大鏡の怪
中学二年のリュウスケくんには、気になっている女の子がいました。同じクラスの子で、少し変わっているのです。
名前はサキサワさんといいました。みんなとあまり話をせず、いつもうつむいて自信がなさそうにしている人でした。
面倒見のいいリュウスケは、同じクラスになったときからずっと気にかけてはいたのですが、相手は女の子ですし、話しかけることもできずに過ごしていました。
7月、もうすぐ夏休みという、雨降りの日でした。
犬の散歩をしていたリュウスケは、川向こうのグラウンドでサキサワさんを見かけました。赤い傘をさして、グラウンドの南の端のほうで、ずっと立っています。
何をしているのか気になり、リュウスケはゆっくりと横を通り過ぎてみました。
サキサワさんは、いつのまにか現れた大きな鏡の前で、じっと自分自身を見つめていたのです。
自分に自信を持ちたいとき、人は鏡を見るものだと聞いたことがあったので、リュウスケは、クラスメイトと話をするためにひとりで練習でもしているのだろう、と思いました。
その日は声をかけずに、リュウスケは家に帰りました。
翌日も雨が降っていました。
やはり、サキサワさんはグラウンドで、鏡の前に立っていました。
サキサワさんの姿を見かけるようになってから四日目のこと、リュウスケは犬の散歩をはやくすませて、いつもの時間に自分だけジョギングに出かけました。
やはり、鏡の前にじっと立っているサキサワさんがいました。いつもの赤い傘が見えます。
さすがにおかしいと思って、リュウスケはこっそり近づいてみました。サキサワさんはまったく気づいていない様子で、鏡から目をはなしません。
後ろから鏡を覗きこんだリュウスケは、はっとしました。
鏡には景色が映っているだけで、サキサワさんは映っていません。それなのに、サキサワさんは鏡の前で髪型をととのえてみたり、微笑んでみたりしているのです。
次の日、リュウスケは学校帰りにグラウンドに直行して、サキサワさんより先に鏡の前に立ってみました。すると、鏡のなかにはリュウスケの姿がはっきりと映しだされました。
(あれ、普通の鏡なのかな)
リュウスケがもっとよく確かめようと顔を近づけると、鏡のなかのリュウスケは、まるで雑誌のモデルのように顔立ちのととのった、素晴らしい少年に見えました。ちょっと引いて見ると、足は長く、背も高く、ほどよく筋肉のついた理想的な体つきをしています。
これだ、とリュウスケは思いました。
(サキサワさんは、ここで美人になった自分を見ていたんだ)
リュウスケはそんなに良いものだと思いませんでしたが、クラスにうちとける仲間のいないサキサワさんには、きっとすてきな贈り物に思えたことでしょう。毎日、ここで美しくなった自分の姿を見て、自信を取り戻し、幸せな気分にひたっているのです。
すこし気味が悪いけれど、これでサキサワさんが楽しいのなら、とやかく言うこともないと思って、リュウスケは帰りました。
(まさか、鏡にとりつかれるなんてことがあるもんか)
次の日も、サキサワさんは雨のなか、鏡の前に立っていました。部活帰りのクラスメイトも何人か、そうして立っているサキサワさんの姿を見かけており、いつ帰っているのかわからないほど長いあいだ、そうしているらしいのです。
リュウスケは、思い切って声をかけてみました。
「サキサワさん、何してるの」
しかし、サキサワさんは鏡をうっとりと見つめるだけで、どんなに大声で呼びかけても気づきません。
「サキサワさん!」
鏡には、うっすらとサキサワさんの姿が映って見えました。
その次の日は終業式でしたが、サキサワさんは欠席でした。
胸騒ぎがして、リュウスケは終業式が終わってすぐにグラウンドに向かいました。急に雨が降り始め、グラウンドにはいつもの赤い傘が見えました。
「サキサワさん」
遠くから呼びましたが、サキサワさんは鏡に見入っています。
グラウンドへの階段を下りようとしていたリュウスケは、思わずその足を止めました。鏡のなかのサキサワさんが、よりはっきりと見えるようになりました。ファッション雑誌のモデルのような美人です。
今日で、鏡の前に立つサキサワさんを見かけるようになってから、ちょうど一週間目でした。
リュウスケは嫌な予感がして、階段を駆け下りました。
けれど、サキサワさんのところへ走っていく前に、サキサワさんの体はふっと煙のようになって、足のほうから鏡の中に吸い込まれていきました。
あとには、サキサワさんの赤い傘だけが残っていました。
呆然と立ちつくすリュウスケは、鏡のなかのサキサワさんを見ました。にやにやした、いやな笑いを浮かべていました。まるで、それはサキサワさんではなく、サキサワさんの体をもらった別のものでした。
リュウスケは寒気がして、階段を駆け上がり、家に逃げ帰りました。
翌日、リュウスケは友だちにすべてを話し、いっしょにグラウンドへ行きました。
そこに大鏡はなく、昨日サキサワさんが残していった傘もありませんでした。
しかも、友だちはここにサキサワさんが立っていたことは知っていましたが、大きな鏡なんてどこにも見えなかった、と言うのです。
「そんな、だって確かにここに……」
リュウスケが指差した地面には、くっきりと細長い溝が残っていました。大鏡は、たしかにここにあったのです。
それ以来、リュウスケが再び大鏡を見ることも、見たというひともありませんでした。
そして、サキサワさんの姿も、二度と見ることはなかったのです。