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霜月の柳  作者: Sencho
10/18

彼女はついてきた

彼女は、僕の少し後ろを歩いていた。

 振り返らなくても分かる。足音がないのに、そこに気配だけがある。夜の空気が、彼女の分だけ、わずかに薄くなっている。

 歩道橋を渡り、交差点を越える。

 駅前の喧騒は背中に残り、住宅街に入ると、街は急に静かになる。玄関灯の明かりが点々と並び、洗濯物の影が風に揺れている。

 いつもの帰り道だ。何度も歩いたはずの道なのに、その夜は距離の感覚が少しだけ違っていた。

 彼女は、ついてきている。

 来られないはずだと思っていた。

 柳の下から離れられない。そういうものだと、勝手に決めていた。

 地縛霊、という言葉が頭をよぎったのも、自分を安心させるためだったのだと思う。動けないなら、ここまで踏み込まなくて済む。期待しなくて済む。

 でも、彼女は来た。

 マンションの前に立ち、オートロックを解除する。

 自動ドアが開く音が、夜に響いた。僕は一歩踏み出してから、立ち止まる。

「……大丈夫?」

 振り返ると、彼女はそこにいた。

 ガラスの向こうでも、外でもない。ちゃんと、こちら側に立っている。

 なのに、オートロックのドアが閉まる音は、いつもより遅れて聞こえた気がした。

「うん」

 短い返事だった。

 それだけで、胸の奥に説明できない重さが落ちた。

 エレベーターに乗る。

 鏡張りの壁に、僕の姿だけが映る。彼女の姿は、どこにもない。

 それが急に不安になって、何度も視線を動かしてしまう。

「映らないんだね」

 僕が言うと、彼女は少し困ったように笑った。

「みたい」

 エレベーターが上昇する。

 階数表示が一つずつ増えていくたび、戻れなくなっていく気がした。

 柳の下で交わしてきた会話が、まだ街の一部だった頃が、遠ざかっていく。

 部屋の鍵を開ける。

 玄関に外の冷たい空気が流れ込む。靴を脱ぎ、電気をつける。

 いつもと同じ、狭いワンルーム。

 脱ぎっぱなしの上着、畳み損ねた洗濯物、流しに残ったコップ。

「……ごめん。散らかってて」

「ううん」

 彼女は、部屋をゆっくり見回していた。

 興味深そうでも、懐かしそうでもない。ただ、静かに確かめるように。

 スーパーで買った惣菜をテーブルに並べる。

 プラスチックの容器を開ける音が、やけに大きく聞こえた。

 ビールを冷蔵庫から取り出し、グラスに注ぐ。泡が立ち上がり、すぐに消える。

 彼女の前にも、同じようにグラスを置いた。

 中身は、空のまま。

「……飲めないの、分かってるけど」

「うん。でも、ありがとう」

 その言い方が、少しだけ嬉しそうだった。

 ソファに腰を下ろす。

 彼女はテーブルの向こう側に座った。

 距離は、柳の下よりもずっと近い。

 それなのに、触れられないことが、前よりはっきりと分かる。

 ビールを一口飲む。

 苦味が、喉を通った。

「今日さ……」

 気づけば、話し始めていた。

 上司に言われたどうでもいい一言。会議での小さなミス。

 普段なら誰にも話さないようなことばかりが、次々と口から出てきた。

 彼女は、黙って聞いていた。

 相槌を打つでもなく、遮るでもなく。ただ、そこにいる。

 話しているうちに、アルコールが回ってきたのか、頭の奥が少し緩む。

「……なんで、柳の下にいたの?」

 聞いてしまってから、後悔した。

 彼女は、少し考えるように視線を落とした。

「分からないの」

「分からない?」

「気づいたら、あそこにいた。理由も、きっかけも……思い出せない」

 声は淡々としていた。

 感情がないわけじゃない。ただ、どこか遠い。

「誰も、気づいてくれなかった」

 その言葉だけが、少し重く落ちた。

 柳の下を通り過ぎる人たちの姿が、頭に浮かぶ。

 スマホを見ながら歩く人。急ぎ足の人。

 僕自身も、その一人だった。

「まこと君は、気づいた」

 彼女が言った。

「たまたま、だよ」

 そう答えたけれど、しっくりこなかった。

 しばらく、沈黙が落ちた。

 惣菜はほとんど減っていない。ビールだけが、少しずつ減っていく。

「ここ、あったかいね」

「……外よりは」

「うん。ずっと、夜は寒かったから」

 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが決定的に動いた。

 彼女は、柳の下に戻るつもりでいる。

 ここにいるのは、今だけだと思っている。

 それが、どうしても受け入れられなかった。

 彼女は、来られた。

 実際に、ここにいる。

 戻す理由が、見当たらなくなってしまった。

 ふと気づく。

 彼女の足元に、影がないことを。

 部屋の明かりは、ちゃんとついている。

 僕の影は、床に伸びている。

 それでも、彼女の影だけが、どこにも落ちていない。

 分かっていたはずのことが、今さら現実味を帯びる。

 彼女は、生きていない。

 それでも――彼女は、ここにいる。

 その矛盾を抱えたまま、夜は静かに更けていった。


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