5-2.シュンちゃん
『⋯⋯気持ちは嬉しいけど』
言いかけた同時に手を掴まれる。あ、終わった、と思った。
しかし彼はそんな事気にもしていない様子で顔をズイっと近づけた。
『せっかくあれだけ練習してたのに無駄にするつもり?』
彼は父と私の練習を知ってる口ぶりだった。
『言っとくけど、覗いてたわけじゃない。塾の帰りに家の前を通った時、お前とお父さんの練習してる声が聞こえてきた』
余談だけど父が即興で変な歌を歌ってそれに合わせて踊るというマヌケな練習もしていた。聞かれていただけでも地味にショックだ。
『て、言うかさ。あんな失礼な事言われてよく怒らないね?』
あんな、とは当然手汗の件のことだ。やっぱ聞いていたのか。
『怒らないのは相手が悪くないからだよ。汗汚いから触るの嫌なのわかるし』
彼は真っ直ぐ私を見据えた。
『汚くない』
きっぱりと、だけどなんてことない当然のことを話すように言いきった。
その時初めて彼と目がちゃんと合った。
綺麗な目だ。
この世の綺麗なものを全部集めて二つにしたみたいに。
『僕、ダンスも勉強も運動も得意だから絶対見返せるよ。お前も練習みてた限り中々だったし。アイツプライド高いから、僕とお前が目立ったら絶対悔しがる。前から偉そうだし、ライバル視してきて鬱陶しかったからいい気味だ』
それは私怨というものでは。
まあでもそれもいいのかもしれない。こんな小綺麗な子が私の味方してくれる機会なんて、今後そうそうないだろうし。
私が頷くと彼は得意げに微笑んだ。
『じゃあ行こ、”さあちゃん”』
なんで家族が私を甘やかす時にしか呼ばないあだ名を知っているんだろう。
聞けば引越しの挨拶の時に母がそう呼んであげてと言ったらしい。そういえば私と父が出かけてる間にご近所さんが引越しの挨拶に来てくれたと、母が話していたのをようやく思い出した。
『僕のことは好きに呼んでくれていいから』
まだ汚れていない彼のゼッケンには綺麗な字で伏見俊輔と書かれていた。彼に似合う呼び名を考えてみたけど、安直なのしか思いつかなかった。
『シュンちゃん』
『ちゃん呼びは微妙なんだけど』
好きにと言ったのに不満気だった。
遠くから『いいかげん全員集合!』という先生の声が聞こえてくる。
彼は繋いでた手をそのまま引っ張って私を立ち上がらせた。
『シュンちゃん』
もう一度呼んでみる。
彼は返事をしないまま私の手を引いて勢いよく走り出す。
シュンちゃんの手はひどく柔らかくて白くてスベスベしていて、正直羨ましかった。
彼は手も目も全部が選びに選び抜かれたもので構成されているように思えた。
でも羨む気持ちは一瞬だった。だって彼が美しいのは目に見えるものだけじゃない。
羨むよりも尊ぶという感情を私は多分初めて知った。
私はこの先、手の汗について誰に何を言われても、もうどうとも思わないだろう。
誰よりも美しい彼が汚くないと言ったのだから、それは未来永劫誰にも覆せない。




