霜月の柳
残業を終えて駅を出る、あの霜月の夜から――
季節は、いくつも息をした。
春になった街は、冬の名残を引きずりながらも、
何事もなかった顔で動いている。
コンビニの棚は明るい色に変わり、
コートの肩は軽くなり、
歩道の端に残っていた冷たさだけが、少しずつ薄まっていく。
僕は、普通の生活に戻った。
朝はベッドから起きて、洗面台に向かい、歯を磨く。
スーツを着て、ネクタイを結ぶ。
出勤して、仕事をして、帰ってくる。
誰かに「おかえりなさい」と言われることはなくなったけれど、
それは元からそうだった、と言い聞かせることもできた。
できる。
――できてしまうことが、いちばん残酷だった。
彼女がいない部屋は、部屋として正しい。
散らかっていない。
空気は滞らない。
静けさは、ただの静けさだ。
何かが欠けている気配さえ、
時間が丁寧に消していく。
けれど、消えないものがひとつだけあった。
僕は仕事帰り、あの柳の木の下へ向かった。
特別な用事があるわけでもない。
足が覚えている、という言い訳がいちばん近い。
霜月の夜に、僕は確かにここで足を止めた。
その記憶が、今でも身体のどこかに残っている。
川沿いの道に出ると、風が変わっていた。
冬の刃みたいな冷たさではない。
やわらかく、湿り気を含んだ風が、ゆっくりと頬を撫でていく。
柳は、そこにいた。
枝は相変わらず垂れていて、
けれど、霜月のときとは違う色をしていた。
薄い緑が混じり、
先端には、細かな花が開いている。
花と言っても派手なものではない。
気づかない人は、きっと気づかないまま通り過ぎる。
忙しく、疲れている街では、それが普通だ。
それでも僕は、足を止めた。
柳の下には、誰もいない。
当たり前だ。
夕暮れの歩道は、いつもの通勤帰りの人で埋まっている。
誰かがスマホを見ながら通り過ぎ、
誰かがイヤホンを押し込みながら去っていく。
柳の枝を避けるように、
ほんの少しだけ身体を傾ける人もいる。
けれど、その誰もが、
ここに「誰かが立っていた」ことを知らない。
僕だけが知っている。
胸の奥で、何かが小さく鳴る。
声にならない。
涙にもならない。
生活に押し込めるには柔らかすぎて、
忘れるには痛みが足りない。
そんな形の感情が、
柳の影の下にだけ、薄く残っている。
もしもあの夜、奇跡が起きなかったら。
もしも僕が、あのまま彼女を引き留め続けていたら。
もしも――。
考え始めると、きりがない。
答えのない問いは、
どんなに丁寧に抱えても、最後まで答えにならない。
僕は枝の揺れを見上げた。
霜月の夜、彼女が見ていたのも、
たぶんこんなふうに揺れる枝だった。
寒さを感じないと言った声。
困ったように笑った顔。
名前を呼ばれたときの、少しだけ驚いた目。
そして、あの一度きりの夜。
言葉にしなかったことを、
言葉にしないまま抱え続ける。
柳の花が、ふわりと揺れた。
甘い匂いが、思いがけず近くまで降りてくる。
春の匂いだ。
けれど僕にとってそれは、
春そのものではなく、
霜月の夜へ戻るための合図みたいに感じられた。
ここに立っていると、
彼女が今もどこかにいるような気がする。
いるはずがないのに。
もう会えないのに。
それでも、確かに、ここで出会った。
僕は小さく息を吐き、誰に向けるでもなく呟いた。
「……ただいま」
返事はない。
でも、返事がないことを、僕はもう知っている。
柳の枝が揺れる。
花がほどける。
甘い香りが、少しだけ長く残ってから、
風に溶けていった。
柳の花が甘く香るたび、
霜月の夜に出会った彼女のことを、
僕は今も思い出す。
失われたものは、
完全に消えてしまうわけではありません。
それは、
言葉にならない感覚として、
匂いや光や、季節の変わり目に
ふいに立ち上がってきます。
彼が再び日常へ戻れたのは、
忘れたからではなく、
確かに出会い、確かに失ったと
受け止めることができたからです。
柳の花が甘く香るたび、
彼女はもうそこにはいません。
それでも、
彼の中には、確かに残っています。
この物語を読み終えたあと、
もしあなたが
いつもの道を少しだけ違う気持ちで歩けたなら、
それ以上の結末はありません。




