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霜月の柳  作者: Sencho
16/20

ずれた鼓動

 春が来た、という実感はなかった。

 ただ、帰り道の空気が少しだけ柔らかくなり、コートの前を閉じる手が遅くなった。それだけだ。

 彼女は相変わらず、夜になると現れた。

 柳の下ではなく、もう僕の部屋に。

「最近、寒くないね」

 僕がそう言うと、彼女は少し考えるように首を傾げた。

「そうかも。でも……前から、寒さは分からなかったから」

 “前から”。

 その言葉が、胸の奥に引っかかった。

 ずっと前から、彼女の時間は同じ場所で止まっている。

 季節が動くことも、昼が来ることも、

 彼女の中では出来事にならない。

 仕事は忙しかった。

 年度末が近づき、会議が増え、資料が増え、ミスをすればすぐに名前が出る。

 それなのに、以前ほど焦りはなかった。

 叱責も、締切も、どこか膜を一枚隔てた向こう側の出来事みたいに感じられる。

「最近、顔色よくないぞ」

 昼休み、上司にそう言われた。

「ちゃんと寝てるのか?」

「……寝てますよ」

 嘘ではなかった。

 眠っている。食べている。生活は回っている。

 ただ――

 朝起きたとき、胸の奥に何も残っていない感覚があった。

 夜、ベッドに入ると、彼女はいつものように腰掛けていた。

 最近は、以前より少しだけ近い位置に。

「ねえ」

 彼女が言った。

「まこと君、ちゃんと生きてる?」

 唐突だった。冗談にも聞こえなかった。

「生きてるよ」

 即答した。

 答えながら、自分の声が少し遠く聞こえた。

 彼女は、小さく笑った。

 でも、その笑顔には迷いが混じっていた。

「そっか」

 それだけ言って、黙る。

 沈黙が増えたわけじゃない。

 ただ、言葉と言葉の間に、別のものが入り込むようになった。

 彼女が僕を見る時間が、以前より長くなっている。

 まるで、輪郭が崩れていくものを確かめるみたいに。

 その夜、眠りに落ちる直前――

 初めて、はっきりとした夢を見た。

 夢の中で、彼女は外に立っていた。

 柳の枝が揺れ、白いものが足元で溶けていく。

 雪なのか、光なのか、分からない。

 ただ、溶けるたびに、胸の奥で何かが鳴っていた。

 目が覚めたとき、部屋には朝の気配があった。

 彼女はいなかった。

 それなのに、胸の奥では、まだ音が続いている。

 鼓動とは違う。

 呼吸とも違う。

 もう一つのリズム。

 生きている時間とは、わずかにずれた拍。

 それが、いつの間にか、自分の中で重なり始めていることに――

 そのときの僕は、まだ気づいていなかった。


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