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霜月の柳  作者: Sencho
17/20

一瞬の夜

 雪はもう、ほとんど残っていなかった。

 アスファルトの隅に押しやられた白が、汚れた水になって溶けている。

 夜の空気には、冬の名残と、説明のつかない柔らかさが混じっていた。

 その日、彼女は少し早く現れた。

 玄関の鍵を回す音がしたとき、

 いつもならまだいないはずの彼女が、部屋の奥に立っていた。

 窓の外を見ている背中は、どこか落ち着かず、

 けれど決意めいた静けさも帯びていた。

「今日は早いね」

 僕がそう言うと、彼女はゆっくり振り返った。

 微笑んではいたが、その表情は、これまで見たことのない種類のものだった。

「ねえ」

 名前を呼ばれる前に、彼女が口を開いた。

 それだけで、胸の奥が小さく鳴った。

「今日は、少しだけ変な感じがするの」

 変、という言葉に、僕は曖昧に笑って返そうとした。

 でも、その先の言葉が見つからなかった。

 彼女の声は、いつもよりはっきりしているように聞こえたからだ。

 ビールを注ぐ手が止まる。

 グラスの中で、泡が静かに消えていく。

「春、近いでしょう」

 彼女はそう言った。

 当たり前の事実を確認するみたいに。

「……そうだね」

「冬が終わるときって、境目が分かりにくいのね」

 彼女はテーブルの向こうに腰を下ろした。

 いつもと同じ距離。触れられない距離。

 それなのに、その夜は、なぜか近く感じた。

 僕は気づいていなかった。

 あるいは、気づかないふりをしていた。

 最近、会社で言われたこと。

 顔色が悪いとか、ちゃんと眠れているのかとか。

 冗談みたいに受け流していたけれど、

 彼女は全部、覚えていた。

「まこと君、少し薄くなってる」

「……何が?」

「存在、みたいなもの」

 冗談にしては、真っ直ぐすぎる言い方だった。

 僕は笑おうとして、やめた。

「大丈夫だよ。仕事が忙しいだけだ」

「そう言うと思った」

 彼女は小さく息をついた。

 吐息は、相変わらず白くならない。

「でもね、今夜は……たぶん、大丈夫」

 その言い方が、ひどく曖昧で、ひどく確信めいていた。

 ベッドに入る時間になっても、

 彼女はいつもと同じ場所に座っていた。

 僕は布団を引き寄せ、躊躇いながら口を開いた。

「…… こっち、来る?」

 ずっと前から、心のどこかにあった言葉だった。

 今さら取り消せないほど、静かに、確かに。

 彼女は一瞬、目を見開いた。

 それから、ゆっくりと頷いた。

 触れられない。

 それは、変わらないはずだった。

 けれど、その夜は違った。

 彼女が近づいた瞬間、空気の密度が変わった。

 指先が、ほんのわずかに熱を持った気がした。

「……今」

 彼女の声が、震えていた。

 生きている時間と、止まった時間。

 ずれていたはずのリズムが、ほんの一拍だけ、重なった。

 確かに、触れた。

 腕の中に、重さがあった。

 温度があった。

 呼吸があった。

 言葉は、どちらも使わなかった。

 使えなかった。

 その一瞬は、長さを持たなかった。

 ただ、世界が静止したみたいに、確かだった。

 次の瞬間、彼女は僕の腕の中から、ゆっくりとほどけていった。

「ごめんね」

 それが、最後の言葉だった。

 目を閉じると、部屋はいつもの夜に戻っていた。

 ベッドの端には、もう誰もいなかった。

 けれど、不思議と、胸の奥は空っぽじゃなかった。

 それが、救いだったのか、

 取り返しのつかない後悔だったのか――

 そのときの僕には、まだ分からなかった。


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