彼女のいない日常
朝、目が覚めると、部屋は静かだった。
静か、という言葉が正しいのかは分からない。
冷蔵庫の低い唸りや、外を走る車の音はいつも通りある。
ただ、夜にだけ存在していた気配が、きれいに抜け落ちている。
ベッドの端に腰掛けて、僕はしばらく動かなかった。
彼女がいない朝は、これまでも何度もあったはずなのに、
今日のそれは決定的だった。
待っても、目を凝らしても、戻ってくる余地がない。
そんな確信だけが、空気のように部屋に満ちている。
会社へ向かう準備をする。
歯を磨き、ネクタイを締め、鞄を持つ。
いつもなら、出がけに声をかけていた。
「行ってきます」
言葉は、喉の奥で止まったまま、形にならなかった。
返事がないと分かっている言葉を、
わざわざ外に出す理由が見つからなかった。
仕事は、驚くほど普通だった。
上司はいつも通り厳しく、
同僚は相変わらず忙しそうで、
昼休みにはどうでもいい話が交わされる。
以前、心配そうに向けられていた視線も、
いつの間にか消えていた。
身体は、軽くなっていた。
食事も、睡眠も、滞りなく取れている。
集中力も戻っている。
生気が戻った、という表現が、
あまりにも的確で、逆に気味が悪かった。
失ったはずなのに、取り戻してしまった。
それが、彼女と引き換えだったことを、
誰も知らない。
残業を終え、駅を出る。
改札の外は相変わらず人で溢れ、
みんな忙しく、みんな疲れている。
それでも、僕は立ち止まった。
通勤路から少し外れた場所に、柳の木がある。
夜風に揺れる枝の向こうに、
もう彼女の姿はないと分かっていながら、
足は自然とそちらへ向かっていた。
柳の下に立つ。
夜の空気は柔らかく、
どこか甘い匂いが混じっている。
見上げると、細い枝の先に、
淡い色の花が開き始めていた。
春が来ていた。
彼女がいた夜のことを、思い出そうとする。
声、表情、沈黙。
思い出せるのに、触れられない。
あの夜の温度だけが、
どうしても思い出せなかった。
それでいいのだと思った。
触れ合えた記憶は、
きっと思い出になってはいけない。
僕は柳の下に立ち、
しばらく花の匂いを吸い込んでから、踵を返した。
もう、ここに立ち続ける理由はない。
それでも、柳は揺れていた。
彼女がいた頃と同じように、
何事もなかったかのように。




