終わらない悪夢
何度も何度も、際限なく同じ悪夢の続きを見る。
そんな経験は有るだろうか?
どうしてもその夢のことを考えてしまうからだ、眠るときにあの悪夢の内容が頭を掠めるからだ。
楽しいことを考えて眠ればいい、人はそう言う。
けれど、どうやって楽しいことを考えよう?
眠りに落ちる前に聞こえるあの音。
否応なく聞こえてくる、耳の中で鳴り響くその血が脈打つ音こそが、ヤツの足音。
そして耐え切れずにおちるまぶたの、夢の暗闇の中にヤツはいる。
その顔は目の前だ!
Cは幼稚園に通う4歳の幼児だった。
ある時、テレビである人形劇を観た。
バラエティの人形版で、子どもたちと外国チックなマペットや着ぐるみが楽しくおしゃべりし、歌う。
マペットや着ぐるみたちのほとんどは、「モンスター」だ。
実在しない生き物、居そうだけど居ない生き物、怪物その他。
でも、みんな明るく楽しい性格で、子どもたちの人気者だった。
Cはクッキーが大好きな青いモンスターが好きだった。
そんなある日。
何気なくつけたその日のプログラムで、ヤツは現れた。
茶色くけむくじゃらの大きな体に、長い鼻。カーテンのようなまつげ。
おまけに耳がなく丸い頭に、大きな大きな目!
Cは仰天してテレビから逃走した。
目に焼きついた!
どんな恐竜のパニック映画よりも恐ろしいものを見た!
そう思った……
その日から、Cをとんでもない悪夢が襲うようになった……
ヤツは、Cの暮らす築五十年の古い木造家屋に出現した。
夢の中で精巧に表された床の間では、こだま電球がぼんやりとした、儚げなオレンジの光を落としている。
照明はそれだけで、あとは暗闇。
Cはそれを、隣の客間から見つめている。
ずっと見つめている。
なにせ、逃げ出したくとも体は動かない。突っ立ったまま、ヤツの足音を聞いている……
床の間の左手は寝室だ。普段は、Cのおじいちゃんとおばあちゃんが寝ているベッドだ。
しかし、そこから現れるのは見慣れた祖父母の顔ではない。
背丈は130cmほどだろうか。
まるでプードルみたいにくるくる巻いた、茶色の毛をびっしり生やしたそいつは、
耳のない頭から垂れる長い鼻を、体ごとゆらゆら揺らしながら、
ゆっくりゆっくり現れる。
そう、見てくれは小さく、耳のない茶色の象だ。
ヤツの名前はゾーフィン。
直接聞いたわけではない。
はじめて見たその日から、ヤツはゾーフィンだった。
安直なネーミングの気もするが、当時のCは必死だったのだ。察していただきたい。
ゾーフィンはCをすぐに見つける。
Cから決して目を離さない。
小さな、黒目しかない目をじっとCに向けたまま、ゆっくりゆっくり近づいてくる。
もうすぐ息がかかる!
その時になって、ようやくCの体は解放される。
でも、足がもつれてうまく逃げられない。
もやのようなものがじゃまして、走れない。
転んでしまった!
ヤツはすぐ後ろにいる。
生暖かい息が足にかかっている……
血管の脈打っている深く重い、低い音……ヤツの足音が耳にこだまする。
息が耳にかかる。
もうだめだ!
捕まってから何をされるのか、ということまでは、考えていられない。
捕まったら、それだけでおしまいだ。
ゾーフィンの恐ろしいところは、これからだ。
ヤツは、Cの目の前まで迫り、大きな口を開けて笑って見せるのだ。
そう、それだけだ。
実際には人間を食べてしまうらしいけど、Cには幸い、かじられた記憶はない。
猛烈に足を引っ張られて暗闇に引きずりこまれるか、
その笑顔を見せ付けてくるか、どちらかだ。
その笑顔とは、どんなものか。
けむくじゃらの顔の、黒目しかなかった目が、Cを見下ろして三白眼になる。
上のほうに白目が表れる。血走った白目だ。
そして、垂れ下がって振り子のように揺れる鼻の下に見える、口。
それは人間の口だ。
しかも臼歯しかない。
四角く白い歯が上下に一列ずつ、ぴっしりと並んだ口。
開けると絵の具のように真っ赤な口。
その口で、ゾーフィンは満面の笑みを浮かべる。
そこで、Cはばっと目を覚ます。
文字通り、飛び起きる。
ちなみに、この時は夢のなかで再び眠るような感覚に陥っていたようだが、
もしかすると、Cは軽く気絶していたのかもしれない。
とにかく目が覚めたのはいいが、夜中の2~3時という、途方もない時間である。
母親を起こすが、寝かしつけられる。
すると、何が起こるか。
ゾーフィンはまだそこで待っているのである。
そう、目を閉じると、すぐそこでまだ笑っているのである。
強制的に悪夢の世界に引きずり込まれ、何度も目覚め、という悪循環である。
「楽しいことを考えなさい」
という母親の声も、たしかにまだ聞こえる。
半分は起きている段階だ。
だが、目の前にはゾーフィンである。
この二度目のゾーフィンショックの後、いつもCには夢の記憶がなくなる。
ブラックアウト。
これは、ほんとうに気を失っていたのかもしれない。
4歳児には刺激が強すぎる内容であったようだ。
そして。
なんと中学生になっても、Cはゾーフィンの悪夢を見続けていたのである!
もちろん、相手もCの成長とともに進化している。
やたら足が速いゾーフィンもいれば、屋外まで追ってきて先回りしているゾーフィンもいる。
人食い専門の白いゾーフィンもいれば、希少な黒いゾーフィンもいる。
人型をしていて、Cの足を暗闇へ引っ張り込み続けるものもいれば、
ふと気配を感じて見上げた高い窓の向こうからじっとこっちを見つめているもの、
陽気だけどやたらでかいマンモス級のゾーフィンで、唐突に「そろそろ君たち食べていい?」とか聞いてくるもの。
エトセトラ。
ただベッドの下や洗濯機の下の隙間に隠れているだけ、でもあの音は聞こえる、
という不気味な種類も存在する。
こういうのは、目が覚めてからのほうが怖いタイプと言えよう。
Cも負けてはいない。
6年生あたりから、なんとゾーフィンを攻撃するようになっていた。
チャレンジャーである。
夢の中であることをいち早く察知し、目を覚ますことがないまま、夢をコントロールする。
ゾーフィンの恐怖に対抗するべく、Cが身に着けた、涙ぐましいまでの能力である。
(現在は、普通に夢のなかを楽しく過ごすために活用されている、とのこと。
Cは武器を手に、果敢にもゾーフィンに向かっていく。
そう、悪夢はその人の潜在的な意識から生まれたもの、いわばその人の創造物のひとつ。
ということは、自分で悪夢の「弱点」をつくることだって可能なわけである。
Cは何度もゾーフィンに立ち向かう。
怖いことには変わりないが、なぜか近接系の武器が多かったらしい。
ある時は棒で、ある時は包丁で(!)メッタ刺し。
しかし、ゾーフィンはいつも変わり身をたてて、すり替わり、消えてしまう。
いつまでも終わらないゾーフィンの恐怖……
そして、数年後。
Cは不思議な夢を見た。
巨大な川、闇のなかでどこまでも端が見えないが、どこまでも真っすぐに流れる川。
そこを、誰かと一緒に木製の船でのぼっていく。船は川の流れを逆走していた。
船頭が中州を指差した。
「ほら、あれが・・・」
グレートマザーだったか、女王だったか、とにかくそんな意味合いの言葉だった。
けっこう大きな中州だが、川の大きさのせいで小さくも見える。
そこに、今までのどのゾーフィンよりも巨大なゾーフィンが佇んでいる。
彼女(船頭いわく女性。以下、クイーンと呼ぶ)には耳がある。完全にマンモス寄りの姿だ。
クイーンは俯き、中州を形作っているたくさんの花々の中で、祈るようにじっとしている。
Cはゾーフィンを弱体化させるために、彼らは死ぬと花の種に変えられ、
一度枯れると二度と甦らない、という設定をもうけていた。
これが適応されているらしい。
つまり、クイーンはゾーフィンたちのなきがらのなかに佇んでいたわけである。
花はどれも淡く光り輝き、この世のものとは思えないほど美しい。
Cたちはそのまま、川をのぼり続け、いつの間にか川を脱している。
そこは海辺のレストランだったか、野原だったか、定かではない。
それきり、Cはゾーフィンの夢を見ることはなくなった。
気配を感じるようなことはあっても、夢にその姿を見ることはなくなったのである。
それ以来、Cは思い返すことがあるという。
あのゾーフィンという化け物は、単なるトラウマの夢に過ぎず、
実は途中から実体化していた、つまり実在しかけていたのではないか、と。
けれど、それを創造していた自分自身が、全力でゾーフィンの存在を否定しようと努力したことで、
泡のようにその存在はもろく消え去ってしまった。
それが、あの最後に見た夢だったのではないか、と。
今では、もう存在を信じることもないゾーフィン。
しかし、時々ぞくりとすることがある。
もしかして、また見られているのかも知れない、と感じることがある。
あの、黒目しかない目で……
それは夢の中か? といえば、そうではない。
現実の世界で、の話である。
追記。
Cは自分の逃げ道を確保するため、ゾーフィンは大人には攻撃することができない、という設定を課した。
夢の中に存在する大人のところまで逃げれば、助かるという抜け道である。
ところが、とっくに成人したCの夢に、ゾーフィンや亜種らはしつこく出演中らしい。
Cは恐怖に震えながらも、相変わらずモンスターたちを返り討ちにしているようだが、「戦って倒しても実態がない。違うものにすりかわって、逃げられてしまう」そう。
大人は攻撃しない、というルールは適用されていても、ただそこに居るだけで充分に精神的な害がある。
Cの悪夢はどこまで続くのか……
※「終わらない悪夢」は、ノンフィクションです。
ちなみに、悪夢の原因になったと思しきキャラクターは哲学者。
とっても名前が長く、コアなファンも多数。
ただし、Cにとっては今も「末恐ろしいデザイン」のモンスター。
妹も存在するそうな……