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霜月の柳  作者: Sencho
18/20

不在

 朝、目が覚めたとき、部屋はいつもより明るかった。

 カーテンの隙間から差し込む光が、やけに鋭く、寝起きの頭を刺す。

 反射的に、声を出しかけて――止めた。

 返事がないことは、もう分かっていた。

 ベッドの端には、何もない。

 腰掛けていたはずの場所も、そこにあったはずの気配も、きれいに消えている。

 空気だけが、妙に澄んでいた。

 胸の奥に、穴が開いたような感覚があった。

 けれど、その穴は痛みを伴わない。

 悲しいはずなのに、苦しいはずなのに、呼吸は驚くほど楽だった。

 ――ああ、と僕は思う。

 これは、回復だ。

 シャワーを浴び、身支度を整える。

 湯の温度が、はっきりと分かる。

 水滴が肌を伝う感覚が、やけに生々しい。

 長いあいだ、こんなふうに自分の身体を意識したことがなかった気がした。

 家を出る。

 足取りは軽く、無駄に立ち止まることもない。

 駅までの道を、迷わず歩ける。

 会社では、上司がこちらの顔を覗き込んだ。

「今日は、調子良さそうだな」

 同僚も言った。

「なんか、スッキリしてません?」

 曖昧に笑って受け流す。

 説明できる言葉は、どこにもなかった。

 仕事は、滞りなく終わった。

 集中力は戻り、判断も早い。

 以前なら引っかかっていた小さな苛立ちも、すぐに流れていく。

 それが、何より怖かった。

 失ったはずなのに、削られたはずなのに、僕はちゃんと機能している。

 帰り道、無意識に足が向かった。

 あの柳の木のあるほうへ。

 そこに、誰もいないと分かっていながら。

 柳の下に立つ。

 夜風が枝を揺らし、甘い匂いが鼻先をかすめた。

 花が、咲いている。

 いつの間にか、柳は霜月の姿を完全に失っていた。

 春が、来ていた。

 胸の奥が、静かに痛んだ。

 失ったものを数えるような痛みと同時に、

 深く、息が吸える。

 それが、何より残酷だった。

 彼女は、もういない。

 けれど、彼女がいなくなった世界は、驚くほど問題なく回っている。

 立ち止まらなくてもいい。

 迷わなくてもいい。

 夜は、ただの夜に戻った。

 柳の下で、しばらく立ち尽くす。

 ここで誰かに出会った記憶だけが、

 現実と噛み合わないまま、身体の奥に残っている。

 ――僕は、ちゃんと生きている。

 その事実が、

 どうしようもなく、彼女を裏切っている気がしてならなかった。

 風が吹き、花が揺れる。

 匂いが、少しだけ濃くなる。

 それを吸い込みながら、僕は初めて、

 「戻ってしまった」ことを、はっきりと自覚していた。


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