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霜月の柳  作者: Sencho
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夜の向こう側

 部屋の照明は、いったんつけたあと、すぐに落とした。

 眩しさが、今夜だけはやけに現実的に思えたからだ。

 キッチンの手元灯だけが、狭い部屋の輪郭をぼんやり浮かび上がらせている。

 テーブルの上には惣菜と二つのグラス。

 一つにはビール。もう一つは、空のまま。

 彼女は飲めない。それでも、僕は同じ動作でグラスを置いた。

「ごめんね」

「ううん。いいんだ」

 何がいいのかは、分からなかった。

 缶を開ける。炭酸の音が、小さく弾けた。

 僕は一口飲み、今日あったことを話し始めた。

 上司に言われたこと。

 自分のミス。

 どうでもいいのに、引っかかっている出来事。

 彼女は、ただ聞いていた。

 それだけで、胸の奥が少し軽くなる。

「……ねえ」

 彼女が言った。

「私ね、気づいたら、あの柳の下にいたの」

 いつか聞く話だと思っていた。

「寒くもなくて、暑くもなくて。時間がどれくらい経っているのかも、分からなくて」

 彼女は、自分の手元を見つめる。

 そこには、影がなかった。

「誰かが通るたび、声をかけようと思った。でも、誰も立ち止まらなかった」

 想像できた。

 毎晩見てきた、あの通勤路だ。

「生きていた頃のことも、ちゃんとは思い出せない」

 少し困ったように笑う。

「名前だけは、覚えてたんだけどね」

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。

「まこと君が最初に会釈してくれたとき……すごく嬉しかった」

 初めて、彼女はこちらを見た。

「やっと、気づいてもらえた気がして」

 ビールの苦味が、いつもより強かった。

「だからね」

 彼女は声を落とす。

「こうして話せてる今が、夢みたいで」

 返す言葉が、見つからなかった。

 夢なのは、たぶん僕の方だ。

 しばらく、沈黙が流れる。

 時計の音だけが、規則正しく部屋を刻んでいた。

「……遅くなっちゃったね」

 彼女が言う。

「今日は、ここまでにしようか」

 彼女は、うなずいた。

「また、明日」

「うん。また」

 次の瞬間、彼女の姿は静かに消えていた。

 テーブルの上には、使われなかったグラスが一つ残っている。

 ――彼女は、生きていない。

 それでも、確かに、ここにいた。

 その事実だけが、夜の部屋に残っていた。


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