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霜月の柳  作者: Sencho
7/20

距離

名前を知ってから、彼女との会話は少しだけ変わった。

特別なことを話すようになったわけじゃない。

相変わらず、仕事の帰りに柳の下で立ち止まり、たわいのない言葉を交わすだけだ。

「今日は寒かったですね」

「そうですね。風が冷たかったです」

そんなやりとりを、何度も繰り返す。

それだけなのに、名前を呼ぶたび、胸の奥がわずかに揺れた。

彼女は、以前よりも、少しだけ僕の方に近い位置に立つようになっていた。

歩道の端、通行の邪魔にならない距離は変わらない。

でも、その“間”が、違っていた。

ある日、仕事が早く終わった。

空はまだ完全に暗くなりきっておらず、街の灯りも控えめだった。

柳の下に彼女がいるのが見えて、僕は自然と足を向けた。

「今日は早いんですね」

どうして分かるのかと聞こうとして、やめた。

彼女は、僕の生活のリズムを、もう知っているのだ。

「たまたまです。珍しいだけで」

そう答えると、彼女は少し笑った。

その笑顔を見て、ふと思った。

――この人は、どれくらいの時間、ここに立っているのだろう。

聞こうとして、やはり聞けなかった。

代わりに、どうでもいい話を続ける。

会社の近くに新しくできた店のこと。

駅前の工事が、なかなか終わらないこと。

特に意味のない話題ばかりだ。

彼女は、頷きながら聞いていた。

相槌は控えめで、でも、ちゃんとこちらを見ている。

その視線が、以前より長く留まることがある。

「……退屈じゃないですか」

思わず、そんなことを口にしてしまった。

「何がですか?」

「こうやって、僕の話を聞くの」

彼女は少し考えてから、首を横に振った。

「いいえ。むしろ……前より、時間が進んでる気がする」

胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「進んでる?」

「うん。前は、ずっと同じところに立ってた感じだったのに」

彼女は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。

「最近はね、夜が“一つずつ”終わっていく感じがするの」

それは、生きている人の言い方だった。

僕は何も言えなかった。

「……そろそろ行きます」

時計を確認して言った。本当は、まだ余裕はあった。

けれど、ここから先に進むのが、少し怖かった。

「はい。気をつけて」

いつものやりとり。

いつもの別れ方。

数歩歩いてから、僕は振り返った。

彼女は、まだそこに立っていた。

でも、その立ち方が、ほんの少しだけ違って見えた。

待っている、というより――

選んでいる、みたいに。

――このまま、毎日ここで話すだけでいいのだろうか。

答えは出ない。

ただ、柳の下で交わすこの時間が、

静かに、でも確実に、

“元に戻れない距離”へと変わりつつあることだけは、分かっていた。


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