距離
名前を知ってから、彼女との会話は少しだけ変わった。
特別なことを話すようになったわけじゃない。
相変わらず、仕事の帰りに柳の下で立ち止まり、たわいのない言葉を交わすだけだ。
「今日は寒かったですね」
「そうですね。風が冷たかったです」
そんなやりとりを、何度も繰り返す。
それだけなのに、名前を呼ぶたび、胸の奥がわずかに揺れた。
彼女は、以前よりも、少しだけ僕の方に近い位置に立つようになっていた。
歩道の端、通行の邪魔にならない距離は変わらない。
でも、その“間”が、違っていた。
ある日、仕事が早く終わった。
空はまだ完全に暗くなりきっておらず、街の灯りも控えめだった。
柳の下に彼女がいるのが見えて、僕は自然と足を向けた。
「今日は早いんですね」
どうして分かるのかと聞こうとして、やめた。
彼女は、僕の生活のリズムを、もう知っているのだ。
「たまたまです。珍しいだけで」
そう答えると、彼女は少し笑った。
その笑顔を見て、ふと思った。
――この人は、どれくらいの時間、ここに立っているのだろう。
聞こうとして、やはり聞けなかった。
代わりに、どうでもいい話を続ける。
会社の近くに新しくできた店のこと。
駅前の工事が、なかなか終わらないこと。
特に意味のない話題ばかりだ。
彼女は、頷きながら聞いていた。
相槌は控えめで、でも、ちゃんとこちらを見ている。
その視線が、以前より長く留まることがある。
「……退屈じゃないですか」
思わず、そんなことを口にしてしまった。
「何がですか?」
「こうやって、僕の話を聞くの」
彼女は少し考えてから、首を横に振った。
「いいえ。むしろ……前より、時間が進んでる気がする」
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
「進んでる?」
「うん。前は、ずっと同じところに立ってた感じだったのに」
彼女は、自分の言葉を確かめるように、ゆっくり続ける。
「最近はね、夜が“一つずつ”終わっていく感じがするの」
それは、生きている人の言い方だった。
僕は何も言えなかった。
「……そろそろ行きます」
時計を確認して言った。本当は、まだ余裕はあった。
けれど、ここから先に進むのが、少し怖かった。
「はい。気をつけて」
いつものやりとり。
いつもの別れ方。
数歩歩いてから、僕は振り返った。
彼女は、まだそこに立っていた。
でも、その立ち方が、ほんの少しだけ違って見えた。
待っている、というより――
選んでいる、みたいに。
――このまま、毎日ここで話すだけでいいのだろうか。
答えは出ない。
ただ、柳の下で交わすこの時間が、
静かに、でも確実に、
“元に戻れない距離”へと変わりつつあることだけは、分かっていた。




