2.冒険
「ミルは、200階より下に行ったこと、ある?」
自分には居場所がないのだと、ぽつりと語るミルを見た俺は、これまで自分が見てきたあの温かい世界を、どうしても見せてやりたくなった。
「200階は…ないなぁ。実際、この階に来るのも大冒険のつもりだったからね。でも、行ってみたいとは思っているよ」
返ってきた声は、ほんの少し弾んでいた。
その期待を逃したくなくて、俺は一気に言葉を続ける。
「じゃあさ。もしミルが良ければなんだけど、明日、行ってみない?車椅子でも使えそうなエレベーターがあって、ちょっと触ってみたら修復できたんだ」
「えっ!? エレベーターを直したのかい?凄いじゃないか、レイ!」
ミルは目を丸くして、心底驚いたように笑った。
俺達の住む300階あたりまでは、比較的新しく作られた区画だ。だから、まだ動くエレベーターやエスカレーターも残っている。
けれど、それより下ともなると話は別で、動かない設備ばかりか、そもそも階段しかない場所も多い。
足の不自由なミルにとっては、あまりにも不便な世界だった。
そんなある日、街の外れで、まだ電気の通っている古いエレベーターを見つけた。
ーーもしかしたら。
そう思って操作盤に触れてみるものの動かない。それでもまだ諦めきれなかった俺は、回路が悪いのか、はたまた故障している部分があるのかと試行錯誤を重ねた。
ミルが降りて来なかった日は、一日中そのエレベーターにかじりついていた。
そうやって数日がたったある日。熱で焼き切れていた部品を交換し、断線していた配線を繋げた、その瞬間だった。ゴウンと低い唸り声が辺り一帯に響いた。
胸の高鳴りを抑えきれないまま、再び操作盤を触る。すると、動いた。ゆっくりと、大きな銀色の扉が開いた。
思わず声にならない歓声を上げ、試しに乗ってみると、それは205階、すなわちソアリの住む世界まで続くエレベーターであった。
これで、いつでもミルと一緒に下へ行ける。
そう思うと、自然と笑みがこぼれていた。
次の日、俺達はそのエレベーターに乗り込んだ。
「やっぱり緊張するな…」
ミルはそう言って、無意識に俺の袖を掴む。
「大丈夫だよ。みんな、すごく温かい人達なんだ。それに、喜ばしいことではないんだろうけど、ソアリの街にはほとんどテレビがなくて、他の情報も遮断されがちなんだ。だから、ミルだって気づかれることも、そうそうないと思う。なんだったら、どの民族なのかすらも彼らは気にしちゃいないからね」
「そんな世界が、今もあったんだ…。私の知っている世の中は、相当小さかったんだね」
「大丈夫。今から一緒に、広げていけばいいんだから」
そう言うと、ミルは少しだけ安心したように、袖を握る力を緩めた。
エレベーターは、205階で止まった。
チン、と高いベルの音がして、扉が開く。
隣から小さく息を吸う音がした。
エレベーターから出ると、少し広い空間が広がった先にいくつかの広い道が続いていた。
「…人の声が、賑やかだね」
確かに遠くから笑い声や呼び込みの声が聞こえる。それは俺たちの住む世界ではほとんど聞くことの無い雑踏、生きた音であった。
音を頼りにいくつかの曲がり角を曲がると、一気に人通りが多くなった。
人の作り出す温かな空気が肌に触れる。油や焼きたてのパン、仄かな香水の匂いが混ざり合い、肺いっぱいに流れ込んできた。
ああ、久々だな、この感覚。
ゆっくりと車椅子を押し、歩き始める。
ソアリの街特有の大きな窓から、新鮮な風が吹き込んできた。
「わっ…!」
「おっと、ごめんよ嬢ちゃん!」
車椅子と通行人がぶつかってしまった。
すみません、と慌てて頭を下げる。
心配になってミルの顔を覗くと、驚いた顔をしながらも、何だか嬉しそうに周りを見渡していた。
それから俺達は街を歩き、いくつもの店を眺めて回った。
パン屋、雑貨屋、服屋、その他色々な店舗が連なる道を歩いた。おもちゃ屋では読み聞かせをしていて、子ども達が身を乗り出しながら耳を傾けている。
最初はどこか強張っていたミルも、次第に目を輝かせていった。
「……ここでは、みんな楽しそうだ。人と関わることって、こんなにも大切なことだったんだね」
その横顔を見て、連れてきて良かったと、心から思った。
ふと、遠くに見覚えのあるのぼりが見えた。
緑色のシャツを着た店主が、店頭に立っている。
「あ、ねぇミル。ちょっとあの店に寄ってもいいかな?」
「うん。行こう、レイ」
迷いのない返事だった。




