれど背だけは伸び始めていて、少年から青年への途中にある、不安定な時期の輪郭をしていた。制服の肩はまだ少し大きい。だが目だけは真っ直ぐだった。
「姉上」
「何?」
「……絶対に、ひとりで全部やるって顔しないで」
マリアベルデは少しだけ目を見開いた。
十二歳。
だがもう、何も分からない子どもではなかった。
父の咳も、母の怯えも、領民の顔色も、姉が夜更けまで帳簿と陳情書に向かう姿も、全部見ている年頃だった。
「大丈夫よ」
そう言って、彼の髪に触れる。
「あなたが大きくなるまでの少しの間だけ、私が持つだけ」
イシュレイは唇を噛み、何も言わなかった。
王都は晴れていた。
領地の曇りが嘘のように、城の白壁は乾いた光を返し、門前を行き交う馬車の列には余裕があった。市場には果物の香りがあり、焼き菓子の匂いが漂い、どこにも湿った土砂の色はない。
その明るさが、マリアベルデにはひどく遠いものに思えた。
最初の陳情は正式なものだった。
被害規模。
損壊箇所。
備蓄残量。
病人の増加。
必要石材。
必要人員。
医師、薬師、食糧、税猶予。
宿舎で夜更けまで数字を見直し、誤記がないか確かめた。雨量と川幅の記録、橋梁補修の見積もり、輸送可能経路、村ごとの人口。少しでも穴があれば「甘い」と切られることを知っていたからだ。
翌朝、王城の民政局へ赴く。
待たされた。
だが、そのこと自体にはまだ腹は立たなかった。
災害対応はクランツェル伯爵領だけの問題ではない。国は広い。案件は多い。そういう理屈は理解していた。
アルニードが最初に声をかけてきたのは、その数日後だった。
「やはり君だったか」
回廊を歩いていると、角の向こうから彼が現れた。秘書官と護衛を伴っていたが、歩み寄る声だけは柔らかかった。
「ご無沙汰しております、アルニード殿下」
「堅いな。昔からそうだ」
そう言って、彼はマリアベルデの手元の書類に目を落とした。
「領地の件だろう。報告は受けている。……大変だったな」
その一言に、喉が詰まりかけたのを今も覚えている。
大変だったな。
ただそれだけだった。
だが、領民の死を数字でしか扱われない日が続いていた彼女には、それがあまりにもまっとうな言葉に聞こえた。
堤の補修に向かった若い男がひとり流された。
熱で幼子も死んだ。
薬師が足りず、夜を越せなかった者もいる。
それに対して、はじめて「大変だった」と言った人間だった。
「予算の裁可には段取りがある」
アルニードは低く言った。
「すぐに全額を動かすことは難しい。だが春まで待てば、回せるものがある」 「今日の夕刻、少し時間を取れないか。詳しく聞こう」
あの時は、本気で安堵した。
ようやく話が通る相手がいたのだと。
夕刻の面会は、最初は本当に領地の話から始まった。
損壊した堤の位置。
雪解け水が来る前の補強。
播種に間に合わせるための人手。
石材輸送の優先順位。
農具再調達の必要数。
アルニードは理解が速かった。数字も覚える。問いも的確だった。だからこそ、安心してしまった。自分の訴えを、ようやく正面から聞いてくれる人間がいるのだと。
話が一段落したころだった。
「……昔より痩せたな」
ふいにそう言われた。
書類ではなく、自分を見ている視線に気づいて、マリアベルデはわずかに身を固くした。
「領地があの有様ですので」
「そうだろうな」
アルニードは優しく笑った。
「君は何でもひとりで抱え込みすぎる」 「少しくらい、肩の力を抜いてもいい」
その声音が、あまりにも穏やかだった。
それが何を意味するのか、この時点でどこまで理解していたのか、今となってはもう分からない。ただ、早く立ち去らねばと本能が告げていたことだけは覚えている。
だが、あの夜はまだ、そこまでだった。
セオバルは違った。
彼は最初から、自分の弱さを使った。
「君しかいないんだ」
それが最初の言葉だった。
回廊の柱影。王妃宮に近い、人の目が少し切れる場所。彼は困ったように微笑み、兄との意見の食い違い、教会との調整、誰も自分を分かってくれない苦しさを、彼女にだけ零した。
気づけば、領地の陳情よりも先に彼の機嫌を損ねない言葉を選んでいる自分がいた。
ユドリックはもっと分かりやすかった。
「そんな難しい顔するなよ。救済だの予算だの、年寄りくさい話ばっかりしてると綺麗な顔が台無しだ」
廊下で腕を取られ、マリアベルデは振り払った。
ユドリックは笑っただけだった。
「怒るなって。俺にも手伝えることはあるんだぜ」
あるいは本当に、いくつかはあったのかもしれない。輸送順の調整。騎士団の仮派遣。船便の優先。だがそれらはいつも、手が届きそうで届かない距離にぶら下がっていた。
フェルモンド王だけは、もっと静かだった。
彼には口説き文句すら要らなかった。
王であるというだけで、十分だった。
アルニードが何かを言いかける。
けれどマリアベルデの方が早かった。
「あの夜、殿下はおっしゃいましたわね」 「春まで待てば回せるものがある、と」 「私の尽力は理解している、と」 「そして少し疲れた顔をしているから、肩の力を抜け、と」
ひとつひとつ、正確に置いていく。
記憶の再現ではない。
朗読に近かった。
言葉を覚えているというより、体に刻みつけられているような口調だった。
「ええ、救済の話から始まりました」 「堤の補修、春の播種、石材の輸送、病人の増加、備蓄の残り。殿下はどれも理解が早くていらした」 「ですから、私は安心しかけたのです」 「ようやく、話が通る方がいたのだと」
そこで一度、声を切る。
自分でも分かる。
あの夜のことを思い出すたび、まだわずかに胸の奥が冷える。
怒りではない。
もっと手前にある感覚だ。
自分がどこで間違えたのか、今となっては分かりすぎるほど分かるからこそ、かえって冷える。
「ですが、話が終わりかけたころでした」 「殿下は書類ではなく、私をご覧になった」 「痩せたな、と」 「ひとりで抱え込みすぎる、と」 「少しくらい、私を頼れ、と」
アルニードの頬が、わずかに強張る。
マリアベルデはその変化を見ていた。
この男はいつもそうだった。
露骨な欲ではなく、理解者の顔で境界を越えてくる。
「私は立ち上がって礼を申し上げました」 「お心遣い、恐れ入ります、と」 「それで失礼しようとしたのです」 「ですが殿下は、私が出ていく前におっしゃいました」 『今夜はもう少し、ここにいろ』 『ひどく張りつめている』 『安心してもいい』
ざわり、と広間が鳴る。
王族の私室で。
夜更け近く。
伯爵令嬢にそんな言葉を向けた。
それだけでもう、ただの公的な折衝ではないことくらい誰にでも分かる。
「私は、お断りしましたわ」 「明日も民政局へ出向かねばなりませんし、領地への返書もまとめなければならない、と」 「そうしましたら殿下は、お笑いになって」 『そこまで急いでも、役所は夜のうちには動かない』 『だが私の判断ひとつで、明日の机の上に置かれる順番は変わる』 「そのように」
アルニードが低く言う。
「言葉を選べ、マリアベルデ」
「選んでおりますわ、殿下」 「選ばなかった時など、ほとんどございませんもの」
静かな返しだった。
その言葉に、広間の者たちは初めて少しだけ気づく。
この女はずっと、言葉を選び続けてきたのだと。
黙るために。
怒らせないために。
救済の可能性を切らさないために。
「私はその夜、結局すぐには出られませんでした」 「肩に触れられましたから」
誰かが息を呑む。
「強くではありません」 「乱暴でもありませんでした」 「だからこそ、余計に悪いのです」 「乱暴なら、まだ怒れたでしょうに」 「優しく触れられると、それが慈悲か何かであるように錯覚しそうになりますもの」
アルニードは何も言わない。
言えないのだろう。
それは自分の“美徳”だったからだ。
乱暴にしないこと。
丁寧に扱うこと。
相手に拒めないまま、拒んでいないように見せること。
「その夜、私は最後まで殿下に申し上げました」 「領地のことをお忘れなきように、と」 「堤がもちません、と」 「熱病が広がっております、と」 「すると殿下は、私の髪に触れながらおっしゃいました」 『分かっている。だからこうして私が見ている』 『婚約者とは義務だが、お前は安らぎだ』 『少しくらい、私のためにも柔らかくなれ』
場の空気がさらに重くなる。
婚約者とは義務。
お前は安らぎ。
それは、責任を負わずに特別扱いだけはするという、もっとも卑怯な言い方だった。
マリアベルデはそこで、目を伏せなかった。
「その翌週、石材搬入の許可は下りました」 「半分だけ」 「春を越すには足りない量で」 「それでも私は、殿下が本当に動かしてくださったのだと思おうとしました」
思おうとした。
その言い方が、自分でも滑稽だと思う。
思うしかなかったのだ。
そうでなければ、自分が何を受け入れたのか、分からなくなるから。
「セオバル殿下は、もっとお優しゅうございました」
その言い方に、セオバルの肩が跳ねる。
「お優しい方でしたわ」 「いつだって苦しそうなお顔をなさった」 「私しか分からない、と」 「君だけが、私が王家の中でどれほど息苦しいか理解してくれる、と」 「泣きそうなお声で」
「やめろ……」
セオバルが掠れた声を出す。
その声色すら、どこか被害者めいていることに、マリアベルデは一瞬だけ吐き気を覚えた。
「なぜです?」 「違いましたか?」 「王妃宮に近い回廊で、夜の鐘が二つ鳴る前でしたわね」 「教会との調整が進まない。兄上は分かってくださらない。王太子でない私には力が足りない。だけど、君だけが、君だけが私を受け止めてくれる、と」
セオバルは俯いている。
だがマリアベルデは止まらない。
「最初は本当に相談だと思いました」 「王家にも苦しい立場があるのだと」 「私の領地だけが苦しいのではないのだと」 「けれど、違いました」
違った。
はじめは愚痴だった。
次に手を握られた。
次に肩を抱かれた。
次に、泣きそうな声で額を寄せられた。
そのたびに彼は言うのだ。
自分は追い詰められている。
君しかいない。
あと少し支えてくれ。
教会には話してある。
救護院には手を回している。
もう少しで薬師も出せる。
「私は申し上げました」 「村の熱が引かないのです、と」 「子どもが先に死んでしまう、と」 「どうか薬だけでも先に、と」 「そうしましたら殿下は、私の手を胸に押し当てて」 『こんな時まで、君は領地のことしか見ていないのか』 『少しは私の苦しさも見てくれ』 「そのように」
その言葉を聞いた夜、自分は何を思っただろう。
ひどく疲れていた。
宿舎に戻っても書類が待っている。
返事を待つ領地からの書簡もある。
それでも目の前の男が、王族で、教会に顔が利く立場で、機嫌ひとつで話の通りが変わるかもしれないと思うと、切れなかった。
「翌々日、薬は届きました」 「ですが人数に対して足りませんでした」 「子どもに使えば老人に回らず、老人に回せば子どもが夜を越えられない量でした」 「それでも私は、届いただけましだと思おうとしました」 「殿下のお心を無下にしてはならないのだと、自分に言い聞かせました」
広間の空気が変わっていく。
今までは、王族と令嬢の醜聞だった。
だが今は違う。
災害支援が、王族の私情と欲で歪められていたという話になってきている。
それが本当に危険なのは、ここにいる誰もが分かっていた。
「ユドリック殿下は、いちばん分かりやすうございました」
ユドリックが顔を上げる。
そこには怒りと羞恥が混ざっていた。
「お前……っ」
「軽くていらした」 「悪意がないようなお顔をして、境界を越えていらした」 「そんな難しい顔するな、と」 「救済だの予算だの、年寄りくさい話ばかりするな、と」 「綺麗な顔が台無しだ、と」
数人の若い貴族が顔を見合わせた。
言いそうだ、と思ったのだろう。
ユドリックなら。
「私は何度も腕を振り払いました」 「そのたび殿下は笑っておいででした」 『怒るなよ』 『俺にも手伝えることはあるんだぜ』 『次の船で穀物を回してやる』 『騎士団の仮駐留だって、話くらいは持っていける』 「そのように」
嘘ではなかった。
それが余計に悪かった。
全てが真っ赤な嘘なら、もっと早く見切れたかもしれない。
だが実際には、少しは動くのだ。
穀物は来る。
ただ足りない。
騎士団も来る。
ただ一隊だけ。
仮駐留もある。
ただ堤の全線補修には到底届かない。
希望を切らさない程度にだけ。
見捨てられたと断じるには、少し足りない程度にだけ。
「私は、殿下のお言葉を信じたかったのではありません」 「信じるしかなかったのです」 「もし次の船で穀物が来るなら」 「もし次の便で石材が増えるなら」 「もし次の裁可で税の猶予が広がるなら」 「そう思っていなければ、受け入れたものの重さに耐えられませんでしたから」
ここで初めて、広間の空気に“彼女を見ている”感触が混じった。
それまでは皆、見世物を見ていた。
だが今は違う。
ひとりの女が、自分をどうやって納得させ、どうやって折れずにいたのかを聞かされている。
「朝はアルニード殿下でした」 「昼はセオバル殿下」 「夜はユドリック殿下」 「そして深夜には、陛下の使いが参りました」
今度こそ、広間が音を立ててざわめいた。
昼夜関係なしに。
朝も昼も夜も深夜も。
マリアベルデはそれを静かに受け止める。
「私の一日は、私のものではございませんでした」 「朝には予算の話をされ」 「昼には慰めを求められ」 「夜には冗談のように境を越えられ」 「深夜には、逆らえぬ命として呼ばれました」 「理由は四つございましたけれど、断れないという一点だけは、すべて同じでございました」
フェルモンド王の眉が、わずかに動いた。
その僅かな動きが、この男にとっても、ここが触れられたくない領域なのだと示していた。
マリアベルデは、なおも続ける。
「陛下は、もっともお言葉が少のうございました」 「ですから、ある意味では最も明快でございましたわね」 「国には順序がある」 「今は全てを救えぬ」 「焦るな」 「だが、お前の忠義は見ている」 「そのようなことをおっしゃりながら」 「夜更けに寝所係を寄越されました」
場のあちこちで顔色が変わる。
王の私的な召し。
それ自体はあり得る。
だが今この場では、その“あり得る”が何を意味するか、誰もが分かってしまっていた。
「一度目は、お断りしようといたしました」 「ですが、使いの方はこうおっしゃいました」 『これは陛下のお心づくしでございます』 『伯爵領の件も含め、今後のご配慮をいただけるやもしれません』 「そのように」
マリアベルデは、一度だけ目を閉じた。
あの時の自分を、今でも軽蔑しきれない。
愚かだったとも言い切れない。
切れないほど、領地が追い詰められていた。
宿舎には領地からの書簡が届いていた。
川下の村で熱が広がっている。
備蓄麦が底をつく。
応急堤が持たないかもしれない。
イシュレイが初めて自分の名で嘆願文を村へ出した。
そんな報告が続いていた。
その夜、自分は吐きそうになりながらも行った。
行かなければ、次が切れるかもしれないと思ったからだ。
「陛下は、口説き文句などおっしゃいませんでした」 「必要がございませんものね」 「王であるという事実だけで、私に拒む余地を奪えたのですから」
その言葉は、王を刺した。
もっとも単純で、もっとも深い形で。
アルニードもセオバルもユドリックも、言葉を使った。
理解者のふり。
苦しさの共有。
軽い冗談。
だが王だけは違う。
王であるというだけで足りた。
そこまで言って、マリアベルデは自分の掌をそっと腹へ重ねた。
まだ大きくはない。
衣の上からでは目立たない。
だがそこにある。
「私は、何度も自分に申し聞かせました」
声は静かだった。
けれど今までで一番よく響いた。
「これで堤がもつなら、と」 「これで春を越せるなら、と」 「これで父を無理に立たせずに済むなら、と」 「これで母をこれ以上怯えさせずに済むなら、と」 「これでイシュレイに、まだ家の泥を背負わせずに済むなら、と」
弟の名を出したとき、初めて声が少しだけ揺れた。
ほんの少しだけだった。
だがそのわずかな揺れが、かえって場にいる者たちの胸を打つ。
「受け入れていたのは、快楽のためではございません」 「誇りたかったからでもございません」 「領地と領民のためです」 「家のためです」 「私が耐えれば、あちらで誰かが冬を越せるかもしれないと思ったからです」
沈黙。
その沈黙の中で、今まで“ふしだらな伯爵令嬢”として見ていた何人かの視線が、明らかに変わった。
王家の情事ではない。
災害と支援を使った搾取だ。
その認識が、ようやく場に広がり始めていた。
「……それでも」
アルニードが絞り出すように言った。
「それでも、そなたが自ら進んで応じたことには変わりあるまい」
マリアベルデは彼を見る。
ああ、この男は最後までそこに逃げるのだと思った。
自分は強制していない。
相手が応じた。
拒めたはずだ。
そういう場所に。
「ええ」
彼女はうなずいた。
「私は応じました」 「拒みきれませんでした」 「拒めば、どの支援が止まるか分からなかったからです」 「今日の機嫌を損ねれば、明日の裁可が消えるかもしれなかったからです」 「それが強制でないとおっしゃるのなら」 「では、殿下方のお考えでは、強制とはいったいどこからを指すのでしょうね」
アルニードが言葉を失う。
セオバルは顔を覆い、ユドリックは拳を震わせている。
フェルモンド王だけがまだ立っていた。
だがその沈黙は、すでに王の余裕ではなくなりつつあった。
「私は覚えております」
そう言って、彼女はゆっくりと視線を巡らせた。
「朝の呼び出しも」 「昼の泣き言も」 「夜の冗談も」 「深夜の命も」 「そのあと、何が届いて」 「何が届かず」 「何が遅れ」 「誰が死んだかも」
その一文が落ちた瞬間、空気が変わった。
死んだかも。
この女は今、ただ自分が弄ばれたと言っているのではない。
王家の遅れと欲によって、救えたはずの命が削られたと言っているのだ。
「第一王子殿下にお会いした翌週、石材搬入の許可は半分だけ下りました」 「第二王子殿下が教会筋へ話を通したとおっしゃった三日後、薬は届きましたが足りませんでした」 「第三王子殿下が次の船で回してやると笑ったあと、穀物は一部だけ届きました」 「陛下が忠義を見ているとおっしゃった翌月、特例融資は裁可されましたが、時期が遅すぎました」 「皆様、それぞれに少しずつお与えになった」 「見捨ててはいないと思わせる程度にだけ」 「ですが、それでは間に合いませんでした」
ここで、マリアベルデは初めて深く息を吸う。
「幼い子がひとり、熱で死にました」 「堤の補修に入った若い男がひとり、流されました」 「老人がふたり、冬の終わりを越えられませんでした」 「全部が王家のせいだとは申しません」 「雨のせいもありましょう」 「備蓄不足もありましょう」 「地方の力の足りなさもありましょう」 「ですが、救えるはずの分があったことだけは、否定なさらないでいただきたい」
大広間には、もう軽口も野次もなかった。
誰もが分かっている。
ここまで来ると、ただの感情論では押し切れない。
数字がある。
順序がある。
因果がある。
「……まだ続けますか」
マリアベルデは言った。
「それとも、ようやく私を悪役令嬢と呼ぶには、少々都合が悪くなってまいりましたか」
そうして彼女は、再び腹に手を当てる。
「……ですから」
声は低く、よく通った。
「この子の父についてだけは、殿下方には該当なさいません」
数拍の、理解の遅れがあった。
誰もすぐには言葉の意味を飲み込めない。
飲み込んだ瞬間に、この場の前提がすべて壊れると分かっているからだ。
最初に顔色を変えたのはセオバルだった。
次にアルニード。
ユドリックは一度、まるで何かの冗談を疑うように薄く笑おうとして、できなかった。
フェルモンド王だけが動かなかった。
その動かなさが、むしろ答えに見えた。
「この子は」
マリアベルデは王を見る。
「陛下の御子です」
大広間から音が消えた。
扇を持つ手も、杯に触れていた指も、衣擦れも、咳払いも、何もかもが止まった。
人が多く集まっているはずなのに、今この場には呼吸の気配さえ感じられない。
マリアベルデは、その沈黙の重さを受け止めながら続ける。
「殿下方は、皆それぞれに違うお言葉をくださいました」 「安らぎだとおっしゃる方も」 「君だけだとおっしゃる方も」 「気楽にしろと笑う方も」 「けれど陛下だけは、あまりお話しになりませんでしたわね」
王の目が、ようやく彼女に定まる。
「必要がございませんもの」 「王であるという事実だけで、私に拒む余地をお奪いになれたのですから」
「……不敬だ」
フェルモンドの声は低かった。
怒鳴ってはいない。
だがその一言には、長年この国の頂点にいた男だけが持つ重さがあった。
「そのような虚言で王家を汚すことが、何を意味するか分かっているのか」
「虚言」
マリアベルデは繰り返した。
「でしたら侍医をお呼びくださいませ」 「懐妊の時期は記録されております」 「少なくとも、第一王子殿下が北部視察に出ておられた時期」 「第二王子殿下が教会領へ逗留しておられた時期」 「第三王子殿下が南塔で謹慎を命じられていた時期」 「そのいずれとも重なりませぬことくらい、すぐにお分かりになるでしょう」
そこまで言って、彼女はひとつ息を継ぐ。
「あるいは寝所係でも、侍従長でも、深夜の入退出を記録する者でも」 「誰でもようございます」 「皆様、記録はお好きでしょう」
アルニードの顔色が変わる。
セオバルは完全に血の気を失っていた。
ユドリックは拳を握りしめたまま、今にも何か喚きそうなのに、喉が詰まって出てこないようだった。
彼らにとって、この場はマリアベルデを潰すためのものだった。
だが今や逆だった。
王家そのものの証拠を、彼女が順に置いている。
「黙りなさい」
その声は王ではなかった。
凛とした、よく通る女の声だった。
視線が一斉に動く。
王妃ベアトリクスが、一歩前へ出ていた。
金糸を織り込んだ深い紺の衣装。過剰な装飾に頼らずとも、立つだけで王妃と分かる気品。年齢を重ねた女の美しさがそこにあった。冷たくも見える顔立ちだったが、その冷たさはもともと感情の薄さではなく、王家を支えるために自分を律してきた時間の厚みから来るものだった。
その王妃が今、フェルモンドを見ていた。
「陛下ではございません」
静かな言葉だった。
だが、その静けさが何よりも強かった。
「黙るべきは、この娘ではございません」
ざわめきが、今度は抑えきれない波になる。
ベアトリクスがフェルモンドへ向かって異を唱えた。
それだけで、この場の秩序はもう元の形には戻らない。
「ベアトリクス」
フェルモンドの声音には警告があった。
夫としてではなく、王としての声だった。
だがベアトリクスは退かなかった。
「申し開きなさいますか」 「今この場で」 「この娘の口にしたことが、すべて虚言だと」
フェルモンドは答えない。
その沈黙に、ベアトリクスは一瞬だけ目を閉じた。
ほんの一瞬だけ。
だがその一瞬に、長い年月が折りたたまれているように見えた。
知っていたのだろう、とマリアベルデは思う。
全部ではないにせよ。
少なくとも、何かがおかしいことは。
王の夜の使いが、なぜあの伯爵令嬢のもとへばかり向かうのか。
なぜ王子たちの周囲で、あの娘だけが妙に痩せていくのか。
なぜ支援の時期と私的な接触の時期が、あまりにも噛み合いすぎているのか。
知っていて、止めきれなかった。
気づいていて、切れなかった。
だが今この場で、ついに切ると決めたのだ。
「クラウディア」
ベアトリクスが名を呼ぶ。
「はい、母上」
王女クラウディアが前へ出る。
すらりとした長身。王妃よりやや淡い色合いの衣装。華やかさよりも品位と機能を優先したような装いだった。顔立ちはよく整っているが、きらびやかな美貌というより、見落としのない目と、冷静な口元の線が印象に残る女だった。
彼女はマリアベルデの傍らへ迷いなく歩み寄った。
その足取りに躊躇がない。
「マリアベルデ・クランツェル伯爵令嬢」
クラウディアの声は穏やかだった。
「これより先、この場であなたに一人で立たせることはいたしません」 「あなたの身柄は、王女宮が預かります」
その一言で、場がまた震えた。
王女宮が預かる。
それは単なる保護ではない。
王家の中の一勢力が、この娘を“守るべき側”に置いたという意味だ。
「王女殿下」
アルニードがようやく声を取り戻す。
「そのような性急な判断は――」
「性急」
クラウディアが彼を見た。
「性急ですか」 「昼も夜もなく一人の伯爵令嬢を呼びつけ、災害支援を私的な都合と絡めておきながら」 「今さら何をもって、性急と呼ぶのです」
アルニードが黙る。
彼は理性的な男だった。
少なくとも自分ではそう思っていた。
だが理性とは、都合よく相手を追い詰めるための言葉を整えることではない。
そのことを、クラウディアの一言は容赦なく暴いていた。
「ユドリック」
ベアトリクスが三男を見る。
ユドリックは肩をびくりと揺らした。
「この場で、まだ何かございますか」 「己が何をしたか、分かっておいでですか」
「俺は……っ」
ユドリックの顔が歪む。
「俺だけじゃないだろう! 兄上たちだって、陛下だって――」
「黙りなさい」
ベアトリクスの声が、初めて鋭くなった。
広間中の者が背を震わせるほどの、静かな怒気だった。
「そうです」 「お前だけではありません」 「だからこそ今、私は王家そのものを裁くのです」
その言葉が落ちた瞬間、誰も息をしなかった。
王妃が、王家を裁くと言った。
もう後戻りはない。
監査は三日で終わらなかった。
終わるはずがなかった。夜間入退出の記録、侍医の控え、民政局の裁可文書、教会支給の遅延記録、輸送順変更の書簡控え。ひとつなら言い逃れもできたろう。だが数が揃い、時期が噛み合い、同じ名の周囲に同じ歪みが集まりすぎていた。
再び開かれたのは、夜会のような華やかな大広間ではなかった。王城内の裁定の間。装飾を抑えた石造りの部屋で、長卓の上には綴じられた記録束がいくつも積まれていた。
そこに座る顔ぶれは前回より少ない。けれど軽くはなかった。ベアトリクス、クラウディア、財務長官、民政局長、聖堂監督官、侍従長、侍医頭。そして離宮から連れ出されたフェルモンドと、三王子。
マリアベルデはその場にはいなかった。立ち会わせないと決めたのはクラウディアだった。
「本人にこれ以上、自分を証拠のように扱わせる必要はありません」
その一言で、すべてが決まった。
裁定の間は冷えていた。外は曇りで、窓から入る光も鈍い。
最初に口を開いたのはアルニードだった。
「私は何度も申し上げますが、乱暴なことはしておりません」 「脅しもしていない」 「彼女は自ら応じていた」
その声はまだ整っていた。少し青ざめてはいたが、言葉を選ぶ癖は最後まで消えないらしい。
クラウディアが書類を一枚開く。
「民政局補助裁可台帳、三月二日。クランツェル領の補修石材申請、保留」 「翌三月三日夜、あなたの私室への入室記録」 「三月四日朝、同案件を半量で通達」 「次です」
また一枚。
「四月十日、追加申請。保留」 「四月十日夜、再度の入室記録」 「四月十一日、半量承認」 「三度目もございますが、まだお読みしますか」
アルニードの喉が動く。
「それは……裁可の順と偶然重なっただけだ」
「偶然」
クラウディアは淡々と繰り返した。
「三度続いても偶然」 「あなたは便利な言葉をお持ちですね」
ベアトリクスはそのやりとりを黙って聞いていたが、そこで静かに告げた。
「お前は最後まで、己が乱暴でなかったことを盾にするのですね」 「乱暴でなければ何をしてもよいと、本気でそう思っていたのですか」
アルニードは答えられない。
次にセオバルの番が来た。
教会薬剤支給記録が並べられる。申請、保留、深夜の呼び出し、翌日の一部支給。不足量。再申請。繰り返し。侍医頭が静かな声で、薬剤量がどれほど足りなかったかを読み上げていくたび、セオバルの顔は崩れていった。
「私は彼女に頼っただけです」 「苦しかったのです」 「本当に、あの時の私は」
「ええ、苦しかったのでしょう」
ベアトリクスが言う。
「だから苦しい顔をすれば、人を使ってよいと?」
セオバルは泣きそうな顔をした。だがもう、その顔に意味はない。ここには彼の顔色を見て譲る者がいなかった。
ユドリックは最初こそ噛みついた。
「俺に実務の裁可権なんて大してない!」 「兄上たちみたいに数字を握ってたわけじゃない!」
「だから軽いと申しているのです」
クラウディアの声は冷たかった。
「大きな決裁権がないから、人を好きにしてよいと?」 「船便の優先、騎士の仮駐留、補給順変更。小さい権限であっても、切羽詰まった地方には十分に首輪になります」
そのあとで示されたのは、輸送順変更命令の控えだった。署名はユドリックのもの。備考には、私的要請につき優先、の文字。
ユドリックはその紙を見た瞬間、初めて何も言えなくなった。
そして最後に、フェルモンドだった。
王は最初からほとんど喋らなかった。だが侍従長が深夜の召し記録を読み上げ、侍医頭が懐妊時期を述べ、侍女頭が寝所係の証言を差し出したところで、ようやく低く言った。
「王には、慰撫も必要だ」
その場の空気が凍った。
ベアトリクスは、そこで初めて夫をまっすぐ見た。
「慰撫」
短く繰り返す。
「災害で崩れる領地を背負った娘を」 「まだ二十の伯爵令嬢を」 「支援の机と寝所のあいだで往復させておいて」 「あなたはそれを、慰撫と呼ぶのですね」
フェルモンドは答えない。
ベアトリクスは椅子から立った。
「十分です」
その一言で、もう裁定は終わっていた。
「フェルモンド、退位」 「アルニード、セオバル、ユドリック、継承権永久剥奪」 「異議は認めません」 「これは家の問題ではなく、統治資格の問題です」
誰も、もう反論しなかった。
その夜のうちに、フェルモンドは王城奥の離宮へ移された。名目は静養だったが、実際には監視下の隔離だった。側近の出入りは厳しく制限され、王としての裁可権は停止される。印璽もまた、ベアトリクスの管理下に置かれた。
アルニード、セオバル、ユドリックの三王子にも、それぞれ謹慎が命じられた。第一王子アルニードは王太子府の封鎖と私的文書の押収。第二王子セオバルは教会系統との接触停止。第三王子ユドリックは近衛と切り離されたうえで北塔への移監。どれも名目上は調査協力のためだったが、実態は継承者としての資格を剥がす前段階に他ならなかった。
数週にわたる監査ののち、処分は正式に確定する。
フェルモンドは退位。以後、王都近郊の離宮にて終生幽閉。同時に、王族費の大幅削減と私的側近網の解体が命じられた。
アルニードは継承権永久剥奪のうえ、南辺境の修道院附属監査院へ送られた。表向きは行政補佐の任だったが、王都へ戻ることも、二度と中央政務へ関わることも許されなかった。
セオバルは聖堂庇護下に置かれ、名目上は悔悟と奉仕のための隠棲とされた。だが実際には、教会系統の財と人脈から完全に切り離され、王族としての影響力を失ったまま一生を終えることになる。
ユドリックは最も遠く、最も華やかさのない処分を受けた。北方旧砦への移送。軍籍にも政務にも就けず、少数の監視兵とともに辺地で歳月を潰すだけの生活だった。
誰も処刑はされなかった。
だが、王としても王子としても、二度と誰かの上に立てない形で、すべてを失った。
ベアトリクスは、裁定のあとであらためてマリアベルデを訪ねた。
その目は厳しかった。
だがその厳しさは、彼女に向けられた責めではなく、自分自身への断罪を含んでいるように見えた。
「マリアベルデ・クランツェル」
王妃は名を呼ぶ。
「私は、王家の一員として、あなたに申し開きをいたしません」 「止められなかったこと」 「見抜ききれなかったこと」 「知りながら切り捨てずにいたこと」 「そのすべてが、王家の罪です」
部屋に静けさが落ちる。
「あなたが失ったものは戻りません」 「あなたが受け入れさせられた夜も、言葉も、時間も、戻りません」 「ゆえに、許しを請うつもりはありません」
そこが、マリアベルデには意外だった。
泣いて謝るのではない。
感情に逃げない。
王妃として言っている。
「ですから責任を引き受けます」 「この国が踏みにじった娘の胎に宿る子を、私は王家の罪の隠し場所にはいたしません」 「次代として守り育てます」
マリアベルデの中で、何かが切れた。
泣くつもりはなかった。
崩れるつもりもなかった。
最後まで立っているつもりだった。
だが。
「……どうして」
気づけば、声が漏れていた。
「どうして、今なのですか」
それは責めだった。
泣き言ではなく。
恨みそのものでもなく。
もっと乾いた種類の問いだった。
「どうして、最初からそれをしてくださらなかったのですか」
ベアトリクスは答えない。
答えられないのだろう。
マリアベルデは続けた。
「石材も」 「薬も」 「税の猶予も」 「人手も」 「全部、最初からできたのでしょう」 「今こうして、王妃陛下がお言葉を出されるだけで、動くのでしょう」 「でしたら」 「でしたら、私は何のために」
そこで声が詰まる。
何のために。
何のために、あの夜を。
あの朝を。
あの昼を。
あの深夜を。
耐えたのか。
耐えれば誰かが助かると思っていた。
そうでも思わなければ、あまりに無意味だった。
クラウディアが一歩進み、マリアベルデの肩に触れた。
「もう結構です」
低く、静かな声だった。
「あなたがこれ以上、この場で自分を削る必要はありません」
その言葉で、ようやくマリアベルデは自分がどれほど息を止めていたのかを知った。
肩が震える。
足元が少し揺れる。
倒れはしない。
倒れたくはなかった。
けれどもう、自分ひとりで立っている必要がないのだと体が知ってしまった。
その時だった。
アルドリヒとヘレーヌのことが頭をよぎった。
イシュレイの、あのまっすぐな目も。
もしこの場に弟がいたら、何と言っただろう。
姉上ばかりが、また全部持つのか、と怒ったかもしれない。
だから、マリアベルデは最後にひとつだけ、自分の意思で言葉を選んだ。
「……お許しするつもりはございません」
ベアトリクスを見る。
「信じることも、まだできません」 「ですが」
腹に触れたまま、続ける。
「領地と、あの子が守られるというのなら」 「それだけは、受け入れます」
受け入れる。
その言葉に、空気がまた揺れた。
今までずっと、他人に使われてきた言葉だった。
黙って受け入れろ。
この程度は受け入れろ。
家のために受け入れろ。
国のために受け入れろ。
その言葉を、初めて彼女自身が自分の意思で使い直した。
クラウディアが、ごく小さく息を吐く。
「十分です」
それだけを言って、彼女はマリアベルデの半歩前へ出た。
「以後、マリアベルデ・クランツェル伯爵令嬢への接触は、王女宮を通さぬ限り一切認めません」 「侍医を直ちに手配なさい」 「民政局には災害支援の即時再審査を命じます」 「クランツェル伯爵領へは石材、食糧、医師、薬師、工兵を至急派遣」 「冬季徴税は停止」 「特例融資は即日実行」 「現地監督官を立て、配分記録を全て残しなさい」
早い。
あまりにも早かった。
命令が具体で、迷いがない。
どの部署に何を出すか、最初から頭に入っていたような言い方だった。
その速さに、マリアベルデはむしろ息を失った。
できたのだ。
やはり最初から。
やろうと思えば。
今こうして王女が言うように、具体的に命じる意思さえあれば。
クラウディアはそれ以上、彼女に何も言わなかった。
慰めも、励ましも。
ただ必要なものを、必要な形で並べていく。
その実務の気配が、逆にマリアベルデの心を少しだけ救った。
感傷ではない。
本当に動く。
そこにしか、もう救いはなかった。
ベアトリクスが最後に告げる。
「口を慎むべきは被害者ではありません」 「王家です」
誰も反論できなかった。
流れは変わった。
断罪されるはずだった伯爵令嬢は、切り捨てられる側から守られる側へ移った。
そして王家の上に立つはずだった男たちは、裁かれる側へ落ちた。
クラウディアがマリアベルデの方を向く。
「歩けますか」
その問いが、ひどく当たり前のものに聞こえて、マリアベルデは少しだけ泣きたくなった。
「……はい」
本当は少し危うかった。
膝は軽く震えている。
けれど歩ける。
まだ歩ける。
クラウディアはうなずく。
「では行きましょう」 「もう、ここであなたを立たせておく必要はありません」
その言葉に従って、一歩踏み出したときだった。
広間の外の空気が流れ込んでくる。
夜気は少し冷たい。
けれどこの場の乾いた重さよりは、ずっとましだった。
歩きながら、マリアベルデは思う。
明日にはきっと、領地へ早馬が出る。
石材が動く。
薬も、人手も。
イシュレイのもとへ、ようやく本当の支援が届く。
父アルドリヒは、たぶん何も言えなくなるだろう。
母ヘレーヌは、泣くかもしれない。
イシュレイは怒るだろうか。
それとも黙るだろうか。
何ひとつ、戻りはしない。
けれど、ここから先は少なくとも、誰かの機嫌のためではなく、必要なものが必要なだけ届く国へ向かうのかもしれない。
そのとき初めて、腹の奥にある命を自分のものとして感じた。
王の子ではない。
王家の汚れでもない。
この国が踏みにじった末に、それでも残った命だ。
守らなければならない。
今度は、誰かに耐えさせるためではなく。
クラウディアが扉の先で立ち止まり、振り返る。
「マリアベルデ」
「はい」
「あなたはよく、ここまで立っていました」
それだけだった。
慰めではない。
哀れみでもない。
ただ事実を述べた声だった。
その事実だけが、今の彼女には必要だった。
マリアベルデは小さくうなずく。
それから、もう一度だけ大広間を振り返った。
王も。
王子たちも。
ざわめく貴族たちも。
まだそこにいた。
けれどもう、あの場は彼女を呑み込む檻ではなかった。
断罪は終わったのだ。
ただし、断罪されたのは自分ではなかった。
王女宮へ移されたその夜、マリアベルデはほとんど眠れなかった。
柔らかな寝台だった。清潔な天蓋も、灯りを落としたあとの静けさも、これまで王都であてがわれていた客用の部屋とは比べものにならぬほど整っていた。侍女は必要以上に話しかけず、侍医は腹の子と母体の安静を最優先にするとだけ告げて下がった。湯も運ばれ、温かなスープも置かれ、夜更けに追加の薬湯まで出された。
何ひとつ不足がない。
その何ひとつ不足がないという事実だけが、胸の奥を鈍く抉った。
これだけ整えられるのなら。
これだけ早く人を動かせるのなら。
あの夜会の前に、いくらでもやれたことがあったのではないか。
考えれば考えるほど、その問いは自分の中で形を変えずに残り続けた。怒りとも違う。悲しみとも違う。ただ、削り取られた時間の重みだけが、夜の静けさの中でいやにはっきりと浮かび上がっていた。
夜明け前、窓の外が白み始めたころ、控えていた侍女がそっと部屋へ入ってきた。
「失礼いたします。クラウディア殿下より、朝のご報告を先にと」
短く、手際よく告げられる。
無駄な慰めはない。そこがありがたかった。
「クランツェル伯爵領へは、夜のうちに第一便が出ております」 「石材、食糧、薬剤、工兵、医師、薬師、護衛騎士。税停止命令書と監督官任命書も同送されました」 「街道の一部は昨夜の雨でぬかるんでおりますが、遅くとも三日以内には第一陣が到着予定とのことです」
三日。
その数字に、マリアベルデは思わず指先を握りしめた。
三日で着くのだ。
王女が命じれば。
王妃が承認すれば。
これまで何度、何週間も待たされてきたものが。
悔しさは消えない。だが、その悔しさと同じだけ、胸の底に重く沈んでいた石が少しだけ動くのも分かった。領地に届く。今度こそ、ちゃんと届く。
「……父と母には」
「すでに別便で親書が出ております。クランツェル伯には王妃陛下より、伯爵夫人にはクラウディア殿下より」 「イシュレイ様には、殿下御自身が短い書簡を」
そこまで整っているのかと、むしろ呆然とした。
侍女が静かに続ける。
「殿下は、必要な時に必要なだけ届く形に変えると仰せでした」
必要な時に必要なだけ。
それは本来、救済が最初からそうあるべき姿だった。
その日の午後、クラウディアが部屋を訪れた。書類を何枚か抱え、座る前に窓辺の光を一度確かめるような目をしたあと、まっすぐマリアベルデを見る。
「眠れましたか」
「少しだけ」
「それで十分です」
そう答えて、クラウディアは向かいへ腰を下ろした。彼女はいつも、余計な感傷を差し挟まない。そこが救いだった。
「状況を共有します」
言って、書類を一枚差し出す。
「第一便は予定通り。二便では木材と簡易住居用布資材、追加の穀物、石灰、医療具が出ます。現地監督官には、配分先と到着時刻をすべて記録させます」 「工兵には堤全線の再点検。応急処置ではなく、雨期前提で組み直すよう命じました」 「医師団は村ごとの巡回順も決めています。熱の強い地区から先に入ります」
マリアベルデは、書類を見た。
そこには村名があり、数量があり、日付があり、誰が何を担うかまで書かれていた。あまりに具体で、逆に笑いたくなるほどだった。
「……全部、できるのですね」
呟きは、皮肉のように聞こえたかもしれない。
だがクラウディアは表情を変えなかった。
「できます」 「やろうとすれば」
その一言だけが、むしろ優しかった。
誤魔化さない。
言い訳しない。
最初からできなかったふりをしない。
その代わり、できたことを今からやるとだけ言う。
「母上も同意見です」
クラウディアが続ける。
「今後、災害支援は王族個人の裁量を外れます。民政局、財務局、聖堂支援枠、地方監査を横断した決裁手続きに変えます」 「誰かの情や寵に触れなければ届かない支援など、制度ではありません」
マリアベルデは目を伏せた。
それはその通りだ。
その通りすぎて、胸が痛い。
「……ありがとうございます」
やっと言えたのは、その一言だけだった。
クラウディアは少しだけ間を置いてから答える。
「礼はまだ結構です」 「領地が持ち直してからにしてください」
その現実的な言い方に、マリアベルデは初めてほんのわずかに肩の力を抜いた。
数日後、クランツェル伯爵領から最初の返書が届いた。
父アルドリヒの筆だった。だが途中から文字が乱れている。書き慣れた伯爵の手跡なのに、終盤へ行くほど線が揺れていた。何度か書き直した痕もある。墨が一か所だけ濃く滲んでいるのは、咳でもしたのか、それとも筆を止めたのか。
第一陣は確かに着いた。
石材も、工兵も、医師も着いた。
川下の村ではすでに診療が始まっている。
堤は全面の仮補強ではなく、本格補修へ移る。
税停止命令が村役人の前で読み上げられた時、泣いた者がいた。
イシュレイがそれを最後まで立って聞いていた。
そこまで読んだ時点で、もう胸が苦しかった。
最後の一文で手が止まる。
――お前が何をしていたのかを、私は全部は知らぬ。だが、知らぬでは済まぬのであろう。帰れとは言わぬ。今は休め。領地は、ようやく持ち直せる。
短い。
あまりにも短い。
だがアルドリヒという人が、どれほど悔いたかは、その短さで十分に分かった。父はもともと、長い言い訳をする人ではない。言えない時ほど、短くなる。幼い頃から知っている。
別便で届いたヘレーヌの手紙は、もっと短かった。
――ごめんなさい。助けてあげられなくて、ごめんなさい。今はただ、生きていてください。
それだけだった。
帳面も理屈もない。ただ母の字で、母の弱さのままに、たったそれだけ。
その文字を見た時、マリアベルデは初めて声もなく泣いた。大きく崩れたわけではない。すすり泣くこともなかった。ただ、膝の上に置いた手紙へ雫がひとつ落ちて、そこで初めて自分が泣いていることに気づいた。
イシュレイからの手紙は、その二日後に届いた。
筆圧が強かった。封を切る前から分かるほど、紙の表にまで跡が出ている。
――姉上。
怒っている。
でも、姉上にじゃない。
全部にだ。
僕はまだ弱い。だから姉上に持たせた。
でも、もう持たせたくない。
帰ってきたら、今度はちゃんと話して。
逃げるな。
最後の二文字だけ、書き直した跡があった。
「無理するな」か「泣くな」か、何か別のことを書こうとして、やめたのだろう。慰める言葉より、逃げるなと書いた方が姉に通じると思ったらしい。
らしい、とマリアベルデは思う。
まだ十二なのに、綺麗な慰めよりも先に、ちゃんと向き合えと言う。
優しいだけでは済まさない。
自分だって苦しいだろうに、姉を泣かせるかもしれない言葉をあえて選ぶ。
その真っ直ぐさが、ひどく弟らしかった。
マリアベルデは手紙を胸に押し当てた。
逃げるな。
ああ、と心の中でだけ答える。
もう逃げない。
あなたがちゃんと怒ってくれたから。
お母様が弱いまま謝ってくれたから。
お父様が短い手紙で悔いてくれたから。
家は、まだ家のままだった。
王女宮での生活は静かだった。
ベアトリクスは毎日来るわけではない。だが二日に一度は必ず顔を見せ、医師の報告を聞き、自分の口で何が決まり何が動いたかを伝えた。そこに王妃としての忙しさはあっても、逃げる気配はなかった。
クラウディアはもっと頻繁に来た。朝の報告、昼の確認、夕方の書類。実務の節目ごとに、必要なことだけを持ってくる。たまにマリアベルデの食事量まで把握していて、侍女へ「温かいうちに」と一言置いていく。
過保護ではない。
だが確実に保護されている。
その距離感がありがたかった。
やがて腹の子は目に見えて育ち始めた。侍医は順調だと言い、王女宮の侍女たちは必要以上に騒がず、ただ少しだけ歩幅を合わせるようになった。
ベアトリクスはある日、窓辺で言った。
「名は考えていますか」
マリアベルデは一瞬、答えに詰まった。
「……まだ」
「では急がなくて結構です」 「生まれて顔を見てからでも遅くはありません」
そこで少し間があり、ベアトリクスは続けた。
「ただ」 「この子を、王の汚れとして呼ばせるつもりはありません」 「あなたにも、そう思っていただきたい」
マリアベルデは、腹に手を当てる。
王の子。
それは事実だ。
消えない血だ。
だが、そこにだけ結びつけてしまえば、この子は生まれる前から誰かの罪の器になってしまう。
「……はい」
そう答えた時、初めて少しだけ、この子の未来を“自分で考えていいもの”として見られた気がした。
出産は、初夏の終わりだった。
雨の気配がまだ強く残る朝に陣痛が始まり、昼を越え、日が傾き始める頃に生まれた。長い時間だった。痛みは容赦がなく、呼吸を整える余裕も削り取っていく。侍医と助産婦が慌ただしく動き、侍女が水を替え、クラウディアが部屋の外で報告をさばき、ベアトリクスは一度だけ中へ入り、額に触れて「大丈夫です、ここで終わらせましょう」と言った。
終わらせる。
その言い方が妙に心に残った。
始まる、ではなく。
ここで、長く引きずられたものをひとつ終わらせる。
泣き声が上がった時、マリアベルデは最初、安堵よりも呆然が先に来た。
本当に出てきたのか、と。
本当に別の命として、自分の外に現れたのか、と。
「男の子です」
助産婦の声を聞き、数瞬遅れて涙が出た。
その子は、よく泣いた。
生まれたての顔はしわだらけで、王家がどうだの次代がどうだのと騒がれるにはあまりにも小さく、ただ必死に息をしていた。
それがよかった。
その小ささが救いだった。
名前はその夜には決めなかった。数日待って、少し落ち着いてから、三人で話した。
「優しい子に育ってほしいと思います」
そう言ったのはマリアベルデだった。
「優しいだけでは足りません」
即座に返したのはクラウディアだった。
「知っています」
マリアベルデは少しだけ笑う。
「ですから、優しくて、ちゃんと立てる子に」
ベアトリクスが静かに頷いた。
「では、その名にいたしましょう」
そうしてその子は、レオンハルトと名づけられた。
幼いころのレオンハルトは、よく人の顔を見る子だった。
泣き声は大きいのに、抱き上げるとすぐ黙る。
ただし誰にでもではない。
マリアベルデに抱かれた時と、ベアトリクスに抱かれた時と、クラウディアに抱かれた時で、明らかに表情が違った。
マリアベルデの腕の中では、安心したように脱力する。
ベアトリクスの腕の中では、不思議とよく眠る。
クラウディアの腕の中では、じっと目を開けて顔を見上げていた。
「見定めていますね」
クラウディアがそう言って、まだ首も据わらない乳児に向かって真顔で呟いた時だけは、マリアベルデも少し笑った。
笑うことを、少しずつ思い出していった。
その頃にはクランツェル伯爵領の復興も、目に見える形になっていた。堤の再構築は完了し、農地の一部は播種に間に合った。病は完全に消えたわけではないが、流行の山は越えた。仮設住居は本設へ移り、税停止の猶予で何とか人々は息を繋いでいた。
アルドリヒは無理の利かぬ体を抱えながらも、現地監督官と衝突するくらいには元気を取り戻したらしい。ヘレーヌは相変わらず気弱だったが、今度は逃げずに配給帳簿の確認を手伝っていると聞いた。イシュレイは背がさらに伸び、村回りにも出るようになった。
初めてレオンハルトを連れて領地へ戻った時、イシュレイはしばらく言葉を失っていた。
「……小さい」
開口一番がそれだった。
「赤ん坊だから当然でしょう」
「いや、分かってるけど。もっとこう……王家がどうとか次代がどうとか聞いてたから、でかい何かを想像してた」
その言い方に、マリアベルデは吹き出しかけた。
イシュレイは真面目な顔のまま、そっと甥の頬を指先でつつく。
レオンハルトはしばらく彼の顔を見て、それから急に泣いた。
「何で!?」
「あなたが顔をしかめているからでしょう」
「してない!」
していた。
そのやりとりを見て、アルドリヒが初めて少しだけ笑った。ヘレーヌは泣きながら笑っていた。
その領地帰還の夜、マリアベルデは久しぶりに自室で眠った。王女宮の寝台とは違う、少しきしむ古い寝台だった。窓の外からは川音が聞こえる。前よりも穏やかな音だった。
隣の小さな寝台ではレオンハルトが寝息を立てている。
そこでようやく、彼女は思った。
生き延びたのだ、と。
何かを完全に取り戻したわけではない。
だが、自分は確かにここまで辿り着いたのだ、と。
それからの年月は、驚くほど忙しく、そして静かに積み重なった。
ベアトリクスは摂政女王として国を立て直した。王族個人の裁量から災害支援を切り離し、地方監査の記録化を進め、財務と民政と聖堂支援の横断手続きを制度に組み込んだ。表向きは「再編」と呼ばれたが、実際には王家の私物だったものを国へ引き戻す作業だった。
クラウディアはその実務を支えた。各地の報告を自分で読み、時に地方へ足を運び、必要なら役人を更迭した。優しい人ではある。だが、優しさだけでは人は救えないと骨で知っている女だった。
マリアベルデは表立って政務の中心には立たなかった。だが完全に離れることもなかった。地方の感覚を持つ者として意見を求められ、災害復興の委員会には名を連ね、何よりレオンハルトの母として日々を生きた。
子育ては、政治よりよほど細かく、よほど終わりがなかった。
熱を出す。
転ぶ。
食べむらがある。
夜泣きする。
急に抱っこでなければ眠らない。
なのに翌朝には何事もなかったように笑う。
そのすべてが、マリアベルデにはありがたかった。
必要とされることが、誰かの欲を満たすためではなく、この子がただ生きるためであることが。
レオンハルトは歩き始めるのが早かった。言葉は少し遅めだったが、そのぶん人の顔色や手の動きをよく見ていた。三つになる頃には、侍女が湯をこぼしそうになると先に器を引こうとするような子だった。
「見ていますね」
またクラウディアが同じことを言った。
「ええ」
マリアベルデは微笑む。
「よく、見ています」
七つになる頃には、自分が普通の貴族の子とは少し違う位置にいることも理解し始めた。
周囲の大人が妙に丁寧であること。
女王と王女が頻繁に顔を見せること。
クランツェル伯爵領に行くと、母へ向けられる眼差しが王都のものと少し違うこと。
十になる頃、レオンハルトは一度だけマリアベルデに尋ねた。
「ぼくのお父上は、どんな人でしたか」
その時、マリアベルデは逃げなかった。
「あなたは、王の子です」
はっきりと告げた。
「けれど、それだけであなたが決まるわけではありません」
レオンハルトは静かに聞いていた。
まだ幼い。
けれど、誤魔化しを嫌う年頃でもあった。
「母上は、その人が好きだったのですか」
「いいえ」
即答だった。
だが、その即答のあとで、彼女は続ける。
「好きではありませんでした」 「恐れていましたし、憎んだ時期もありました」 「でも、あなたを憎んだことは一度もありません」
レオンハルトはしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「分かりました」
本当に全部分かったわけではないだろう。
だが、分からぬままでも受け止めようとする静けさが、その子にはあった。
その夜、ベアトリクスは言った。
「早かったかもしれませんね」
「いいえ」
マリアベルデは首を振る。
「この子には、隠し事で育ってほしくありません」 「ただ、怒りだけでも育てたくないのです」
ベアトリクスは目を伏せ、静かに頷いた。
「それでよいと思います」
レオンハルトが十五になる頃には、もう誰も彼をただの“守られる子”としては見なくなっていた。学問は堅実。武も派手ではないが着実。感情で突っ走らず、だが必要な時には退かない。何より、地方報告を数字だけで終わらせない癖があった。
その冬の夕方、執務室の暖炉はよく燃えていた。外は雪で、窓硝子の向こうを白いものが斜めに流れている。
レオンハルトは長机の端に座り、北西部の救済記録を読んでいた。もう子どもの背ではない。肩も伸び、手も大きくなった。だが報告書をめくる指先だけは妙に丁寧で、紙を傷めぬように端をそっと持ち上げるところに、まだ彼らしさが残っていた。
「母上」
「何」
「この年の北西部の救済記録、最初の配分が遅いです」
マリアベルデは目を上げる。
声は穏やかだった。怒鳴っていない。だが、曖昧なままにしない意志がある。
「理由は予算調整となっていますが、これは人が死ぬ遅さです」 「この日数なら、待っている側にとっては理由になりません」
彼は報告書の一か所を指で示した。
「第一便が出る前に、村から二通、追加の嘆願が入っています」 「それなのに仮決裁へ切り替わっていない」 「本決裁を待っていたら遅すぎる案件です」
マリアベルデは席を立ち、彼の隣へ行った。
数字は合っている。読み違いではない。担当官の癖まで少し見えてくる。帳尻を合わせる方を優先したのだろう。結果として、動きが半歩遅れた。
「そうね」
「担当官を替えます」 「それと、仮決裁枠を広げたい」 「地方監督官の一次署名で、一定量までは即日で動かせるようにすべきです」
そこでレオンハルトは、ようやく顔を上げた。
「誰か一人に受け入れさせて保つ国など、もう終わりにしなければならないのでしょう」
その言葉に、マリアベルデはしばらく何も言えなかった。
暖炉の火がひとつ音を立てる。雪はまだ降っている。
終わりにしなければならない。
それは彼女がずっと心の底に抱えていた言葉だった。だが自分で口にするより先に、この子の口から出てきた。
「ええ」
やがて彼女はそう答える。
「そのために、あなたは育てられたのだから」
レオンハルトは少しだけ笑った。誰かを安心させるためではなく、自分の中で納得した時にだけ出る、静かな笑みだった。
「でしたら、ここは変えます」 「冬のうちに」
彼はそう言って、もう一度書類へ目を落とした。
マリアベルデはその横顔を見る。
優しい子に育った。
だが、優しいだけの子ではなかった。
十八になる頃には、背丈もマリアベルデを追い越していた。ベアトリクスの前ではきちんと背筋を伸ばし、クラウディアの横では報告書の細部まで目を通し、マリアベルデの前では時折まだ幼い顔で「今日は少し疲れました」と漏らす。
窓の外では雪が降っていた。
昔のように、それは破滅の前触れには見えない。
備蓄も、治水も、医療も、完全ではないが整っている。
足りないものはまだある。
だが足りないことを、誰か一人の身体や沈黙で埋めさせる国ではなくなった。
それだけで、この冬の色はまるで違って見えた。
かつて王家は、一人の伯爵令嬢に受け入れさせることで保っていた。
だが次の時代、国を支えたのは、受け入れることの痛みを知る三人の女だった。
ベアトリクスが統治を立て直し、クラウディアが制度を磨き、マリアベルデがその痛みを忘れぬように子を育てた。
その手で育てられた王子は、誰かに黙って耐えさせることで国を回すことを、決して良しとしなかった。
雪の向こうにある国は、まだ完全ではない。
だが、もう以前の国ではなかった。
そしてマリアベルデは思う。
あの断罪の日、自分は確かに終わったのだ。
けれど終わったのは、自分ではなく、あの国の古いやり方の方だったのだと。
私のよく作る形になってしまいましたが、今回はかなりはっきりと「受け入れていた側が悪役令嬢にされる構図」を真ん中に置いて書きました。
断罪ものの型は好きなのですが、書いていると時々、断罪される瞬間よりも、その前にどれだけ黙って呑み込まされていたのかの方が気になってしまいます。今回はその部分をかなり正面から置いています。
王や王子たちの言葉は、露骨な悪意というより、曖昧な希望や優しさの顔をした圧として作りました。はっきり脅しているわけではないのに、断れない。完全に見捨てるわけではないのに、救わない。そういう形の方が、かえって逃げ場がなくて厄介だと思っています。
そのぶん、後半は「どう裁くか」「どう立て直すか」に寄せました。
怒りで燃やし尽くすより、制度として切り離し、次に同じことが起きない形へ持っていく方が、この話には合う気がしたからです。
マリアベルデが最後まであまり大きく取り乱さないのも、そのあたりの流れに合わせています。派手に泣き叫ばなくても、削られてきた時間や言葉の重さは十分に痛いはずだ、という考えで書いていました。
レオンハルトについては、ただ「正しい王になる」ではなく、母や王妃や王女が抱えてきたものを、怒りだけでなく運用として受け継げる子にしたいと思っていました。優しいけれど甘くない、という形に見えていたら嬉しいです。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。




