不在
朝、目が覚めたとき、部屋はいつもより明るかった。
カーテンの隙間から差し込む光が、やけに鋭く、寝起きの頭を刺す。
反射的に、声を出しかけて――止めた。
返事がないことは、もう分かっていた。
ベッドの端には、何もない。
腰掛けていたはずの場所も、そこにあったはずの気配も、きれいに消えている。
空気だけが、妙に澄んでいた。
胸の奥に、穴が開いたような感覚があった。
けれど、その穴は痛みを伴わない。
悲しいはずなのに、苦しいはずなのに、呼吸は驚くほど楽だった。
――ああ、と僕は思う。
これは、回復だ。
シャワーを浴び、身支度を整える。
湯の温度が、はっきりと分かる。
水滴が肌を伝う感覚が、やけに生々しい。
長いあいだ、こんなふうに自分の身体を意識したことがなかった気がした。
家を出る。
足取りは軽く、無駄に立ち止まることもない。
駅までの道を、迷わず歩ける。
会社では、上司がこちらの顔を覗き込んだ。
「今日は、調子良さそうだな」
同僚も言った。
「なんか、スッキリしてません?」
曖昧に笑って受け流す。
説明できる言葉は、どこにもなかった。
仕事は、滞りなく終わった。
集中力は戻り、判断も早い。
以前なら引っかかっていた小さな苛立ちも、すぐに流れていく。
それが、何より怖かった。
失ったはずなのに、削られたはずなのに、僕はちゃんと機能している。
帰り道、無意識に足が向かった。
あの柳の木のあるほうへ。
そこに、誰もいないと分かっていながら。
柳の下に立つ。
夜風が枝を揺らし、甘い匂いが鼻先をかすめた。
花が、咲いている。
いつの間にか、柳は霜月の姿を完全に失っていた。
春が、来ていた。
胸の奥が、静かに痛んだ。
失ったものを数えるような痛みと同時に、
深く、息が吸える。
それが、何より残酷だった。
彼女は、もういない。
けれど、彼女がいなくなった世界は、驚くほど問題なく回っている。
立ち止まらなくてもいい。
迷わなくてもいい。
夜は、ただの夜に戻った。
柳の下で、しばらく立ち尽くす。
ここで誰かに出会った記憶だけが、
現実と噛み合わないまま、身体の奥に残っている。
――僕は、ちゃんと生きている。
その事実が、
どうしようもなく、彼女を裏切っている気がしてならなかった。
風が吹き、花が揺れる。
匂いが、少しだけ濃くなる。
それを吸い込みながら、僕は初めて、
「戻ってしまった」ことを、はっきりと自覚していた。




