名前を呼ぶ距離
名前を聞くまでに、少し時間がかかった。
話しかけるようになってからも、僕たちは必要以上のことを聞かなかった。
寒いですね、とか。今日は残業で、とか。
そんな言葉だけで、夜は十分に埋まっていた。
名前は、その延長線上にはない気がしていた。
一歩、踏み込む行為だと、どこかで分かっていたのだと思う。
その日も、仕事を終えた帰り道だった。
柳の下には、いつものように彼女が立っていた。
昼間に降った雨のせいで、歩道はまだ少し湿っている。
「今日は、静かですね」
理由のない言葉だったけれど、僕は頷いた。
「月曜日だからですかね。みんな、余裕がない」
彼女は小さく笑った。
その笑い方を、僕はもう知っている。
少し間があって、彼女がふと首を傾げた。
「……ねえ」
「なに?」
「最近ね、前より……音が、はっきり聞こえる気がするの」
唐突だった。
僕は一瞬、意味を測りかねた。
「音?」
「うん。川の音とか、枝が揺れる音とか。前は、もっと遠かった気がする」
彼女は、自分の言葉に確信がないみたいに、語尾を落とした。
「気のせいかもしれないけど」
そう言って、困ったように笑う。
気のせいだ、と言うべきだったのかもしれない。
でも、その言葉は出てこなかった。
代わりに、僕は聞いた。
「……悪いこと?」
「分からない」
即答だった。
「ただ、少しだけ……ここが、はっきりしてきた感じがする」
“ここ”。
彼女は、柳の下を見回すように視線を動かした。
来る、ではなく、いる。
以前感じた違和感が、また胸に残る。
少し間を置いて、僕は言った。
「……あの。名前、聞いてもいいですか」
自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。
彼女は一瞬だけ目を伏せ、それから僕を見た。
「いいですよ」
あっさりとした返事だった。
「恵麻です」
名前を聞いた瞬間、不思議と違和感はなかった。
昔から知っていた気がする、なんてことはない。
ただ、その音が、彼女にきれいに収まった。
「あなたは?」
聞き返されて、僕は自分の名前を名乗った。
会社では毎日呼ばれているはずの名前なのに、
そのときは少しだけ、照れくさかった。
「よろしくお願いします」
「……こちらこそ」
たったそれだけのやり取りなのに、空気が変わった気がした。
柳の下に立っているのは、もう「知らない誰か」ではない。
彼女は、少しだけ僕に近い位置に立っていた。
触れられる距離ではない。
けれど、前より確実に近い。
ただ、距離というものが、
目に見えない形で変わっていることだけは、確かだった。




