【9話】白昼
ピピピピ…ピピピピ……
翔真の部屋にアラームが鳴り響いた。
「うっ……」
翔真は寝ぼけた手でスマホをつかみ、アラームを止める。
スマホの画面には「6:00AM」の文字が表示されている。
昨日は早く寝たはずなのに、夢見が悪かったせいか、まだ眠気が抜けず、身体も重だるい。
布団にもぐり、枕に顔を埋めた。
気づけば、そのまま寝てしまっていた。
パッと目が覚め、時計を見ると、時刻はすでに六時半を過ぎていた。
翔真は寝過ごしたことに気づくと、布団を蹴飛ばしながら慌てて飛び起きた。
眠気を覚ますように顔を洗い、歯を磨いたあと、祖母が用意してくれた朝食を急いで平らげる。
「ごちそうさまでした!」と言うと、翔真は急いで祖父のいる畑へと向かった。
外に出るといつも通りの朝の匂いが漂っているが、翔真はその感覚が何だか遠く感じた。
小さな坂を下った先、朝霧に包まれた段々畑には、すでに祖父の姿があった。
翔真は毎朝のように、学校へ行く前にこの畑での作業を手伝っている。
坂をゆっくり下っていると、後ろから咲凪が走って追いかけてきた。
まだ少し寝ぼけた様子の翔真の肩を、バシッと叩く。
「私も手伝うよ!」
そう言うと、一目散に下の畑へ駆けていった。
畑に着き野菜の様子を見ていると、一匹の野良猫が茂みから姿を現した。
茶色と黒の混じった毛並みに、くりっとした瞳。まだ生まれて間もないような子猫だった。
「おっ、子猫だ!可愛いな。おいで」
翔真はしゃがみ込み、優しく声をかけながらそっと手を伸ばす。
子猫は翔真に気づき、一瞬だけこちらを見ると、ひょいと身を翻し、茂みの奥へと駆け去ってしまった。
「……ああ、逃げちゃった」
翔真はその場にしゃがんだまま、小さくため息をついた。
「俺、動物からあんまり好かれねぇんだよな〜」
茂みに消えた猫の方を見ながら、彼はふっと苦笑いを浮かべた。
そのまま、何事もなかったように立ち上がると、スプリンクラーの元へ行き、静かに蛇口を捻る。
畑に水をやり終えると、祖父は手を振りながら二人を見送った。
翔真と咲凪は「いってきまーす」と声をかけ、ゆっくりと坂を昇っていく。
咲凪は少し得意げな顔をして、翔真の方をちらりと見て言った。
「今日は私が手伝ったから、いつもより早めに学校に着くでしょ!」
「あぁ。助かったわ、今日は歩いて登校できそーだ」
「ふふ、私に感謝してよね!……って、なんか今日顔やつれてない?大丈夫?」
歩きながら、少しいつもと違う翔真の顔を見て、咲凪が心配そうに言ってきた。
「あー、ちょっと寝不足なだけ。心配すんな。」
「……ふーん、昨日は私より早く寝てたっぽいのにね!まあ元気ならいいけど!」
咲凪は納得したように頷いたが、翔真の心にはまだ昨晩の夢の余韻が残っている。
その事を考えていると、少しネガティブな気持ちが湧いてきたが、すぐにそれを振り払い、思考を切り替えた。
朝の光が優しく照らす中、二人は自宅へと戻った。
制服に着替え、学校へ行く準備を済ませる。
準備を終えた二人は、祖母に声をかけ、家を出た。
学校近くの通学路へ足を踏み入れると、坂の上に広がる街の景色が目に入った。
民家の屋根の隙間から差し込む陽光と、どこかから漂うパン屋の香ばしい匂い。
遠くからは、制服姿の生徒たちの笑い声や、自転車のブレーキ音が風に乗って聞こえてくる。
まだどこか冴えない翔真の表情を見て、咲凪が声をかけた。
「ねえ、翔真!今日の部活終わり元気だったら一緒に角煮まん食べて帰ろうよ」
翔真は少し驚きつつも、いつものように軽く返事をした。
「おう、いいぜ。終わったら正門前集合な」
「おっけー!今日は自主稽古ナシね!」
「わーったよ。」
二人は校舎に入り、下駄箱に靴を直し、三階まで階段を上がる。
それぞれの教室が近づいてくると、翔真は不意に顔を上げ、咲凪に向かって笑いかけた。
「さて、今日も一日頑張るか!」
「うん、頑張ろうね!」
二人は別れた後、それぞれのクラスへと足を運んだ。
教室の空気が、昨日と変わらぬリズムで流れていることに、翔真はほっとしたように息をついた。
今日も、何事もなく、普通の日が始まるのだろう。
―そう思っていた。
――――
―朝の陽ざしが差し込む廊下を歩きながら、天國熾埜は、ゆっくりとした足取りで教室へ向かっていた。
教室に朝のざわめきが満ちている中、熾埜はいつものように窓際の席に座って、ぼんやりと外を眺めていた。
「おはよ、熾埜!」
元気な声とともに、美緒が熾埜の隣の席に腰を下ろす。
「美緒ちゃん、おはよう!」
「ねえねえ、今日さ、放課後ヒマ?」
「放課後?うん特に何も無いし暇だよ」
「おー!前言ってたクレープ屋、期間限定の新作出てるって!よかったら一緒に行かない?」
「え、行きたい!!新作どんなクレープだろう!」
熾埜は驚きと嬉しさを感じながら、少し顔を赤らめる。こんな風に、誰かに誘われるのは久しぶりだったから、心の中では少しだけドキドキしている。
「よっしゃぁ!じゃあ放課後終わったらバスに乗って移動ね!」
「うん!楽しみ〜!」
教室のチャイムが鳴り、ざわついていた生徒たちが次第に静かになっていく。
「じゃまた後で色々決めよ!」
そう言うと美緒は自分の席まで戻っていった。
熾埜は教科書を手に取り、心の中でそっと呟いた。
(私の人生も、これからちょっとずつ変わっていけたらいいな)
今日という日は、熾埜にとってほんの少し特別な日になりそうだった。
――――
―午前十一時過ぎ、九馳中華街の外れにある外海音町にて。
鴛ノ屋 宰は石畳を踏みしめながら、静かに歩を進めていた。
石畳の階段を登った先、海を見下ろす坂道の途中に廃墟の洋館があるエリアがあった。
そこは、かつて異国の商人たちが住まいを構えていた“旧・外国人居住区”。
樹々に隠れるようにして佇む古びた洋館。
敷地は錆びた鉄柵で囲われ、門には「立入禁止」の看板が掲げられていて、普段から人の気配は全くない。
この土地は、かつて宰の祖父が所有していた私有地であり、現在は宰が誰にも知られないようにこの館に出入りしていた。
宰は門の前で立ち止まると、上着の内ポケットから三個の古びた鍵がついたキーリングを取り出す。
鍵を差し左に回すと、ガラガラと錆びた引き戸門扉を横にスライドさせ、敷地内に入ると、
再び入口の門扉を元に戻し、鍵を閉めた。
雑草が地を覆っており、鬱蒼と茂る木々の合間をかき分けながら進んでいく。
洋館の前に着き、二つ目の鍵を使い重厚な入口の扉を開けると、古めかしい匂いが鼻をくすぐる。
室内には、今も電気と水が通っており、
分厚いベルベットのカーテンが外界の光を遮る中、
アンティークのランプがゆるやかに橙色の光を灯していた。
床は足音が吸われるような厚手のカーペット。
棚には革張りの書籍が並び、壁にはかつての洋館所有者や、代々続く鴛ノ屋家当主の肖像画が飾られていた。
洋館の奥――地下に繋がる階段を降りた先に扉がある。
宰は三つ目の鍵を使い、その扉の奥へと進む。
扉の奥には小部屋が在った。
部屋の空気は静かで落ち着いており、どこかクラシックな香りが漂う。
正面の壁際には、真鍮の燭台やアール・ヌーヴォー調のランプが飾られ、古びたチェスターフィールドのソファが低く構え、その上には金唐紙のクッションが並べられている。
棚には紅茶缶やコーヒー豆のボトル、懐中時計、古びた蓄音機、海軍の軍艦レプリカが置かれ、部屋の隅にはモノクロの写真や洋館の絵葉書が飾られていた。
宰は棚からコーヒー豆の入ったボトルのひとつを手に取り、蓋を開けた。
「……今日の気分はマンデリンやな」
そう呟くと、近くに置いてある、手挽きのコーヒーミルに豆を流し込んだ後、電気ケトルに水を淹れ、お湯を沸かす。
その間、コーヒーミルのハンドルを回し豆を挽く。
ガラガラと歯車が噛み合うような音が静かな部屋に響き渡る。
豆を挽き終え、出来た粉をドリッパーに移し、お湯をゆっくりと注いでいく。
出来上がったコーヒーを、白い磁器のカップに丁寧に淹れる。
カップの縁から、ゆらりと湯気が立ちのぼる。
宰はコーヒーカップを片手に取り、もう一方の手でソーサーを支えながら机の前へと移動した。
視線の先には壁一面に取り付けられた巨大なコルクボードがあった。
地図や記事の切り抜き、写真、そして手書きのメモが無数に貼られていた。
赤いペンで記された注釈や矢印が複雑に交差し、まるで蜘蛛の巣のように情報が張り巡らされている。
宰は静かにそのボードに貼られた情報を眺め、一瞬だけ目を細めた。
視線を戻すと、机の上にコーヒーカップとソーサーを置き、革張りの椅子にゆっくりと腰を下ろす。
淹れたてのコーヒーを一口飲むと、椅子の背もたれに背中を預けた。
「まーた異人が湧きやがったか……」
そう言うと、卓上の万年筆を手に取り、新たな記録をバンクペーパーに書き込む。
「今回の出現場所も時環市圏内、だけど襲われた人の年齢や性別は相変わらずバラバラやな……」
宰はバンクペーパーに情報を書き終えると、椅子から立ち上がり、コルクボードに貼り付けた。
「これ以上、犠牲者は増やされん。……師匠を早く見つける為にも……」
大型の古い書棚の前に移動し、右端にある黒革の背表紙の分厚い洋書に手を伸ばす。
軽く指先を滑らせ、あるページに触れると、カチリと小さな音が響いた。
次の瞬間、書棚の下部にある、一見飾りのような彫刻が施された装飾パネルが、わずかに奥へ沈み、ギィィと低く軋む音を立てながら横にスライドしていく。
現れたのは、重厚な鉄製のロック付き収納ケース。
鋲打ちされた表面には、長年の使用を感じさせる擦れがあった。
宰はしゃがみこみ、慣れた手つきで暗証番号を打ち込んだ。カチッ、という音と共にロックが外れる。
フゥーと深く息を吐き呼吸を整えると、収納ケースの蓋を開いた。
「できれば、物騒な事はしたくなかっちゃけどね」
ケースの中に手を伸ばし、中に入ってる物に触れる。
金属の冷たさが静かに指先に伝わる。
重みを確かめるように、宰はゆっくりと持ち上げた。
目を伏せたまま、ほんの一瞬だけ息を止める。
手に取ったそれを、衣服のポケットにそっと仕舞うと、静かに収納ケースの蓋を閉じた。
書棚を元の状態へと戻し、再び机の前へと戻った宰は、椅子に深く腰を下ろした。
卓上に置かれたカップを手に取り、少しぬるくなったコーヒーを飲む。
コーヒーの苦味が舌に広がるのを感じながら、ゆっくりとカップをソーサーの上に戻した。
目を閉じたまま、宰は首を少し反らせ、顔を天井へと向けた。
何も言わず、しばらくそのまま、思考を沈めるように身を預ける。
静寂を破るかのように、ズボンに入れていたスマホから通知音が鳴った。
それと同時に宰は目を開けた。
その瞳に迷いはなく、覚悟を決めた者のように鋭く揺るぎのない眼差しだった。




