表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
霜月の柳  作者: Sencho
15/20

春の兆し

夜の空気が、確かに変わっていた。

 窓を閉め切っていても、冷えが骨まで届かなくなっている。暖房をつけ忘れても、気づかないまま眠れてしまう夜が増えた。

 季節が動いている。

 それは、頭で理解するより先に、身体が知っていた。

 彼女は、いつも通りベッドの端に腰掛けていた。

 僕が眠る前に話すことを、ただ静かに聞いている。

 最近は、仕事の話をほとんどしなくなっていた。

 上司のことも、会議のことも、失敗のことも、言葉にするほどの実感がなくなっていたからだ。

 代わりに話すのは、どうでもいいことばかりだった。

 昼間に見た雲の形。

 駅前の工事が、少し進んだこと。

 コンビニの棚から、いつの間にか消えていた商品。

 話しながら、僕は自分が軽くなっていくのを感じていた。

 重さが取れている、というより、削られている感覚に近い。

 身体は元気だった。

 朝も起きられるし、仕事もこなせる。食欲もあるし、眠れてもいる。数値にすれば、どこも異常はない。

 それなのに、朝の目覚めが浅い。

 目を開けた瞬間、「起きている」という確信が、どこか遅れてやってくる。

 会社では、上司に言われた。

「ちゃんと寝てるか?」

 同僚には、笑いながら言われた。

「顔色いいのか悪いのか、分かんないな」

 どちらも、間違っていない気がした。

 生きてはいる。でも、生きている感じが、薄い。

「最近、春っぽいね」

 僕がそう言うと、彼女は少しだけ間を置いてから頷いた。

「うん。夜の匂いが変わった」

 夜の匂い。

 昼を知らない人の言葉だと、ふと思う。

「もう、寒くない?」

 そう聞くと、彼女は首を横に振った。

「最初から、寒さは分からないよ。でも……」

「でも?」

「変わるのは、分かる」

 その言葉が、胸に残った。

 変わっているのは、季節だけじゃない。

 ベッドの脇に落ちる影が、以前より淡く見えた。

 気のせいだと、何度も言い聞かせた。光の加減だ、と。

 その夜、彼女は僕の顔をじっと見ていた。

 眠りに落ちる直前、視界の端で、その視線が揺れないままそこにあるのを感じる。

 いつもなら、そのまま意識が切れる。

 けれど、その日はなかなか眠れなかった。

「ねえ」

 彼女が、珍しく先に声を出した。

「なに?」

「最近、まこと君……少し、薄くなってる」

 意味はすぐには分からなかった。

 でも、否定できなかった。

「生きてる感じが、前より遠い」

 責める声じゃなかった。

 むしろ、困っているみたいだった。

「大丈夫だよ」

 反射的にそう答えた。

 本当かどうかは、考えなかった。

 彼女は小さく息を吐いた。

「ね。もし、私がここにいなかったら」

 その言葉の続きが、聞きたくなかった。

 聞いてしまえば、何かが決まってしまう気がした。

 僕は何も言わず、目を閉じた。

 しばらくして、ベッドの沈みが、ほんのわずかに変わった。

 彼女が、いつもより深く腰を下ろした気がした。

「春が来るね」

 独り言みたいに、彼女は言った。

 それが、別れの準備だとは、

 そのときの僕には、まだ分からなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ