確信
それから数日、僕と彼女の会話は、ほんの短い挨拶から少しずつ長くなっていった。
仕事帰り、柳の下で立ち止まり、二言三言を交わす。それだけのことなのに、その時間は、会社で過ごす一日よりも輪郭がはっきりしていた。
「今日は、遅かったですね」
ある夜、彼女がそう言った。
責めるような口調ではない。ただ、天気の話をするのと同じくらい自然だった。
「うん。ちょっと、残業で」
本当は、上司に小言を言われたことも、ミスを引きずっていたこともあった。
けれど、なぜか詳しく話す気にはならなかった。代わりに、柳の枝が揺れる音を聞きながら、しばらく黙って立っていた。
沈黙は、気まずくなかった。
それが、不思議だった。
普通、知らない人と会話が途切れれば、何か言葉を探してしまう。
けれど彼女の前では、無理に埋める必要がなかった。
ただ、同じ場所に立っているだけでいい。
「……この木、好きなんですか?」
僕が聞くと、彼女は少し考えるように首を傾げた。
「好き、というより……ここにいると、落ち着くんです」
その言い方に、わずかな引っかかりを覚えた。
来る、ではなく、いる。
偶然そう言っただけかもしれない。
けれど、その言葉は、胸の奥に小さな棘のように残った。
その夜、僕は彼女の足元を見た。
前にも一度、視線を落としたことがある。だが今回は、はっきりと確かめるように。
街灯の光が、柳の枝と歩道を照らしている。
人が通り過ぎれば、影が伸び、重なり、消えていく。
彼女の影だけが、どこにもなかった。
風が吹き、柳の枝が揺れる。
彼女の髪も、コートの裾も、確かに動いているのに、地面には何も映らない。
「……寒くないですか」
数日前と同じ言葉が、また口をついて出た。
自分でも、逃げるような問いだと思った。
彼女は小さく笑った。
「前にも言いましたよね。私、寒さを感じないんです」
その声は、優しかった。
でも、その優しさが、かえって現実から僕を遠ざけた。
ここにいる。
話している。
けれど、生きている人と決定的に違う。
僕は周囲を見渡した。
スーツ姿の男性が、スマホを見ながら柳の下を通り過ぎる。
カップルが笑い声を残して歩いていく。
誰一人として、立ち止まらない。
彼女のすぐ横を、みんなが通り過ぎていく。
みんな忙しく、みんな疲れている。
足を止める理由なんて、どこにもない街だ。
その事実が、急に重くのしかかってきた。
「……僕にしか、見えてないですよね」
言葉にした瞬間、喉がひりついた。
聞いてはいけないことを聞いてしまった気がした。
彼女は、否定しなかった。
少しだけ目を伏せ、それから静かに頷いた。
「たぶん、そうです」
たぶん。
曖昧な言い方なのに、その一言で、僕の中の疑問はすべて形を持ってしまった。
偶然でも、疲労でも、思い込みでもない。
彼女は――ここにいるけれど、ここには属していない。
胸の奥が、すっと冷えていく。
怖さがないわけじゃない。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
「……それでも、話しかけていいですか」
自分でも驚くほど、落ち着いた声だった。
彼女は、ゆっくりと顔を上げた。
その表情は、安心したようにも、少し寂しそうにも見えた。
「はい」
その短い返事を聞いた瞬間、僕は理解した。
もう戻れないところまで来てしまったのだと。
これは偶然の出会いじゃない。
気の迷いでもない。
柳の下に立つ彼女は、幽霊だ。
そして僕は、その事実を知った上で、ここに立ち続けている。
確信は、静かだった。
けれど、確かに、夜の底で根を張っていた




