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霜月の柳  作者: Sencho
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霜月の柳

この物語は、

特別な能力を持つ人の話でも、

奇跡を起こす英雄の話でもありません。


仕事を終え、疲れた足で帰路につく、

どこにでもいる一人の人間と、

もうこの世界に属さない一人の存在が、

ほんのわずかな時間、同じ場所に立ち止まった――

それだけの話です。


忙しさに押し流され、

足を止める理由を失った街の片隅で、

もしあなたがふと立ち止まることがあったなら。


そのとき、見過ごしてきた何かを

思い出すきっかけになれば、

それで十分だと思っています。


残業を終えて、ようやく駅を出た。

 改札の外は人の流れがせわしなく、誰もが自分の時間に追われている。

 スマホの画面を見ながら歩く人、イヤホンを押し込みながら足早に通り過ぎる人、コンビニ袋をぶら下げて信号を渡る人。

 みんな忙しく、みんな疲れている。

 足を止める理由なんて、どこにもない街だ。

 僕もその一人だった。

 頭の奥にまだ仕事の続きみたいなものが残っていて、思考だけが遅れて歩いている。体は前に進んでいるのに、心はまだ会社の蛍光灯の下に置き去りになっている感じがする。

 遠回りでもいいから、少しだけ静かな道を選びたくなる夜がある。

 僕は駅前の大通りを外れて、川沿いの歩道へ曲がった。街灯が間隔を空けて立っていて、車の音が少し遠くなる。川の水面は黒く、風だけが薄く流れている。

 そこに、柳があった。

 通勤の行き帰りで毎日通るような場所じゃない。けれど、なぜか僕はその木を知っている気がした。

 ――知っている、というより、覚えてしまうような木だった。

 枝が長く垂れていて、歩道の上に影を落とす。風が吹くたびに、細い葉がかすれて、ひそひそと話すみたいな音がする。秋が終わりかけた霜月の夜、その柳だけが季節に取り残されたみたいに揺れていた。

 僕はその下で、足を止めた。

 誰かが立っていたからだ。

 淡い色のコートを着た女性が、柳の枝を見上げていた。年齢は僕と同じくらい。髪は肩に触れるくらいで、風に揺れて、頬にかかっている。

 横顔が、妙にきれいだった。

 飾り気がないのに、視線だけがやけに澄んで見えた。

 こんな時間に?

 こんな場所で?

 それだけで十分に不自然なのに、僕はなぜか警戒より先に、胸の奥が小さく鳴るのを感じた。

 彼女が、こちらを向いた。

「……こんばんは」

 声は、はっきり聞こえた。

 耳に届く距離で、現実の音として。

 僕は思わず周囲を見渡した。歩道には人がいる。帰宅途中の会社員が二人、前を通り過ぎ、少し後ろから学生らしい二人組が笑いながら歩いてくる。

 誰も、彼女の存在を避けない。

 ぶつかるはずの距離なのに、人は彼女のすぐ横をすり抜けていく。

 ……見えていない。

 僕だけが、そこに“人が立っている”と認識している。

 喉が乾いた。

 疲れてるだけだ、と片づけたくなる。

 脳が勝手に幻を作ってる。そう思いたい。

 けれど、目を逸らしても、彼女は消えなかった。

「こんばんは」

 僕は、ぎこちなく返した。

 返した瞬間に、変な気持ちになった。

 誰かに挨拶するのなんて普通のことなのに、今は、普通じゃない何かに触れた気がした。

 彼女は小さく会釈した。

 笑うでも、怯えるでもなく、ただ、そこにいることが当たり前みたいに。

 柳の枝が揺れて、薄い影が歩道に揺らめく。

 なのに彼女の足元だけ、影が落ちないことに、僕は遅れて気づいた。

 心臓が一拍、遅れる。

 呼吸が浅くなる。

 ――やめろ。見なかったことにしろ。

 そういう声が頭のどこかで鳴った。でも、足は動かなかった。

 彼女は僕を見ていた。

 見ている、というより、やっと気づいてくれた人を見る目だった。

 その目に、僕は負けた。

 霜月の夜。

 柳の下で、僕は足を止めてしまった。


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