春の兆し
夜の空気が、確かに変わっていた。
窓を閉め切っていても、冷えが骨まで届かなくなっている。暖房をつけ忘れても、気づかないまま眠れてしまう夜が増えた。
季節が動いている。
それは、頭で理解するより先に、身体が知っていた。
彼女は、いつも通りベッドの端に腰掛けていた。
僕が眠る前に話すことを、ただ静かに聞いている。
最近は、仕事の話をほとんどしなくなっていた。
上司のことも、会議のことも、失敗のことも、言葉にするほどの実感がなくなっていたからだ。
代わりに話すのは、どうでもいいことばかりだった。
昼間に見た雲の形。
駅前の工事が、少し進んだこと。
コンビニの棚から、いつの間にか消えていた商品。
話しながら、僕は自分が軽くなっていくのを感じていた。
重さが取れている、というより、削られている感覚に近い。
身体は元気だった。
朝も起きられるし、仕事もこなせる。食欲もあるし、眠れてもいる。数値にすれば、どこも異常はない。
それなのに、朝の目覚めが浅い。
目を開けた瞬間、「起きている」という確信が、どこか遅れてやってくる。
会社では、上司に言われた。
「ちゃんと寝てるか?」
同僚には、笑いながら言われた。
「顔色いいのか悪いのか、分かんないな」
どちらも、間違っていない気がした。
生きてはいる。でも、生きている感じが、薄い。
「最近、春っぽいね」
僕がそう言うと、彼女は少しだけ間を置いてから頷いた。
「うん。夜の匂いが変わった」
夜の匂い。
昼を知らない人の言葉だと、ふと思う。
「もう、寒くない?」
そう聞くと、彼女は首を横に振った。
「最初から、寒さは分からないよ。でも……」
「でも?」
「変わるのは、分かる」
その言葉が、胸に残った。
変わっているのは、季節だけじゃない。
ベッドの脇に落ちる影が、以前より淡く見えた。
気のせいだと、何度も言い聞かせた。光の加減だ、と。
その夜、彼女は僕の顔をじっと見ていた。
眠りに落ちる直前、視界の端で、その視線が揺れないままそこにあるのを感じる。
いつもなら、そのまま意識が切れる。
けれど、その日はなかなか眠れなかった。
「ねえ」
彼女が、珍しく先に声を出した。
「なに?」
「最近、まこと君……少し、薄くなってる」
意味はすぐには分からなかった。
でも、否定できなかった。
「生きてる感じが、前より遠い」
責める声じゃなかった。
むしろ、困っているみたいだった。
「大丈夫だよ」
反射的にそう答えた。
本当かどうかは、考えなかった。
彼女は小さく息を吐いた。
「ね。もし、私がここにいなかったら」
その言葉の続きが、聞きたくなかった。
聞いてしまえば、何かが決まってしまう気がした。
僕は何も言わず、目を閉じた。
しばらくして、ベッドの沈みが、ほんのわずかに変わった。
彼女が、いつもより深く腰を下ろした気がした。
「春が来るね」
独り言みたいに、彼女は言った。
それが、別れの準備だとは、
そのときの僕には、まだ分からなかった。




