【7話】夢現
―その晩、翔真は不思議な夢を見た。
空は、深い藍色と薄い紫色に染まり、ゆっくりと回転する幾何学模様が浮かんでいた。
夜のようで、夜ではない。星も月も灯りもないのに、なぜか暗くなかった。
「……ここは何処だ?」
気づけば、翔真はどこかの丘に立っていた。
風が吹き抜け、膝丈の草が波のように揺れている。
すぐ傍で、折れた旗がかすかに揺れていた。
少し目を細め、丘の先に広がる風景を見渡した。
遠くには崩れかけた螺旋状に連なる巨大な石造りの建造物とその下には朽ち果てた城と門のような物が見えた。
ところどころ瓦礫が崩れ、空へ向かって刺さるように聳えているその建造物は、まるでかつて繁栄していた文明の残骸のようだった。
見知らぬ風景を眺めていると突然、自分の意思とは無関係に、翔真の足が自然と前へと動き出す。
丘を下るたびに、空気が変わっていく。淀んだ瘴気が足元から這い上がり、周囲の草は次第に枯れていき、やがて荒廃した大地へと変わっていく。
荒廃していく大地を進むうちに、翔真はやがて、城の門の前に立っていた。
門は高く、鋭い尖塔のような装飾が施されている。かつては栄華を誇ったであろう重厚な彫刻の数々は、いまや風化と崩落で原形を失っていた。
門の隙間からは黒い霧のようなものが流れ出していた。
翔真の手が、気づかぬうちに門の扉へと伸びていた。
触れた瞬間、石の感触と共に、地の奥底から鳴り響くような重い音が耳に響く。
そこには静謐で何処か不気味な空間が広がっていた。
城内に足を踏み入れる途端、辺りの景色は一変する。
空はどんよりとした灰色の雲に覆われ、まるで永遠に晴れることのない嵐のような暗い空に変化した。
足元には不安定な石畳が広がり、ところどころ上の足場や屋根が崩れたのか、瓦礫の山となっていた。
不気味な静けさがその場所を支配しており、そこにかつての人々の気配を感じることはできなかった。
―まるで、終焉の後のように静かだった。
曲がりくねった回廊を抜け、崩れかけた神殿の壁をくぐり、幾つもの階段を登る。
そして、最後の長い石段を登りきったその先、視界が開け広場のような場所に辿り着いた。
風化し、ひび割れた柱がいくつも斜めに立ち、石畳の上には巨大な爪痕のようなものが刻まれている。
中心には黒い石碑がひとつだけ立っていた。
その周囲を取り囲むように、無数のクリスタルのようなものが浮かんでいる。
翔真が石碑の前に立ち尽くしていると、
それまで沈黙していた空間が、突如として揺れ始めた。
やがて一面に七色の光が差し込み神々しい雰囲気が漂った。
――真上を見上げると空の中心に、“何か”がいた。
それは、形を持たない。
光のようにも影のようにも、渦巻く雲のようにも見えた。
その周囲を七色の光がゆらりと揺れながら空中を漂っていた。
その存在に気づいた瞬間── 重く、透明な何かが肌にまとわりつく。
そして頭の奥に、自分ではない“誰かの記憶”のようなものが、かすかに流れ込んできた。
「……なに、これ……」
大地を割るような轟音が響き渡り、空が、不自然にうねり始める。
波打つ水面のように、雲が渦を描き、そこから“何か”が降りてきた。
渦の中から伸びる無数の光の触手のようなものが、ゆっくりと、だが確実に彼に向かって降りてくる。
その場に立ち尽くしその光景を静かに眺めていると
光の触手のようなものの一本が、翔真の胸元にすっと触れた。
「ッ……が、ああああああああッ!!」
焼けつくような痛みが全身を駆け抜けた。
胸の奥が灼かれ、心臓が軋むように暴れ出す。
視界が白く染まってゆき、何も見えなくなる。
翔真はその場に膝をつき、呻き声を上げながらもがいた。
「や……めろっ…!!……やめてくれ……!!く、苦しい……!!」
次第に身体の感覚も意識も遠のいていく。
全身を覆っていた痛みも、息を呑むような圧力も、何もかも消えていく。
そして内側から何かに破壊され、侵食されながらも、同時に何かが“目覚めていく”感覚が芽生える。
光の触手が、翔真の体を完全に包み込もうとした、
その瞬間―翔真は体を反射的に起こし、飛び起きた。
見慣れたいつもの部屋。現実に戻り、夢だった事を知る。
ふと時計を見ると時刻は4月4日の4時44分。
外はまだ暗く、辺りは静まり返っていた。
「何だったんださっきの。夢にしては妙にリアルだったな…」
ただの夢とは思えなかった。
今でも、胸の奥がうずくように痛い。
光に触れられた“痕”が、確かに残っている気がした。
翔真はゆっくりと手で胸を押さえ、深呼吸した。
また横になると、布団を引き寄せ、ゆっくりとまぶたを閉じた。
――――
――静かな夜の湾岸道路。
煌希は街から離れた海沿いの道を、一人でバイクに乗り走っていた。
ヨットハーバーの照明が遠くに瞬き、潮の香りが夜風に混じって吹き抜けていく。
やがて防波堤沿いの駐車場にバイクを停めると、ヘルメットを脱ぎ、潮風にさらされた髪をかきあげた。
昼間は人がいるマリーナの波止場も、夜ともなれば人気もなく、灯台の明滅と海のざわめきだけが、残っている。
煌希は歩いて海辺の方に向かう。
岸壁には無数のテトラポットが積み重なっていた。
白く、巨大なコンクリートの塊が不規則に重なり合い、波の浸食を受けて黒く湿っている。
その脇の細い通路をすり抜け、階段をひとつ上がると、岸壁の縁へと出た。
「いつ来ても静かだな、ここは。」
煌希はこの場所が好きだった。
街の喧騒も、誰かの気配も届かない。
ただ黙って立っているだけで、自分が自分でいられる気がする、そんな場所。
波音が一定のリズムで耳を打ち、足元には乾いた砂利と湿ったコンクリートの匂いが混ざっていた。
煌希はポケットから小さな箱を取り出し、一本のタバコを唇に咥えると、手慣れた動作で火をつけた。
ライターの炎が一瞬だけ煌希の顔を明るく照らした。
雲の切れ間から顔を覗かせた蒼白い月光が、ゆったりと揺れる海面を照らしている。
波打ち際では、月の光が細い銀の線になって広がり、まるで光の道のように沖へ伸びていた。
遠くのヨットのマストが風に揺れ、微かな鈴の音のような金属音が、夜の静けさに溶ける。
煌希は目を細め、その幻想的な光景をただ眺めた。
現実感が薄れ、どこか別の世界に立っているような錯覚にすら陥る。
次の瞬間、空気が変わった。
まるで世界そのものが、時が止まったかのように。
風が止まり、波の音が消えた。音も、温度も、何も感じない。
煌希はわずかに目を細めた。
――何かが、こちらに向かって“進んでくる”。
凝視したが、波ではない。
水面は揺れていないのに、底の方から、何かが海を押し上げながら近づいてきていた。
「……は?んだアレ」
そして、それは煌希の目の前で停止する。
静寂の中、足元の水際から、泡がひとつ、ぷくりと浮かび上がった。
その直後――突然胸が、熱くなる。
心臓の奥が焼けつくように疼き、咄嗟に胸に手を当てた。
手のひら越しに、何かが内側から脈打ってくる感覚がある。
それは血流ではない。もっと別の、何かが暴れようとしているような感覚。
息が詰まり、視界が揺れた。
目眩がして膝から崩れ落ちると、煌希は地面に片手をついた。
「……煌希……」
――誰かが名前を呼ぶ声が聴こえた。
女の声だった。
囁くように優しい声。
「……煌希、…煌希……」
重なるように繰り返されるその声はどこか懐かしくも、不快だった。
「……あぁー、、、うるせぇ……!!」
煌希は顔をしかめ、堪らず両手で耳を塞ぐ。
だが声は止まらない。耳を塞いでも、頭の奥に鳴り響くかのようだった。
次の瞬間――海が、ざばりと動いた。
水面の奥から、黒い何かが突き上がってきた。
巨大な影のような“何か”が、煌希を目掛けて襲いかかってきた。
「……っ!!」
避ける間もなく、それは彼の脚を絡め取り、強引に海の中へと引きずり込んだ。
冷たい水の中、息ができない。
全身を圧し潰すような水圧の中で、煌希はもがいた。
視界が揺れ、泡が弾ける。
そして、水中の闇の中に、誰かがいた。
虚ろな目。血の気の引いた真っ白な顔。
――それは、燦斗だった。
「……アニキ……いかないで……」
囁くようにそう言うと、燦斗が、ゆっくりと手を伸ばしてきた。
すると突然、燦斗は煌希の首を絞めた。
「っ…が……ぐっ……!!」
無感情な表情のまま、両手に力を込めていた。
「お……いっ、や、め……ろっ……!!!」
煌希は苦しそうに息を漏らしながら、燦斗の腕を両手で掴む。引き剥がそうと必死に力を込めた。
だが――びくともしない。
呼吸ができず、頭が痺れた。視界は徐々に暗くなり、脈打つ度に激痛が脳を揺らす。
その時だった。
燦斗の顔の左半分が、黒く染まり始めた。
まるでインクを零したかのように、漆黒の液体が瞳から漏れ出ると肌を這い、眼窩を覆い、頬まで浸食していく。
痛みと混乱と恐怖が、同時に胸を突き上げる。
泡が視界を覆い、光が遠のいていく――
そのまま気を失うと、何もかも全てが闇に染まった。
「っ……はッ!!」
煌希は跳ねるように飛び起きた。
荒く息を吐きながら、胸元を押さえ、目を見開いた。
目覚めた場所はベッドの上、いつもの天井。
――自分の部屋だった。
全身に冷や汗が滲み、息をする度に肺が焼けるかのようだった。
「……夢、かよ……」
低く呟いた声が、静まり返った部屋に響いた。
煌希は布団を乱暴にめくり上げ、ゆっくりと体を起こす。
リビングに入ると、月明かりがカーテン越しにうっすらと床を照らしていた。
煌希は電気を点けずに、冷蔵庫の所まで行き、扉を開けるとミネラルウォーターのボトルを一本引き抜く。
「……っくそ、なんだったんだ、さっきの……」
そう吐き捨てた瞬間、背後から気配がした。
「バァッ!!!」
「うおッ!?」
声と共に、背中に何かが飛び乗ってきた。
バランスを崩し、水の入ったペットボトルを落としかけそうになる。
「……ッ!てめェ…っこのクソガキが!!」
煌希は乱れた呼吸のまま振り向きざまに叫んだ。
後ろで燦斗がニタァっと満足げな笑みを浮かべて立っていた。
「うっわ、マジで驚いてんじゃん!ウケる〜」
「っざけんな!!舐めやがって!!」
「えー、兄貴って、ビビるとそういう声出すんだ~?」
「うるせえ!!二度と夜中に話しかけてくんな!」
「了解でーす。次はクラッカーで驚かしてみるわ」
「……殺すぞ」
煌希は溜息をつきながら、ソファに座ると手に持ったペットボトルの水をゴクリと飲んだ。
パチン――。
その音と共に、部屋の照明がふわりと灯る。
燦斗は何食わぬ顔でリビングの電気をつけ、そのままスタスタと冷蔵庫の方へ歩いていく。
ペタペタと歩くスリッパの音が、リズミカルに聴こえた。
燦斗は冷蔵庫を開け、しばらく中を物色するように眺めていた。
「……あれ、アイスどこいった?」
「あるかそんなもん。つーか、夜中にアイスなんか食うなよ」
「だってさー、この時間小腹すくじゃん」
冷蔵庫の扉を支えたまま、燦斗がこっちに顔だけを向ける。
「……だったら明日買っとけ。俺の分はチョコミント以外でな」
「え〜、チョコミントうまいのに」
「あんな歯磨き粉の味するやつ、誰が好き好んで食うかっての」
そんな軽口を交わすうちに、後期は少しだけ肩の力が抜けた気がした。
けれど、さっき見た夢の断片が、頭の片隅から離れなかった。
「……アニキさ」
燦斗が、また冷蔵庫の中に視線を戻しながら言った。
「なんか、悪い夢でも見た?」
「は?」
反射的に返した声は、わずかに強張っていた。
思い出す気もなかったのに――
胸の奥に焼きついたあの感触が、一瞬で蘇る。
しかし、煌希はすぐに平常を装い、ペットボトルを持ち直す。
燦斗も冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを引き抜くと、キャップを回し一口飲んでこちらを見た。
「……別に」
煌希はそっけなく答える。
けれど、言葉とは裏腹に、ペットボトルを握る手には無意識に力が入っていた。
「ふーん。じゃオレ、先に寝るわ。おやすみー」
「さっさと寝ろ、バカ」
燦斗はひらひらと手を振って、ふらふらしながらリビングを出ていった。
その背中を、煌希は何も言わずに見送った。
まだ微かに“焼けるような痛み”が胸元に残っている。
それは夢で感じた痛みだったのか、それとも……。
煌希はもう一度、ゆっくりとペットボトルを持ち上げた。
冷たい水が喉を流れていくのを感じながら、ただ黙って、じっと目を閉じた。