彼女はついてきた
彼女は、僕の少し後ろを歩いていた。
振り返らなくても分かる。足音がないのに、そこに気配だけがある。夜の空気が、彼女の分だけ、わずかに薄くなっている。
歩道橋を渡り、交差点を越える。
駅前の喧騒は背中に残り、住宅街に入ると、街は急に静かになる。玄関灯の明かりが点々と並び、洗濯物の影が風に揺れている。
いつもの帰り道だ。何度も歩いたはずの道なのに、その夜は距離の感覚が少しだけ違っていた。
彼女は、ついてきている。
来られないはずだと思っていた。
柳の下から離れられない。そういうものだと、勝手に決めていた。
地縛霊、という言葉が頭をよぎったのも、自分を安心させるためだったのだと思う。動けないなら、ここまで踏み込まなくて済む。期待しなくて済む。
でも、彼女は来た。
マンションの前に立ち、オートロックを解除する。
自動ドアが開く音が、夜に響いた。僕は一歩踏み出してから、立ち止まる。
「……大丈夫?」
振り返ると、彼女はそこにいた。
ガラスの向こうでも、外でもない。ちゃんと、こちら側に立っている。
なのに、オートロックのドアが閉まる音は、いつもより遅れて聞こえた気がした。
「うん」
短い返事だった。
それだけで、胸の奥に説明できない重さが落ちた。
エレベーターに乗る。
鏡張りの壁に、僕の姿だけが映る。彼女の姿は、どこにもない。
それが急に不安になって、何度も視線を動かしてしまう。
「映らないんだね」
僕が言うと、彼女は少し困ったように笑った。
「みたい」
エレベーターが上昇する。
階数表示が一つずつ増えていくたび、戻れなくなっていく気がした。
柳の下で交わしてきた会話が、まだ街の一部だった頃が、遠ざかっていく。
部屋の鍵を開ける。
玄関に外の冷たい空気が流れ込む。靴を脱ぎ、電気をつける。
いつもと同じ、狭いワンルーム。
脱ぎっぱなしの上着、畳み損ねた洗濯物、流しに残ったコップ。
「……ごめん。散らかってて」
「ううん」
彼女は、部屋をゆっくり見回していた。
興味深そうでも、懐かしそうでもない。ただ、静かに確かめるように。
スーパーで買った惣菜をテーブルに並べる。
プラスチックの容器を開ける音が、やけに大きく聞こえた。
ビールを冷蔵庫から取り出し、グラスに注ぐ。泡が立ち上がり、すぐに消える。
彼女の前にも、同じようにグラスを置いた。
中身は、空のまま。
「……飲めないの、分かってるけど」
「うん。でも、ありがとう」
その言い方が、少しだけ嬉しそうだった。
ソファに腰を下ろす。
彼女はテーブルの向こう側に座った。
距離は、柳の下よりもずっと近い。
それなのに、触れられないことが、前よりはっきりと分かる。
ビールを一口飲む。
苦味が、喉を通った。
「今日さ……」
気づけば、話し始めていた。
上司に言われたどうでもいい一言。会議での小さなミス。
普段なら誰にも話さないようなことばかりが、次々と口から出てきた。
彼女は、黙って聞いていた。
相槌を打つでもなく、遮るでもなく。ただ、そこにいる。
話しているうちに、アルコールが回ってきたのか、頭の奥が少し緩む。
「……なんで、柳の下にいたの?」
聞いてしまってから、後悔した。
彼女は、少し考えるように視線を落とした。
「分からないの」
「分からない?」
「気づいたら、あそこにいた。理由も、きっかけも……思い出せない」
声は淡々としていた。
感情がないわけじゃない。ただ、どこか遠い。
「誰も、気づいてくれなかった」
その言葉だけが、少し重く落ちた。
柳の下を通り過ぎる人たちの姿が、頭に浮かぶ。
スマホを見ながら歩く人。急ぎ足の人。
僕自身も、その一人だった。
「まこと君は、気づいた」
彼女が言った。
「たまたま、だよ」
そう答えたけれど、しっくりこなかった。
しばらく、沈黙が落ちた。
惣菜はほとんど減っていない。ビールだけが、少しずつ減っていく。
「ここ、あったかいね」
「……外よりは」
「うん。ずっと、夜は寒かったから」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが決定的に動いた。
彼女は、柳の下に戻るつもりでいる。
ここにいるのは、今だけだと思っている。
それが、どうしても受け入れられなかった。
彼女は、来られた。
実際に、ここにいる。
戻す理由が、見当たらなくなってしまった。
ふと気づく。
彼女の足元に、影がないことを。
部屋の明かりは、ちゃんとついている。
僕の影は、床に伸びている。
それでも、彼女の影だけが、どこにも落ちていない。
分かっていたはずのことが、今さら現実味を帯びる。
彼女は、生きていない。
それでも――彼女は、ここにいる。
その矛盾を抱えたまま、夜は静かに更けていった。




